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三 : 凡愚な分別者の苦慮-(9)関ヶ原本戦

 時は少し(さかのぼ)る。

 西軍方の岐阜城陥落に危機感を抱いた石田三成は、伊勢・北陸方面の部隊へ美濃へ至急参集するよう呼び掛ける共に、大坂に居る総大将・毛利輝元へ出陣要請を出した。しかし、“輝元が出陣した隙に家康へ通ずる者が蜂起する”という噂を真に受けた淀の方から(秀頼の身の安全を優先し)大坂へ留まるよう強く求めた為、出陣の話は流れた。淀の方の不安を煽る噂は家康が流した虚報で、まんまと騙された恰好だ。それでも九月七日には毛利秀元を大将とする毛利勢が美濃へ到着し南宮山なんぐうさんへ陣を敷き、十四日には戦線を一時離脱していた小早川秀秋が大軍を率いて松尾山に入るなど、これ以前に到着していた宇喜多秀家・小西行長などと合わせて西軍の主戦力が関ヶ原周辺に集結した。

 一方の家康。目立たぬよう東海道を西上し、十四日に美濃・赤坂に着陣。ここで始めて家康は自らの所在を示す“厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)”の(まとい)や金扇の大馬標(うまじるし)を掲げた。突如降って湧いた家康の登場に西軍方では動揺が広まり、嫌な流れを変えるべく小規模な戦闘で勝利を収めたものの、局面を変えるに至らなかった。城攻めは避けたい家康は『東軍が大垣城を素通りし大坂へ向かう』と偽情報を西軍へ流し、秀頼公や淀の方の身を案じた三成は城から出て野戦に臨む決定を下した。夜に大垣城を発した軍勢は北の石田三成(笹尾山)から南の大谷吉継(山中村)まで南北に連なるように布陣、東軍の行く手を阻む布陣を敷いた。

 九月十五日、払暁(ふつぎょう)。関ヶ原一帯が濃い霧に包まれる中、“豊臣家中の覇権争い”ではなく“徳川家による天下獲りの大一番”にしたいと考えていた家康は、この戦で先鋒を任せていた福島正則を出し抜き松平忠吉・井伊直政の手勢が宇喜多勢に鉄砲を撃ち掛ける事で開戦。遂に天下分け目の大戦(おおいくさ)の幕が上がった。

 開戦時、東軍約七万・西軍約八万。加え、関ヶ原の山や丘陵(きゅうりょう)の多くを西軍が押さえていたのもあり、序盤は西軍優勢で戦が進んだ。しかし、家康本陣の背中側に当たる毛利勢を主とする軍勢や松尾山に陣取る小早川勢、石田勢と小西勢の中間に布陣する島津義弘勢は傍観に徹しており、実際は東軍よりかなり少ない戦力で善戦している状況だった。

 南宮山の毛利勢を実質的に指揮する重臣・吉川広家は事前に東軍方と“参戦しなければ毛利家は本領安堵”の密約を交わしており、攻撃される心配は皆無だった。それより家康を苛立たせたのは、小早川秀秋である。“寝返れば大幅加増”を約束したのに松尾山へ籠もったままだった。何とか戦局を打開したい家康は松尾山の(ふもと)から山頂へ向けて威嚇射撃を行わせ、秀秋に決断を迫った。一つ間違えば矛先が自らへ向けられる危険な賭けだったが――秀秋は東軍への鞍替えを選んだ。

 小早川勢は麓の大谷勢へ襲い掛かるも、秀秋の造反を予め想定していた吉継は対応し逆に押し返した。しかし、ここで予期せぬ事態が起きる。小早川造反に備え配置していた四部隊が同調、予想外の展開に大谷勢は三方向からの攻撃を受け大谷勢は壊滅・吉継は自刃した。大谷勢壊滅で辛うじて保たれていた均衡は崩れ、その余波は西軍勢を次々と呑み込んだ。行長・秀家が戦線から離脱し、最後の最後まで持ち(こた)えていた三成も敗走した。大勢(たいせい)が決してから動き出した島津勢による捨て身の的中突破に家康は肝を冷やしたものの、天下分け目の大戦は家康率いる東軍勝利で幕を閉じたのであった――。


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