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二 : 外の鵺、内の不和-(7)反家康派の決起

 慶長五年六月八日に後陽成(ごようぜい)天皇より晒布(さらしぬの)(たん)が、十五日には秀頼より黄金二万両・米二万石がそれぞれ家康に下賜(かし)された。(いず)れも“帝や秀頼公の公認を得た家康が敵である上杉家を討つ”事を内外に示す為の儀式だった。

 六月十六日に大坂城から出陣した家康はゆるゆると東海道を東進。七月二日に江戸へ到着した。自らの居城で暫く上杉征伐に加わる諸大名の軍勢を待っていたが、江戸滞在中に畿内が俄かに慌ただしくなってきた。

 七月十二日、増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行が国許へ帰っていた毛利輝元へ上坂を要請。同日、石田三成の兄・正澄(まさずみ)が近江・愛知川(えちがわ)に関を設け上杉征伐へ加わるべく東上していた諸大名の通行を止めてしまった。これより少し前に東征する大谷吉継を石田三成は佐和山へ招き、内府追討の兵を挙げると告白。吉継は『お主では勝てない、()めるべきだ』と諫めるも三成の決意が固いと悟ると『お主は特に嫌われているから総大将は別の者を立て、裏方に徹するべき』と助言し、自らも内府追討の軍に加わる事を決めた。十五日に広島を出発した輝元は船で瀬戸内海を東へ進み、二日後に大坂へ到着。そして――。

「『内府ちがひの条々』……か」

 七月十九日、大坂より早馬で届けられた書状を手にした利長は、溜め息を漏らした。十七日付で三奉行連署の形で諸大名に宛てた条文は、家康による専横に対する弾劾状に等しかった。

 その内容は『五大老と五奉行の間で誓紙を交わしたのに、奉行二人(三成・長吉)の職を解いたこと』『(()らぬ罪を着せて)利長が潔白を主張したにも関わらず人質を取る程に追い詰めたこと』『何の罪も無い景勝を討伐しようとしていること』『伏見城を無断で我が物にしていること』『北政所様の御住まいである西ノ丸に入ったばかりか、天守を建てたこと』『豊臣家へ差し出された人質の妻子を、自らに近しい者に限り国許へ帰したこと』『公儀に無断で諸大名と婚姻を結んだこと』『大老五人の合議で政を執り行う筈なのに家康が独断で決裁していること』など。どれも秀吉の死後に家康が犯した罪で、事実である。これ等を列挙した上で『大罪(たいざい)人・徳川家康を追討する軍に加われ』と命じていた。あまりに完成度の高い文面に、三成の関与も窺える。

 公儀からの発せられた命令文を重く見た利長は、自らの居室に助言役の右近に家老の大膳・一孝、それと利政と連龍を合わせた六名で緊急の評議を(ひら)いた。

 全員が条文に目を通したのを確認し、利長が問うた。

「各々方、どう思われる?」

 今回、右近と二人きりで諮らなかったのは多角的な視点から意見を聞きたかったのもあるが、密室で物事が動いている家中の不信感を拭いたかった側面もある。利長に批判的な連龍がこの場に呼ばれたのもその為だ。

「心情的には公儀へ与したい、ですが……」

 まず声を挙げたのは利政。言葉を濁した後を連龍が引き取る。

「御母堂様が江戸に()られますからなぁ……」

 嘆息と共に答える連龍。元畠山家旧臣で独立色の強い連龍でさえ芳春院を敬慕している。その芳春院が徳川へ人質に取られている足枷が、ここで効いていた。

 但し、一概(いちがい)に悪いことばかりではない。芳春院が徳川の手にある事で、渋々ながらも徳川へ味方せざるを得ない空気になっている。その条件が取り払われていたら今頃「公儀だ!」「徳川だ!」と侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を交わしていたことだろう。

「内府様より我等へ指示は届いておるか?」

 利長が投げ掛けるも、皆無言のまま。

 江戸に到着した家康は七月七日に秋田実季(さねすえ)を始めとする出羽の中小大名に対し“義光の指揮下で米沢口から攻めろ”と指示を出しているが、津川口の主力たる前田家に具体的な命令は出ていない。その家康も二十一日に江戸を発つ陣()れを出すも、現時点で前田家は知らない。

 上杉征伐はどうなるか。前田家はどう動くべきか。宙に浮いた状態で、皆困惑していた。

 どよんとした空気が漂う中、それを振り払うような発言が突如飛び出した。

「よろしいではありませんか。我々は徳川を害さねば、思うが(まま)に動けばよろしいかと」

 右近があっけらかんとした口調で指摘する。その大胆な提言に利長達がきょとんとする中、一孝が何かに気付いた。

「……そうか。内府様が最も恐れるのは、我等が敵に回る事。それを除けばある程度の事は目を(つむ)る、そう言いたいのか」

 一孝の言葉に、右近は頷く。利長を始めとした者達も右近の発言の真意に気付いた様子。

 皆の反応を確かめ、右近が再び口を(ひら)く。

「左様です。約定通り会津を攻めるのも、それに反して加賀・越前へ侵攻するのも、情勢が切迫するまで内府様は“お好きにどうぞ”といった感じでしょう。もし南へ侵攻した事を咎められましても『向背を(おびや)かされる恐れがあった為』とでも釈明すれば内府様も受容されるかと。下手に責めれば公儀側へ転じる恐れがありますから」

 その言葉は、利長の背中を押しているようにも感じた。母を人質に取られ行動を制約されていると思いきや、家康は前田家の扱いについて慎重を期している。前田家八十三万石、一万石につき二百五十名から三百名の兵と換算すれば二万七百五十名から二万四千九百名の規模となる。実際は臨時雇いの兵も加算されるので留守を預ける兵を差し引いても二万五千の兵を動かせる。これだけの数が味方から敵に転じれば、戦巧者の家康でも流石に慌てる。家康天下獲りの決戦は、利長が主導権を握っていると言っても過言ではなかった。

「南加賀・越前の旗幟(きし)はどうなっている?」

 利長が訊ねると、大膳がすかさず奥羽から畿内まで描かれている絵図を広げた。

 全員の視線が絵図へ注がれる中、大膳が説明する。

「結論から先に述べますと、“敵”または“敵になる”者が多いかと」

 そもそも南加賀・越前は秀吉存命時から入れ替わりが激しかった。

 天正十一年六月の賤ヶ岳の戦い後に従前(じゅうぜん)の若狭国に加え越前の大半と南加賀を丹羽長秀に与えられたが、天正十三年四月十六日に死去。遺領は嫡男・長重が引き継ぐも同年八月の佐々征伐で『家中に内応者が居る』疑いを掛けられ、若狭以外の領地を没収。さらに長秀の家臣だった者達を直臣として召し抱えるなど、丹羽家は著しく弱体化した。その後さらに長重は若狭国も召し上げられ加賀松任四万石まで転落するも、天正十八年には加賀小松十二万石まで復帰している。

 丹羽家から取り上げた越前は多くの大名へ分与された。堀秀政(秀政の死後は秀治)が北ノ庄十八万石、青山宗勝(むねかつ)が丸岡四万六千石、青木一矩(かずのり)が大野八万石から府中十万石を経て北ノ庄二十万石、赤座直保(なおやす)今庄(いまじょう)二万石、蜂屋(はちや)頼隆(よりたか)(天正十七年に死去後は大谷吉継)が敦賀五万石……といった感じで、残りは豊臣家の蔵入地とされた。

 大きな変化があったのは、慶長三年。秀吉の(おい)・小早川秀秋が筑前三十万七千石から越前北ノ庄十五万石へ減封・移封の決定が下されたのだ。前年十二月二十三日から同年一月四日にかけて繰り広げられてきた蔚山城(ウルサンソン)の戦いにおける秀秋の行動が秀吉の逆鱗(げきりん)に触れたとされるが、秀秋がこの戦いに参加した事を示す明確な史料は発見されておらず、何が原因か不明である。この裁定は秀吉の死後に取消となるも、山口宗永(むねなが)など小早川家の有力家臣が豊臣家直臣として加賀・越前に入封した。これと前後し上杉景勝の会津転封に伴い堀秀治等が越後へ移った事で配置換えが行われ、現在に至る。

 以上の経緯から、“石高の少ない大名が多い”・“大谷吉継や丹羽長重など前田家と敵対する者や敵になる可能性が高い者が多い”の二点に集約される。

 もし南下するとなれば戦は避けられない。その現実に、室内は重たい空気に包まれる。

 東へ兵を進めれば上杉旧臣の一揆に巻き込まれ、南へ進んでも小規模ながら多くの勢力を倒す手間が掛かる。正直、利長はどちらを選んでも損ばかりと率直に思った。叶うならば『北陸へ睨みを利かせる』名目で金沢に居座り続けたいくらいだ。

 それは他の家臣達も同じ思いらしく、憂鬱(ゆううつ)な顔を浮かべている。東か南か、どちらがよりマシか判断しかねている様子だった。

 重苦しい雰囲気で静まり返る中、突如それを打破する声が挙がった。

「……要するに、加賀・越前へ進めば切り取り次第ということか!」

 嬉々として語るのは、連龍。その発言に俯き加減だった家臣達も反射的に顔を上げる。

 確かに、考え方次第ではそうとも受け取れる。『敵方の大名を倒しておきました!』と家康へ報告すれば、戦後奪取した幾許(いくばく)かの土地が恩賞として貰える可能性は大いにある。“家康が勝利する”大前提はあるが、利長にとって魅力的に映る。

「ですが、内府様より約定破りと責められれば如何(いかが)する?」

「それこそ『東へ進む為に後顧の(うれ)いを絶ちたかった』とでも言い訳しておけば何も言われまい。我等は障壁を取り除いただけ、仲間割れはしておらぬ」

 一孝の懸念に連龍は杞憂だと胸を張る。利長も連龍の方が一理あると感じる。

 出席者の大半が一つの方向へ傾きかける中、突如異議を唱える者が現れた。

「待たれよ。内府様が勝つ前提で話が進んでおるが、敗れた場合はどうする心算だ?」

 声を挙げたのは、利政。思えば利政は冒頭から公儀寄りの発言が目立っている。

 明らかに水を差された恰好だが、連龍は激せず応じる。

「その時は『内府様に命じられて不本意ながら従った』と弁明すればよかろう。奪った領土を返還し平身低頭詫びれば不問となるかと」

「しかし、内府から命じられた事を示す証左は無い。それに、火事場泥棒の真似をしておきながら“脅された”とだけで(ゆる)されるとは思えぬ。減封や移封、最悪改易も有り得るのでは?」

 楽観的な見方に対して利政も食い下がる。家康へ肩入れする事を非常に憂慮している利政へ、右近が回答する。

「仰る通り、内府様から指示された文書や遣いはございません。しかしながら、御母堂様が徳川の手中にあるのは紛れもない事実で、従うよう強制させられていると容易に想像がつきます。加えて、先程九郎左殿が申されたように『内府様から命じられた上杉征伐を履行すべく、留守の間に攻められる不安を取り除く為に()むを得ず近隣の勢力を掃討した』と申し開きをすれば、公儀も強く糾弾しないでしょう」

 筋道を立てて説明する右近に、利政は不服ながら口を(つぐ)む。(なお)も言い募ろうとする弟へ「孫四郎」と利長が声を掛ける。

「もし前田家へ咎が及びそうになれば、私が全て責任を負う。そして、お主が家督を継げ」

「兄う……殿」

 予期せぬ答えに、思わず主従の立場を忘れる程に驚く利政。

 利長・利政の通称“孫四郎”は(世間的に“又左衛門”の印象が強いが)父・利家も名乗っていた。利長が嫡男に恵まれないのもあり、十六歳下の利政は不測の事態に備え前田家の継承権を有していた。家康が負けた時は“利長の一存”と全責任を押し付け、公儀寄りだった利政へ代替わりすれば追及も緩むと利長は説くのだ。

 自分を切り捨てろと口にした利長に、家臣達から困惑や動揺は見られない。御家存続の為なら受け容れるべきと皆覚悟していた。

「では、その心算(つもり)で頼む」

「ははっ!!」

 主君の強い決意を耳にし、全員が平伏する。議論は尽くされ、家中の方向性は定まった。そう利長は信じたかった。

 畿内で反家康の兵が挙がった事により、家康に味方するか敵になるか諸大名は究極の選択を迫られた。「こちらへ味方する!」と即答出来る者がこの日ノ本でどれ程居ようか。去就に悩み迷う大多数の大名と同じように、利長は母や家臣を家康に握られている状況下で難しい立ち回りを求められた。この戦いが決着した時に自分は笑っているか、はたまた泣いているか。利長は皆目見当がつかない。

 望まない形で天下分け目の戦に巻き込まれた利長は、微かな野心と精一杯の保身を胸に抱え、先の見通せない霧中(むちゅう)へ飛び込むべく足を踏み出した――!!


(※以降、分かりやすくする為に家康方を“東軍”・反家康方を“西軍”と表記します)


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