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一 : 命を削りて尽くす忠-(2)利家にしか出来ぬ事

 慶長四年元旦、昼前。前田屋敷を出る際に輿(こし)へ乗るのも覚束(おぼつか)ない様子の父を送り出した利長は、遅れて伏見城へ出仕した。正装した大名達が大広間に所狭しと座る様は圧巻の一言である。

 奏者(そうじゃ)が秀頼の御成(おな)りを告げると、居並ぶ面々は一斉に(こうべ)を垂れる。まず秀頼、続けて秀頼の母・淀の方(茶々)、傅役で後見人の利家が入室する。

「上様(秀頼)。新年明けまして、おめでとうございまする」

 最前列中央に座る大老筆頭の徳川家康が代表し新年祝賀の挨拶を述べる。それを受け、他の者達も「おめでとうございまする」と声を揃え挨拶する。

「皆の衆、(おもて)を上げよ」

 (あらかじ)め言い含められていたと(おぼ)しき秀頼が言葉を発し、大名達が顔を上げる。利長は真っ先に父の方へ目を()り凛とした(たたず)まいで座している姿にホッとする。

 ここから先は儀礼的な遣り取りが行われる。参列する全ての者がそう思っていたが――。

「折り入って、皆に重大な発表がある」

 秀頼ではなく利家が話し始めた事に、驚く一同。何事かと困惑する諸大名を他所(よそ)に、利家ははきとした声で宣言する。

(きた)る一月十日、太閤殿下の遺言に従い上様は大坂へ移徒(わたまし)致す」

 突然の発表に諸大名は驚愕の表情を浮かべる。秀頼が大坂へ移る事を誰一人として知らなかったからだ。

 ざわつく会場から異論の声が挙がる。

「この冬の寒さで体調を崩しては如何(いかが)する!?」

 そう主張するのは淀の方。前の嫡子・鶴松は虚弱児で僅か三歳の幼さで夭逝している。我が子を(うしな)う辛さを知っている淀の方の訴えも理解は出来る。

「加賀大納言様(利家の通称)が仰せになられた期日はあまりに(みじこ)うございます。準備の都合もあります(ゆえ)、今(しばら)く延期すべきと……」

 淀の方に続いておずおずと提案してきたのは、五奉行の一人・長束(ながつか)(“なつか”とも)正家(まさいえ)。豊臣家当主で全ての武家の頂点に立つ秀頼が伏見から大坂へ移るとなれば相応の行列や沿道の警護、荷物の搬出入、それに(たずさ)わる人員の確保に予算など、やるべき事は山のようにある。今日を含めて十日、出発日を除けば九日で移動の段取りを組まなければならず、実務を担当する者による婉曲(えんきょく)的な苦情だった。

 延期を促す正家に対し、利家はカッと目を見開いて一喝する。

「ならば、お主は敵が攻めて来ても『支度が整っておらぬから待ってくれ』と頼み込むのか!?」

 鬼気迫る形相(ぎょうそう)(ただ)す利家に、グッと言葉に詰まる正家。真っ当な反論に正家を擁護する意見は出ない。

 さらに、利家は続ける。

「太閤殿下の薨去後、朝鮮に渡った諸侯の撤収に差し(さわ)りがあってはならぬと移徒は延期してきたが、全軍の帰国も無事に完了した。秘匿としてきた殿下の死を公表した今、御遺言の実行を妨げる事情は存在せんと(わし)は考えるが、如何(いか)に」

 明征服を掲げた秀吉による朝鮮出兵は、旗振り役の死に伴い即時中止・全軍撤収の方針は豊臣家中枢を担う五大老五奉行の総意だった。明・朝鮮勢が勢いづくのを恐れた中枢部の判断で諸侯に事実を伝えぬまま十月十五日に撤収命令が出され、十一月二十五日に小西行長・島津義弘等の帰国で無事に完遂した。太閤殿下の死が公になった以上、最期の命令である御遺言を履行する事に反対するのか? と利家が突き付けた恰好だ。

 利家の問いに、意見を述べる者は現れない。これを全員の同意を得たと解釈した利家は、厳かに言い渡した。

「決まりだ。皆の衆もその心算(つもり)で動くように」

 大事な用件を済ませた利家は、秀頼や淀の方と共に退室していく。その様を平伏しながら見送る利長は、父が明かした『儂にしか出来ぬ事』だと納得した。

 そもそも、秀吉が自らの死後に秀頼の居城を伏見から大坂へ移すよう厳命した理由は二つある。一つは、防御面。(かつ)て大坂城が築かれた場所に建てられた石山本願寺は圧倒な兵力と長期間の封鎖を維持する程の資金力と兵站を兼ね備えていた信長率いる織田勢が攻め落とすのは叶わず、降伏まで十年の歳月を要した。その要害の地に秀吉が天正十一年から慶長三年まで通算四期に渡る工事で鉄壁の城を造り上げた。正に“日本一守りが堅い城”と呼ぶに相応しい仕上がりである。もう一つは、秀頼を家康から離す事。秀吉は今際(いまわ)(きわ)まで『(家康は)伏見で(まつりごと)を執るように』と繰り返し言及しており、秀頼の威光を背にやりたい放題するのを何が何でも阻止したかった。加えて、主君の秀頼が大坂へ移れば家臣である大名達も付き従い大坂へ移る。その結果、家康の力を削ぐ事にも繋がるのだ。

 もし、これが(まつりごと)の実務を取り仕切る五奉行筆頭格の石田三成が発案したならば、嫌忌(けんき)している武断派だけでなく他の大名達からも非難轟々(ごうごう)だっただろう。無論、三成の提案は却下され大阪移徒は早くとも暖かくなる春になってから、幼君の威を借りたい家康による引き延ばし工作も充分に考えられた。だが、利家が相手なら話は異なる。五大老筆頭による発言の重みや家康への睨みが利き、反論は抑えられる。今回父による急な大阪移徒の発表に事務方の三成が異論を唱えなかったのは、この案を通せるのが利家以外に居ないと考えた為だろう。

 そして、ここから先は利長の推測になるが……十日なら能吏達が死ぬ気で頑張れば間に合わせられ、あまり猶予を与えると家康による阻害が行われる可能性がある。それ等を勘案した上で十日と弾き出したのではないか。我が父ながらその深慮遠謀に利長は舌を巻く思いだった。

 奥へ下がった淀の方はまだ利家の急な決定に不満顔だったものの、七歳になる秀吉は健やかに育ち健康面で問題ないこと、それから家康が秀頼を利用する恐れがあることをき、ようやく受け容れた。可及(かきゅう)的速やかに準備を整え、宣言通り慶長四年一月十日に秀頼は伏見城から大坂城へ居を移した。諸大名も秀頼に(なら)い大坂へ移った。

 恙無(つつがな)く移徒が済み、豊臣家の中枢を支える者達は安堵した。だが、その平穏を吹き飛ばす事実が伏見から飛び込んで来た――!!


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