一 : 命を削りて尽くす忠-(3)御掟違反
大阪への移徒を完了させたのも束の間、家康による看過出来ない情報が入ってきた。公儀に無断で家康が諸大名と婚姻を結んでいるというのだ。
朝鮮から帰国する将兵達を受け入れる準備の為に石田三成・浅野長吉(後の長政)・毛利秀元が八月下旬に九州へ出発する中、家康は秘かに動き始める。十一月二十六日に長曾我部元親の屋敷を私的に訪問したのを皮切りに、複数の大名の屋敷を訪問。この行動は“徒党を組もうと画策している”と捉える者(特に家康を“豊臣家に何れ害を及ぼす存在”と敵視する三成)も居たが、『私の味方になってほしい』等の明確な誘いがあったならまだしも私的な訪問まで取り締まりの対象に入れたらキリがないとして利家や他の大老・奉行達は(疑わしいながらも)目を瞑った。
ただ、今回の婚姻は別だ。秀吉が生前定めた『御掟』を明確に違反していた。
事の発端は四年七月三日、秀吉の甥で関白・豊臣秀次の元を石田三成達が訪れ、巷で流布する謀叛の嫌疑や数々の不行跡について問い質したのだ。この査問に対し秀次は事実無根だと否定するも、八日に再び使者が訪れ『本当にその気が無いなら伏見へ来い』と言われた秀次は疑念を晴らすべく素直に応じた。ところが、伏見へ出頭した秀次に秀吉は対面どころか出仕すら認めず、全てを悟った秀次は出家し高野山へ上った。ただ、それでも赦されず十五日に高野山の秀次に切腹するよう命が下されたのだ。高野山側は“現世で如何なる罪を犯した者でも高野山に入れば俗世から離れたと見做され、何人たりとも統治者の介入は認められない(無縁の原理)”が適用されると猛反発、使者と寺側で一触即発の事態に発展寸前になったが……秀次は自害。享年二十八。秀次の罪状は一部事実も含まれていたが大半は虚偽だった事から、実子の拾(秀頼)に跡を継がせたい秀吉やその心中を慮った三成を始めとする側近達による陥穽の見方が強かった。
後継候補の一本化を完了した秀吉は、先々を見据え手を打つ事にした。同年八月三日、諸大名のみならず公家・民草に至るまで遵守すべき事柄を列記した『大坂城中壁書』、一般的に『御掟』と呼ばれる規則が貼り出された。その内容は以下の通りである。
『一、秀吉(公儀)の許可を得ず大名間で婚姻を結んではならない
二、大名間での誓紙交換禁止
三、喧嘩や口論は我慢した方の筋が通る
四、讒言があった場合は双方から話を聞いた上で裁定する
五、輿に乗る事を許される者について』
さらに、この五ヶ条では足りないと思ったのか、以下の内容が追加された。
『一、公家への奉公を怠らないこと
二、神職仏僧を敬い教えを授かること
三、豊臣政権下の年貢率は二公一民とするが、税率は統治者の判断に委ねる
四、大名でない者に対する制限や大名の側室に関する制限について
五、与えられた知行分の奉仕を義務付けること
六、直訴方法と受付窓口は大老とすること
七、一部の例外を除き菊紋(天皇家)・桐紋(豊臣家)の使用禁止
八、酒を飲み過ぎないこと
九、覆面し身分を偽り移動することの禁止』
追加分の九ヶ条を合わせた十四ヶ条で構成される『御掟』の多くは大名の行動指針や禁則事項であるが、特筆すべきは最初の二項。武家同士で徒党を組む事を固く禁じ、豊臣家への謀叛や大名同士の争いの芽を摘む狙いが明確に込められていた。この『御掟』は秀吉の死後も政権運営の基盤として継続されていたが……家康はこれを公然と破ったのだ。
聞くところでは、“辰千代(家康六男、後の松平忠輝)と五郎八姫(伊達政宗長女)”、“満天姫(松平康元の三女、家康の姪・養女)と福島正之(正則嫡男)”、“万姫(小笠原秀政の長女、家康の曾孫・養女)と蜂須賀至鎮”、“かな(水野忠重の長女、家康の従妹・養女)と加藤清正”、“栄姫(保科正直の長女、家康の姪・養女)と黒田長政”といった面々で、政宗以外は豊臣恩顧の大名ばかり。自派閥への取り込み行為と解釈していいだろう。
「これは紛れもない『御掟』違反です!!」
そう気炎を上げるのは、反家康の急先鋒・石田“治部少輔”三成。通称“治部”。永禄三年生まれで四十歳。近江の土豪の三男坊だった三成は秀吉の小姓として仕え始めると、頭の回転の早さや算勘能力がずば抜けていた事から能吏として秀吉を支え、最側近に昇り詰めた。自らを引き立ててくれた秀吉に一方ならぬ恩義を抱いていた三成は、豊臣家の天下を壊そうとしている家康を目の敵にしていた。
大坂城の大広間に詰めた四大老・五奉行、それに利長を含めた陪席を許された数名が今回の一件について協議をしていた。
「まぁ待て、治部殿。まだ決まった訳でもあるまい」
息巻く三成を宥めるように声を掛ける利家。さらに言い募ろうとする三成へ機先を制するよう「それに」と利家が続ける。
「太閤殿下が遺された『御掟』にもあるではないか。“讒言があった場合、双方から話を聞く”と」
利家の指摘に三成はグッと言葉に詰まる。『御掟』の策定には三成も関与しており、自らが携わった法令を破るのか? と利家が質した恰好だ。
この場に居合わせる面々も、家康の行動を問題視している点では一致している。大老筆頭で代表たる利家が粛々と述べる。
「もしこの件が正しいなら由々しき事態だ。まずは内府(家康の官名“内大臣”の略で通称)殿に問い質してみようではないか」
父の口調は淡々としていたが、利長には分かる。あれは静かなる怒りの炎を燃やしている、と。
無二の友から後事を託された父も、三成に勝るとも劣らぬ責務を胸に秘めていた。秀頼を、豊臣家を、そして秀吉が築いた天下を乱そうとするならば、例え家康であろうと容赦しない。その強い想いは父の全身から滲み出ていて、同席する者達は利長も含め息を呑む。
通常ならば疑わしい案件の詮議は奉行衆の担当だが、今回の相手は大老筆頭の家康だ。そこで大老や奉行から独立し仲裁する“三中老”の生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏を問罪使として家康の元へ送る事を決めた。
ただ、家康の回答次第で大坂と伏見の間で戦が起きるかも知れない。先行き不透明な情勢に、利長も顔を強張らせていた。
慶長四年一月十九日、伏見の徳川屋敷を訪れた三中老は家康と面会。昨今騒がれている大名間の婚姻について糺した。しかし……。
「忘れてた、とな?」
伏見から戻って来た三中老の報告を受けた利家の第一声が、大坂城大広間に響いた。
「はぁ……曰く『儂も年齢を重ね物忘れをするようになってな。失念しておった』と……」
弱ったような表情で答える生駒“雅楽頭”親正。大永(“たいえい”とも)六年〈一五二六年〉生まれで七十四歳。高齢の親正や還暦を過ぎた利家を相手に年下の家康が健忘を言い訳にするとは片腹痛い。居合わせる利長も含めた同席者も苦虫を噛み潰したような顔を浮かべている。
直後、「それから……」と補足するのは堀尾“帯刀長”吉晴。天文十二年〈一五四三年〉生まれで五十七歳。“帯刀先生”の通称で親しまれ、良識人として知られる。
「内府様は『今井“帯刀左衛門”が仲立ちをしたから、そちらから申請されたと思っていた』とも」
「そんな理屈が通るか。御伽衆とは言え、たかが商人如きに『御掟』のことなど知っている筈がなかろう」
吉晴の弁明を一蹴する三成。
今井“帯刀左衛門”宗薫。天文二十一年生まれの四十八歳。堺の豪商で茶人・今井宗久の子である。父の宗久は逸早く上洛してきた織田信長に接近し重用されたものの、天下人が秀吉になってからは冷遇された。こうした背景から宗薫は早い段階から次の天下人候補たる家康に近付いた。宗薫が持ち掛けた縁談だから公儀に申請を出しているとする家康の弁解には些か無理がある。
その吉晴も見え透いた嘘を鵜呑みにしている訳ではなく、相手が家康だから報告したのであり並の大名なら即座に斥けていただろう。
「さらに……」
言いにくそうに切り出す中村“式部少輔”一氏。生年不明だが三中老に任じられた事から相当な年齢と推察される。それに対し“まだあるのか”と呆れる利家と顔を歪める三成。同席する者達も粗方似た反応をしている。
当人も本心では言いたくないだろうが、役目である故に嫌々といった態で話す。
「我等三名が婚姻の件について質疑を重ねていく内に、内府様は『儂は今際の際にある太閤殿下が自ら手を取って政を託された身。それにも関わらず在りもせぬ罪を捏ち上げて追い落とそうとするのは言語道断である!!』と激昂されまして……」
一氏の説明に居並ぶ面々も開いた口が塞がらなかった。『御掟』違反を犯したにも関わらず、再三詰問されると“貶める心算か!?”と居直り三名を恫喝したのだ。盗人猛々しい家康の態度に、全員が言葉を失う。
沈黙に包まれる大広間。それを破ったのは三成だった。
「何たる事か! 『御掟』を破った分際でありながら逆に脅すとは言語道断! 公儀への叛意は明らかな以上、直ちに大老職から罷免すべ――」
「治部、喧しい」
怒髪天を衝く三成を、一言で封じる利家。ボソッと呟いた程度の声量ながら、利家の圧に三成も思わず口を噤む。
家康が意図的に挑発しているのは誰の目にも明らか。三成の怒りも尤もだ。しかし、場は水を打ったように静まり返る。
利長を含めた全員が、利家の発言を注視する。暫時俯いていた利家はハーッと息を吐いてから、顔を上げて告げる。
「まだ、内府殿からしか話を聞いておらず、他の者達からも聴取せねばならぬ。中老の御三方には引き続き、奉行の方々もお願い申す」
「――ははっ」
冷静な声で指示を出した利家に、三中老や五奉行が緊張した面持ちで応じる。家康は尻尾を出さなかったが他の者から言質を取れれば罪を糺す突破口になる。その為、頼まれた面々はその重責に身が引き締まる思いだ。ただ、海千山千の者達が簡単に襤褸を出さないだろうが。
一拍の間を挟んだ利家は「それでも」と言葉を継ぐ。
「疑義が晴れない場合は……大老の衆で内府殿の扱いについて諮る所存」
ゆったりと述べた利家の言葉は、聞き手の心にズシリと重たく響く。
家康の処遇について初めて言及した利家だが、咎や罪を喚き立てる三成より遥かに迫真を帯びていた。例えるなら“抜刀する前に鯉口を切る”、そんな状態だ。
同じ大老の職に就く毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三名も、険しい表情で頷く。それを確かめた利家は方針が定まったとして合議の締めに移る。
「では、各々方。よしなに頼む」
その一言で合議は散会となった。大老筆頭の利家がゆったりと立ち上がり部屋を出て行ったが、その後に誰も続こうとはしなかった。事の重大性を象徴するように、大広間は重苦しい雰囲気に包まれていた。天井を仰ぐ者、顔面蒼白で固まる者、むっつり黙り込む者、眉間に皺を寄せる者、俯き加減に考え込む者と十人十色の反応を示す中、利長は百戦錬磨の猛者達を一つに纏め上げられる父の凄さを実感すると共に、自らに同じ役割を求められる機会が巡ってくると考えると恐怖が湧き、暫く立ち上がる気力さえ起きなかった。
父より遅れて屋敷に戻った利長に、利家付の小姓から“帰城後直ぐに自分の所へ来るように”と伝えられた。伝言通り父の部屋へ向かうと、顔色を悪くしながら脇息に凭れ掛かり辛うじて座る姿が目に飛び込んできた。
「父上!!」
「心配要らぬ。ちと疲れただけだ」
大坂城で威厳に満ちた人と同じとは思えない程に衰弱する父は、気に掛ける利長へ短く答える。だが、肩を上げ下げするくらいに息が荒く、大丈夫そうには到底映らない。
それでも背筋を伸ばすと、精一杯の体裁を整えた父は利長に訊ねた。
「大坂に、どれくらいの兵がある?」
「凡そ五百にございます」
利長が答えると、父はやや思案して告げる。
「国許へ至急遣いを送り、直ちに兵を上坂させよ。数は……そうだな、三千でよかろう」
父の指示に、利長は驚愕した。在駐する兵と合わせれば三千五百、戦を起こせる規模だ。
瞠目する利長へ、落ち着いた様子の父はサラリと明かす。
「儂だけでない。安芸中納言(毛利輝元の通称)も殿下が亡くなられた直後に兵を上坂させておるし、彼奴も万一に備え坂東から兵を寄越すだろう。この先、何があっても不思議でない。兵は多いに越した事はないからな」
慶長三年八月二十八日、輝元は三成を始めとする奉行四名に『大老の中で奉行の意見を聞かない者が出れば、それが秀頼への謀叛でなくとも五奉行に味方し秀頼公を守る』旨の起請文を出した上で、国許から兵を上坂させている。また、家康も江戸の秀忠へ兵を急ぎ伏見へ送るよう命じていた。各々が“もしも”の事態を想定して動き出していた。
「お主は“奴”と向後の事について話しておけ。儂は……少し、休む」
「畏まりました」
用件を済ませた父は利長の手を借りながら立ち上がり、寝室へ向け歩き出した。その覚束ない足取りや小さくなった背中を見送りながら、父の老いを感じずにいられなかった。