三 : 凡愚な分別者の苦慮-(10)分別者の粘り勝ち
東軍勝利の報に接しても、利長は軍を進めた。途中、越前の西軍方に与した大名を降伏させながら南下し、近江へ入った。
慶長五年九月二十二日、前田勢は近江・大津へ到着。ここで利長は大津城に居る家康と面会した。大津城は関ヶ原の戦いに先立ち京極高次が三千の手勢で“天下無双”と秀吉に絶賛された立花親成を始めとする西軍勢一万五千(一説には四万とも)と激闘を演じ、大筒の弾で天守が破損するなど壮絶な戦いの爪痕があちこちに残されている。大坂城には毛利輝元が大軍と共に依然居座り続けており、退去に向けた交渉が水面下で進められていた。
無事だった本丸御殿の広間へ案内された利長は両側に徳川家家臣がズラリと並ぶ中、前より遥か下座に座るよう促される。家康と直接会うのは去年八月以来だが、この一事だけでも世の流れが変わったと痛感させられた。
やがて、奥から足音が聞こえてきた。それに合わせ、利長は頭を下げる。
高座に家康が着席したのを受け、利長は口を開いた。
「内府様に於かれましては、先の戦で畏れ多くも上様の下命と騙り追討せんとする逆賊共に勝利されましたこと、祝着至極に存じ奉りまする」
祝辞を述べる利長に、高座の家康が「うむ」と短く応じる。前回と明らかに応対が異なった。
「中納言、面を上げよ」
「ははっ!!」
家康から促され、利長が顔を上げる。敬称や配慮ある言い方をしていた家康だったが、今は臣下の如く接している。まだ形式上はお互い大老の同格だが、完全に主従の扱いである。そして、それを利長は当然のように受け容れている。
利長は、高い位置に座す家康を仰ぎ見る。これまでも歴戦の猛者が身に纏う風格や豊臣家筆頭の家臣たる貫禄が備わっていたが、今は頂に立つ者が発する威厳が滲み出ている。天下人だった信長・秀吉を見てきた利長は、家康にも同じ空気が出ていると感じた。
最早、天下の趨勢は決した。利長は抗わず素直に受容した。そもそも家康相手に真正面から啖呵を切る度胸など無く、辛抱ならんと沸点を超えた時も母や功臣に諫められ振り上げた腕を下ろした。余命幾許も無い父の覚悟に気付かず、難癖を付けられても相手から提示された屈辱的な条件を呑み、母を人質に取られてからは徳川の犬のように働き続けた。この選択が正しかったかどうかは後世の人間が判断する事だ。
自らへ言い聞かせるように腹へ落とし込んだ利長は、再び言葉を発す。
「此度は遅参致し、内府様の要請を果たせず真に申し訳ございません」
そう言い利長は深く頭を下げる。遅延工作も図ったが利政の軍令違反やその対応が根本的な要因である。ただ、それはあくまで前田家中の事情で、それを理由に弁解する気は更々なかった。故に、利長は遅れた事実を素直に謝罪した。家康が利長の延着を咎めるなら、その責は甘んじて受ける心算だ。
それに対し、家康は「よいよい」と軽い調子で返す。
「お主が色々苦労されたのは存じておる。それに、お主を罰すれば我が家中にも火の粉が飛ぶ」
前田家の内情を掴まれていた事は今の家康の発言で確信したが、それでも責められないのは理由がある。高座のすぐ側に控える本多正信や榊原康政など居並ぶ面々の多くがバツの悪い顔を浮かべている事が関係する。
畿内で徳川追討の兵が挙がった事をしった家康は上杉征伐に参加していた諸大名と共に反転したが、上杉勢がこれを追って関東へ雪崩れ込む事を特に警戒していた。上杉勢が南下した場合は奥羽の伊達政宗・最上義光が会津へ攻め込む算段だったものの、天下への野心を胸に秘める政宗や立ち回りの巧さで版図を拡げてきた事から“羽州の狐”と呼ばれる義光が家康の想定通りに動かないかも知れない。その為、上杉勢の押さえを任せた結城秀康だけでなく嫡男・秀忠を大将に徳川家譜代を中心とした主力三万五千を宇都宮に待機させた。しかし、約一ヶ月が経過しても上杉勢に南進の動きが無い事、美濃で決戦の機運が急速に高まっている事から、家康は秀忠へ中山道から美濃へ向かうよう指示。慶長五年八月二十四日、秀忠率いる別動隊は宇都宮を出発し美濃を目指した。
中山道沿いの諸大名は元々上杉征伐に参加していた者も多く、別動隊は順調に行軍を続けた。しかし、信濃へ入り問題が浮上する。西軍方へ鞍替えした上田城主・真田昌幸への対処だ。昌幸は天正十年に徳川家へ臣従したものの上野国沼田領の北条家譲渡を巡る摩擦が生じ、上杉家へ鞍替えした事に激怒した家康は天正十三年八月に真田家討伐へ七千の兵を送った。だが、閏八月二日に行われた戦で昌幸の謀策に翻弄され大敗。この苦い過去が徳川家中に残っていた。
先を急ぎたい秀忠は九月二日に小諸へ到着すると昌幸の嫡男・信幸と信幸の義弟・本多忠政を上田城へ派遣し降伏を促すと、昌幸はあっさりと受諾。しかし二日経っても引き渡しに応じない事へ腹を立てた秀忠は最後通牒を送ると、昌幸は「力づくでどうぞ」と挑発。愚弄されたと激昂した秀忠は正信など家臣達の諫言を無視し城攻めを決めた。
慶長五年九月六日、苅田で挑発し出撃した真田勢を撃退し引き揚げる敵を追いかけ城へ攻め込むも、城内で猛反撃に遭い死傷者を出した事から退却。そこへ真田勢が予め神川上流に設けていた堰を放ち、引き揚げ途中の徳川勢に鉄砲水が直撃。濁流に呑み込まれさらなる損害を重ねた。前回同様、徳川勢は昌幸の老獪な術中に嵌められた。
散々な負け戦に憤慨する秀忠へ、驚きの報せが入る。九月八日、東海道を往く父より『決戦が近いので九日までに美濃へ着くように』とする書状が届いたのだ。家康の発した使者が雨による路面悪化や川の増水で想定以上に日数を要したのもあるが、城攻めで日数を浪費していた秀忠は大いに慌てた。真田勢へ押さえの兵を残すと、大急ぎで進軍を再開した。しかし、先述した通り中山道は降雨による泥濘や河川の水嵩が増していた事もあり、行軍は困難を極めた。結局秀忠率いる別動隊は決戦に間に合わず、二十日に大津へ到着し合流した次第である。家康は“戦に遅れた”ことより“強行軍で将兵を疲労困憊で連れて来た”ことに怒り、自らの不徳の致すところを詫びたい秀忠の面会要請に暫く拒否したとされる。
以上の経緯から、利長の荏苒を糾弾した場合、秀忠や正信・康政など嫡男や多くの譜代の家臣達にも累が及ぶので、家康は不問とせざるを得なかった。
「さてもさても、お主も運が良いのう」
脇息に肘を付き、頬杖をしながら溢す家康。利長を見据えながら続ける。
「我等にも敵にも関与せぬよう、あれこれ理由を付けて時間を稼いだ。そして、望んでいた決戦の不参も果たした」
「はて。何の事ですかな」
尋問を躱そうとする利長へ「惚けるな」と詰め寄る家康。
「お主が御家の保全第一に動いていた事は誰の目にも明らか。図らずも真っ当な理由が重なり、最高の結末を迎えた。これを運が良いと言わずに何となる」
口惜しそうでも、憎々し気でも、糺してる訳でもなく、家康は淡々と述べる。その口調から、利長は責められていると感じない。
フゥと一息吐いてから、家康は言葉を継ぐ。
「儂も運が良かったから今日まで生き永らえたし、此度の戦にも勝てた。その為に裏で形振り構わず勝ちを掴むべく八方手を尽くし、足を踏み外せば奈落の底へ真っ逆様となる綱渡りを幾度も乗り越え、甘受し難い要求も切歯扼腕の思いで耐えた。武家は繁栄も大切だが、家と土地を次代へ繋ぐ事こそ第一。お主の振る舞いを“腰抜け”だ“惰弱だ”と、儂は批難出来ぬ。運の巡り合わせに恵まれた儂が同じような者を貶めては、いつか天から罰を受ける事になる」
来年で還暦を迎える家康の言葉は、とても重みがあった。家康が紆余曲折・波瀾万丈を経て実質的な天下人の座を射止めた苦労人である事は周知の事実で、二十歳若い利長からすれば金言に等しい。居並ぶ徳川家の家臣達も主君の言葉に聞き入る。
利長が黙っているので、家康は話を続ける。
「経験や地位で器が成長する事もあるが、身の丈に合わぬ度を超えた行動を犯して身の破滅を招いた者は数知れず。分別こそ肝要ぞ」
しみじみと語る家康は、戦国乱世に揉まれる中で栄枯盛衰を見届けた生き字引でもある。
今川氏真は父・義元の築いた版図を堅持すべく器量に見合わぬ背伸びをしたが故に家臣の離反を招き、武田勝頼は偉大な父に負けじと無理な攻勢に出て勝ち続けた事を自らの力と勘違いし設楽原の惨敗を喫し、秀吉は天下統一の偉業に飽き足らず明征服という無謀な挑戦で家中に深刻な罅が生じた。家臣に限界以上の働きを求め不要と見做せば功臣だろうと弊履を棄つるが如く追放した末に明智光秀の謀叛で非業の死を遂げた信長も似たようなものか。昇り調子でも落ち目でも、総じて衰亡の途を歩むのは一緒だ。そうした失敗例を間近で見てきたからこそ、家康は自らを戒める箍とした。
今の家康の発言は利長ではなく若い家臣達への訓示だと思われる。
直後、「ふふふ」と家康は軽く笑う。
「その点で言えば、お主は模範的な分別者よ。己の身上をよく弁え、やれる限度内で立ち振る舞う。それでいて、敵を作らない。皆がお主のようならば、世はさぞ安寧だろうな。……いや、それはそれで些か面白味に欠けるか」
そう語ると家康は再び「ふふふ」と笑う。愉快そうな家康に対し、どう答えたらいいか分からず黙り込む利長。
褒められているとは思うが、忠実な家来と言われているみたいで複雑な気分になる。それでも利長は家康の機嫌を損ねぬよう、顔を俯き加減にじっと固まる。
「前田中納言」
一頻り笑っていた家康は顔付きも呼称も改め、呼び掛ける。
「はっ」
「此度の働き、遅参を差し引いても北陸道を鎮めた功績は大きい。それを評価し、南加賀を加増しようと思っておる」
サラリと述べた家康の内示に、利長は衝撃を受けた。のらりくらりと決戦の回避に努めてきたので本領安堵だろうと思っていただけに、望外な恩賞に驚く。
まだ大坂城に輝元が居座っている為に今回の戦の論功行賞が執り行えないが、家康の提示は利長が言葉を失うに充分だった。南加賀で該当するのは丹羽長重(小松十二万五千石)・山口宗永(大聖寺五万石)・山口修弘(江沼郡内一万三千石)の三家だけでも十八万八千石。現在の八十三万石余りと合わせれば百万石に達する。これに豊臣家蔵入地や旗本の領地もあるので、さらなる上積みも見込める。
「ありがたき幸せ……!!」
深々と頭を下げ、感謝を表す利長。体が震えそうになるくらいに嬉しかった。
「内府様。憚りながら、一つ申し上げたき儀がございます」
利長が恐縮しながら許可を求める。気分の良い家康は軽い調子で「申してみよ」と促す。
発言を認められた利長は、腹にグッと力を込め告げた。
「小松宰相・羽柴北ノ庄侍従の両名は大谷“刑部”(吉継)の口車に乗せられ不本意ながら敵方に与してしまいました。両名は今回の軽挙を深く反省し、降伏の証として人質を差し出して参りました。どうか、寛大な処分をお願い致しまする」
降伏に際して丹羽家から長紹、青木家から一矩の嫡男・俊矩を預かっている。吉継は関ヶ原の戦いで自刃しており、死人に口無し。無理筋かも知れぬが騙されたと弁解し御家存続に一縷の望みを託した恰好だ。
和睦の約束を履行すべく利長は嘆願したが、家康は「考えておこう」とつれない態度を見せた。天下人の座を実質的に掴み取った家康は全国の諸大名の生殺与奪の権限を握っている。自らの天下獲りに貢献してくれた者には恩賞を、刃向かった者は良くて減封・改易なら御の字・最悪斬首や切腹が待っている。これまで徳川家を支えてくれた譜代の者達や関ヶ原本戦で奮闘してくれた豊臣恩顧の大名達に報いる分の所領を捻出する為には、敗者から取り上げ削る他ない。日ノ本の領土は限られており、利長の願いは望み薄だった。
想いを預かった身として虚しさを覚える利長だが、これが精一杯だった。加増を辞退する覚悟で再考を求める程の義理は無い。非情と罵られようとも、前田家の当主たる利長は自らの家を優先するのは当然のことである。
用は済んだとばかりに席を立つ家康。退室して行く家康を利長は平伏し送り出す。頭を垂れながら、時代が変わった事を痛感する利長だった。




