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三 : 凡愚な分別者の苦慮-(1)南加賀進軍

 慶長五年七月十七日。同日に大坂入りした毛利輝元を総大将に西軍が挙兵。東軍に属する大名へ圧力を掛けるべく豊臣家へ人質に出されていた妻子を大坂城へ収容しようとするも、これを拒んだ長岡忠興の妻・ガラシャが自刃・屋敷が炎上する事態を招いた事で、屋敷を厳重に囲む方針転換を余儀なくされた。

 十九日、輝元は大坂城西ノ丸へ入城。その後軍議が開催され、第一目標に鳥居元忠以下徳川勢約二千が籠もる伏見城攻略と長岡家が治める丹後制圧を掲げた。

 片や、東軍。二十一日に江戸を出発した家康だが、進軍速度は実にゆったりしていた。二十四日、下野(しもつけ)国小山で西軍挙兵の報を受けて家康は重臣を集め今後の方針について協議。翌二十五日に上杉征伐へ参加している諸大名を集めて緊急の軍議を開催し、俗に“小山評定”で家康追討の挙兵を主導した(と思い込んだ)石田三成の非道を批難し、一部の将を除く大多数が家康に従い西軍と対決する意志を表明。次の日から反転し西進を開始した。

 そして――七月二十六日、利長は約二万五千の軍勢を率いて金沢を出陣。南へ進軍を開始した。西軍方で敦賀城主の大谷吉継の説得工作で府中五万石の堀尾吉晴を除く南加賀・越前の諸大名が西軍方に付き、行く手は敵だらけの状況だった。これは予め前田家側も予想しており、南進するには一つ一つ(しらみ)潰しにしていく必要がある一方、利得もあった。

「小勢力が分散している弱点、とな?」

 進軍途中の休憩時、各個撃破が(わずら)わしいと捉えていた利長に、右近は好都合だと言う。

「はい。この先に十万石を超す規模を持つのは小松宰相殿と羽柴北ノ庄侍従(一矩の通称)殿の御二方のみ。他は数万石の規模が小さな大名ばかりですので……」

「……結集しない限り、我等の敵ではない」

 利長が答えると、右近は首肯する。

 十二万石の丹羽長重や二十万石の青木一矩は数千の兵を抱えているが、これより少ない大名は一千か二千が精一杯。前田勢二万五千という圧倒的兵力の前では赤子の手を(ひね)るようなものだ。複数の勢力が合体し抵抗しようにも、親兄弟や親戚なら多少横の繋がりがあり一枚岩になれるが、赤の他人同士が短期間で緊密な関係を築くのは極めて難しい。連携が不十分なら烏合(うごう)の衆に過ぎず、前田勢を(おびや)かす存在にならないと右近は説くのだ。

「越前の諸侯が揃って北ノ庄に籠もれば話は別ですが、その心配は無用です。細作の調べでは、北ノ庄侍従殿は病に臥せっているとか」

 右近の話に「真か!?」と身を乗り出す利長。それが事実なら大きな朗報である。

 青木一矩の母・大恩院は秀吉の母・大政所の妹(または姉)とされ、初め秀吉の弟・秀長に仕えるも秀長病死後は直臣となった。ただ、関ヶ原の戦いから少し後の十月六日(十日の説あり)に病死している事から、旗頭になるどころか青木家の去就について東西どちらに付くかさえ決めかねている状態だった。

 北ノ庄城は(かつ)て柴田勝家が築いた巨大な城は焼失したが、秀吉は越前統治のかなめとして移封してきた丹羽長秀縄張りの下で城が再建された。勝家が築いた七層の天守を誇る巨大な城から比べれば劣るが安土城を始めとする数々の城を築いてきた長秀は越前の政庁に相応の簡単に落とせない堅固な城を造った。ここに越前の小勢力が集結し万を超す兵が籠もれば大軍の前田勢でも攻略に難儀しただろうが、城主の一矩が病床にあるのでは“小異(しょうい)を捨てて大同につく”戦略は実現不可能だった。

「越前は扨措(さてお)きまして、先ずは眼前の敵をどうにかせねばなりません」

 右近には珍しく悩まし気に顔を曇らせる。利長もまた右近の懸念を理解していた。

 丹羽長重が籠もる小松城は『小松軍記』内で“北陸無双”と称される堅牢堅固な城で、丹羽勢は三千と少数ながら攻め落とすとなれば相当な日数と相応の犠牲を覚悟する必要があった。

「何とか城の外へ誘い出せないものかのう」

「残念ながら。要害を捨て打って出ても殲滅(せんめつ)されるは明白、貝の如く閉じ籠もるでしょう」

 投げやりに問い掛ける利長に、キッパリと否定する右近。自分が長重の立場でも全く一緒な対応を執ると思う。

 小松城という北陸随一の堅城に籠もるからこそ丹羽勢は互角に張り合えるのであり、野戦なら衆寡(しゅうか)敵せず負けるのは目に見えている。そんな愚行を長重が犯す筈もなく、仮に長重が出撃を主張しても家臣達が身を(てい)してでも止めるだろう。

 だが、落とすのは難しいと分かるが素通りするのは(いささ)(しゃく)に障る。“天下の前田家が逃げた”と丹羽勢に吹聴(ふいちょう)されては沽券に関わる。

 暫し考え込んだ利長だが、ふと何か閃いたように顔を上げる。

「右近。ここは敢えて先を急ごうではないか」

 利長の発案に、右近もその意図を察したみたいで目を見開く。

慧眼(けいがん)にございます。敵は丹羽に限りません」

「あぁ。我等の動きに釣られて城から出てくれれば儲けもの。落としやすい方から叩く」


 慶長五年八月一日。前田勢は丹羽勢が籠もる小松城へ向かうフリを見せてから、(かす)めるように南進。敵の攻撃を待ち構えていた長重以下丹羽勢は肩透かしを喰らった形だが、そのまま通過させては武士の名が(すた)る。長重は大至急部隊を編成し、前田勢の後背(こうはい)を突こうとした。

 数艘の小舟で木場潟へ漕ぎ出した丹羽勢は、湖沿いを進む前田勢へ鉄砲を撃ち掛けた。

「おのれ、小癪(こしゃく)な真似をしおって……」

 丹羽勢奇襲の方向を受けた利長は舌打ちした。ある種望んだ形ではあるが規模は小さくちょっかいを掛けられた程度に過ぎない。大軍で応戦する程ではない一方、放置すれば死傷者を増やす。どうすべきか考えている内に使い番が駆け込んで来た。

「申し上げます。孫四郎様、軍勢を率いて小松城方面へ進軍。敵勢、攻撃を中止し引き揚げております」

 すらすらと述べる注進に、利長は弟の好判断に喝采(かっさい)を送りたい気分だった。

 丹羽勢は三千の手勢を割いて奇襲を掛けてきた。言い換えれば、幾許かの兵が出た分だけ城の守りも薄くなっている。外へ出ていた兵が城へ戻ろうとすれば、隙が生じる。その好機を突いて城を窺おうと利政は考え、行動に移したのだ。

 咄嗟の事ながら機転の利いた弟の発想は素晴らしい。これが初陣だから将来が楽しみだ。

 利政の動きに丹羽勢は攻撃を中止し城へ撤退。前田勢は軽微(けいび)の損害を出しただけで行軍を再開した。

 松山城に入った前田勢は、大聖寺(だいしょうじ)城の山口宗永に照準を定めた。まず小松城を攻めると思っていた宗永は事前の予想を覆し自分へ矛先を向けられ、動転した。城には宗永とは別に加賀・江沼郡内で一万三千石を領していた嫡男・修弘(ながひろ)も加勢していたが、それでも五百程度。到底勝ち目の無い宗永は急いで城の守りを固めると共に、小松城の丹羽長重や越前・北ノ庄の青木一矩へ援軍を要請した。二日、利長は宗永へ降伏を促す使者を送るも……。

「拒んだ、とな?」

 降伏勧告へ遣わされた九郎九郎兵衛・村井久左衛門の両名からの報告を反復する利長。

「はっ。『例え大軍なれど干戈(かんか)を交える前に(くだ)っては武士の名折れ。城が欲しくば力づくで奪われよ』……と」

 九郎兵衛がそう述べると、同席する家臣達から(たん)ずる息が漏れる。

 山口“玄蕃頭(げんばのかみ)”宗永、天文十四年〈一五四五年〉生まれの五十六歳。元は秀吉の直臣ながら甥・秀俊(ひでとし)(後の秀秋)が小早川家へ養子に入る際に付家老となり、若年の主君を補佐する役目を任された。秀秋に北ノ庄転封の決定が下されると宗永は大聖寺城主となり、転封の話が取り消された後も独立し留まった。

「相手が武人としての意地を貫くなら遠慮は無用! 踏み潰すまで!」

 そう息巻くのは神尾“図書(ずしょ)之直(ゆきなお)。永禄八年生まれで三十六歳。利家の家臣として各地を転戦、武功を重ねてきた。熱血漢で直情径行(ちょくじょうけいこう)、身も蓋も無い言い方をすれば典型的な“戦馬鹿”だ。いつもなら向こう見ずな言動に眉を(ひそ)める利長だったが。

「図書の言う事、尤も(なり)!!」

 後先考えない之直の発言に誰かが苦言を呈すのがお決まりの流れであるのに対し、今回は違った。思慮(しりょ)深い利長が()の一番に賛成した事に当の本人もポカンとしていた。

「我等から誠意を示したにも関わらず相手は無碍(むげ)にした。ならば望み通り粉砕するのみ! ……それで構わぬな、右近よ」

 傍らに控える懐刀へ意見を求めると、右近は「はい」と即答する。

「山口様に恨みはありませんが『前田家に刃向かうと同じ道を辿(たど)るぞ』と越前の諸侯へ見せしめとするに恰好の相手。皆々様に於かれましては思う存分、徹底的にやって下され」

「……えーっと、要するに“大暴れしていい”って事でよろしいですよね?」

 目の前で交わされる遣り取りを呑み込めず言い出しっぺの之直がず怖ずと確認してきた姿に利長は滑稽(こっけい)さを感じクスリと笑い、「あぁ」と頷く。

「では各々方、城攻めは明日。皆の働きに期待しておるぞ」

「おぉっ!!」

 督戦(とくせん)を期待する利長の言葉に、家臣達は野太い声で応じた。

 翌三日。門を固く閉ざし籠城策を貫く宗永に対し、修弘は寡兵ながら遊撃戦を敢行(かんこう)。前田勢の先鋒・山崎長徳勢を多少掻き乱した程度で、修弘は味方の援護を受けながら城へ帰還した。その後も修弘は城から打って出るなど勇敢に戦い山口勢も懸命に奮闘するも、二万五千の前田勢相手では多勢に無勢。追い詰められ遂に降伏を表す白旗が城に掲げられた。

「申し上げます。城より白旗が揚がりました」

 山口勢の降参表明が利長の本陣に(もたら)された。これに伴い前田勢は攻撃を一時中断した。

 本来ならば戦意を喪った敵の意向を受諾するのが筋であるのに対し――。

「ならぬ」

 利長は端的に拒絶した。使い番が困惑顔を浮かべるのに対し、利長は続ける。

「そもそも、相手は我等の降伏勧告を蹴った。戦を望んだのに落城間際になって一転白旗を揚げるとは見苦しい。山口勢が最初から素直に開城していれば傷つかず死なずに済んだ者が居た事を考えると、到底受け容れられぬ。相手には悪いが、向後の見せしめも込めて攻め落とす。皆に戦を再開するよう伝えよ」

「……承知致しました」

 断固たる態度に使い番も固い顔で下がって行く。続けて利長付の使い番が戦闘再開を伝えるべく順々に発っていった。

 宗永に何の恨みも無い。だが、これからの試金石として宗永以下山口勢には犠牲になってもらう。利長に後ろめたさは皆無だった。

 攻撃が再開され前田勢が門を打ち破り城内へ突入、夕方には落城した。宗永・修弘父子は長徳の家臣・木崎長左衛門を呼んだ上で自刃・首を討たせたとされる。また、之直も大聖寺城攻めで戦功があったとして後日加増を受けている。

 大聖寺城を攻略した前田勢は勢いそのまま八月四日に越前へ侵攻。青山宗勝の丸岡城や青木一矩の北ノ庄を包囲し、恐れを成した両名は早々に恭順の意を示した。快進撃を続ける前田勢だが、五日になると状況は一変する。城の囲みを解き、急ぎ帰国の途についたのだ。

 この不可解な行動には、西軍のある男の策謀が関係していた。その人物の名は――大谷吉継。


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