二 : 外の鵺、内の不和-(5)会津の不穏な兆し
難癖を付けられる形で戦寸前まで沸騰した前田家ではあるものの、表向き従順を装いつつ有事の備えに向けて動き出していた。慶長四年十二月、金沢城の増強に着手。金沢城は嘗て加賀一向一揆の最重要拠点だった尾山御坊が築かれ、寺ながら城に匹敵する堅守を誇った。一揆制圧後に加賀国を与えられた佐久間盛政が跡地に城を築き、賤ヶ岳の戦い後に利家が入城した。高山右近が前田家に招かれると利家は金沢城の改造を始め、文禄元年〈一五九二年〉に石垣を組んだが、利長はさらに守りを固めるべく惣構え堀を造らせた。この堀は後年に築かれた外惣構え堀に対し“内惣構え堀”と呼ばれる事となる。大膳の奔走や母の決断などで討伐は回避されたが、利長は気を緩めていなかった。
そして年が明け――慶長五年〈一六〇〇年〉。新年早々に大坂で大事件が起こる。宇喜多家で家臣同士の内紛が勃発したのだ。
御家の政を取り仕切っていた長船綱直が慶長四年暮れに死去すると、改革に不満を抱いていた宇喜多詮家や戸川達安など有力家臣達が後ろ盾を失った次郎兵衛を始末せんと画策。一月五日、次郎兵衛が居る宇喜多家の大坂屋敷を有力家臣達が襲撃するも、次郎兵衛は前田家屋敷へ避難。この蛮行に激怒した秀家は襲撃に加わった者達を処罰しようとしたが、家臣達は屋敷に立て籠もってしまった。自力での解決を断念した秀家は大谷吉継と徳川家家臣・榊原康政に調停を依頼するも、両名で事態の収束には至らず、最終的に家康の裁定で騒動に加担した家臣達を他家預かりの処分とする事で落ち着いた。この内紛劇により、宇喜多家の軍事力は大きく低下した。
家康は前田家へ揺さぶりをかける傍ら、独断で大名へ加増を進めていた。前年十月に隠居を申し出た堀尾吉晴に隠居料として越前府中五万石を与えたのを発端に、島津家へ薩摩・大隅国内で五万石、年を跨いで長岡忠興に豊後木付(後の杵築)六万石、森忠政に信濃川中島十三万七千石(移封)と大老や奉行に諮らず決裁した。何れも豊臣家蔵入地などから捻出しており、自らの懐を痛めている訳ではなかった。
また、三月十六日に豊後国臼杵の黒島に漂着した阿蘭陀船・リーフデ号の対応を幼君秀頼に代わり家康が行い、三月三十日に乗務員と引見している。天下を治める豊臣家が窓口となる外交も家康が代行した事により、“日本の統治者は家康”と外国へ印象付けるキッカケとなった。
着々と地盤を固めていた家康へ、聞き捨てならない報せが届く。会津の上杉家が戦支度を始めているというのだ――!!
「はて。会津中納言殿が、のぅ」
慶長五年五月、畿内へ送り出した芳春院達と入れ違いで届いた報せに利長は首を傾げる。
金沢城内の茶室には利長と右近のみ。余人を排したのは事の重大性を鑑みて右近の見解を窺いたかったからだ。
利長と景勝は多少の面識がある。天正十四年六月に景勝一行が上洛する折には北陸方面担当の前田家が金沢で持て成し、天正十八年の北条征伐では北からの別動隊で共同戦線を張り、そして何よりお互い大老で同格。人となりは知っている、と思う。
景勝を言い表すなら、“剛毅朴訥仁に近し”。寡黙で喜怒哀楽を表に出さない為に近寄り難い佇まいをしているが、接してみれば冷淡や拒絶を感じた事は無い。威厳や貫禄の中に人の温もりや敬意が滲む、そんな御仁だ。先代の謙信が掲げた“義”の家風を継承し、それに相応しい崇高な人格を保つ、利長はそういう風に捉えていた。
秀吉から信義の篤さを買われ大老に任じられたあの景勝が、秀頼を頂点とする豊臣家の統治を揺るがすような振る舞いをするように利長は思えなかった。
「どう思う、右近」
自分の中で景勝という人物と“戦の用意をしている”という風説がどう考えても一致せず、利長は右近に訊ねた。
一拍の間を挟み、落ち着いて答える右近。
「会津中納言様は移封前から周辺の方々と摩擦がありました故、色眼鏡を込めた訴えかと」
上杉家は慶長三年三月に会津へ移る前と後で摩擦が生じていた。秀吉は関白の命として天正十五年十二月に東国の諸大名へ対し私闘(領土を巡る合戦等)を禁じる“惣無事令”を発した。しかし、景勝は惣無事令が出された後の天正十六年八月に最上領である出羽・庄内地方へ侵攻。一応“(庄内地方で上杉に誼を通じている)大宝寺家を助ける為”と大義を掲げるも、大宝寺家の決闘は前年十二月に当主・義興が自害した事で途絶えており、跡を継いだのは養子に入っていた上杉家家臣・本庄繁長の次男・義勝と正統性は疑わしかった。十五里ヶ原の戦いで最上勢に勝利した上杉家は庄内地方を掌中に収めた。これに対し義光は『惣無事令違反だ!』と豊臣家へ抗議したが、最上家が未だ臣従してなかった事や秀吉から庄内侵攻の黙認を得ていた事から、訴えは握り潰された。
また、会津移封に際し“後に赴任する大名の為に年貢の半分は残す”という豊臣家の取り決めを上杉家は破り、全ての年貢を持ち出した。約定違反に怒ったのは越後春日山へ移封してきた堀秀治で、上杉家に対し持ち逃げした分の返還を公儀へ訴え出た。しかし、長尾姓を名乗っていた頃から本貫の地としてきた越後から無理を言って会津への転封を了承してくれた上杉家に大きな借りがある事から、訴訟を担当した三成は堀家の訴えを斥けた。この為に堀家は一時財政危機に陥り、上杉家へ深い恨みを抱いた、そして、会津移封後も庄内地方は引き続き上杉領とされた事に義光は大いに不満だった。
このような軋轢がある状況で、慶長四年八月二十二日に帰国した景勝は手付かずになっていた内政に取り掛かった。道の整備や橋を架ける作事を始め、武器弾薬の購入や城砦の修繕・補強、さらに前田“慶次郎”利益や岡“左内”定俊など著名な者も含め多くの浪人を召し抱えた。上杉家の動向は堀・最上の両家から逐次家康へ報告されたが、前田家でも武器弾薬の調達や金沢城の増強を行っているように他の大名家でも似たような事をしていた為に、家康が咎める材料にならなかった。
「ですが、今年に入ってからの上杉家は露骨になりました」
慶長五年一月、若松城に城下町を拡張する余地が無い事を理由に、景勝は家宰の直江兼続に対し新たな居城を築くよう命じた。街道や阿賀野川など交通の便が良い神指の地に決めた兼続は二月十日から普請を開始。上杉領だけでなく周辺諸国にも呼び掛け人夫を徴集し、突貫工事で築事が進められた。そして、三月十一日。謙信の二十三回忌法要が廟所で執り行われ、この場で景勝の口から“打倒家康”の意向を表明したのだ。家康の専横に日頃から不満を募らせていた上杉家の家臣達は大いに賛同したが、一人だけ慌てた者が居た。
藤田信吉。元は北条家家臣ながら武田・滝川家を転々と渡り歩き、天正十年六月に上杉家へ落ち延びる形で仕官。実力はあったみたいで、武功を重ねた信吉は越後・深川城主一万五千石まで出世した。今年の正月には景勝の名代で大坂の家康へ年賀の挨拶に派遣された。時の権力者である家康への使者を任せるには些か軽輩な気もするが、家康は『最近の上杉家に懸念を感じている』と釘を刺しただけで信吉を丁重に応対し、土産に銀子や刀を与えた。役目を果たし帰国した信吉は景勝や兼続へ報告を行い、疑念を招く行動は慎むべきだと進言した。会談後、信吉が譜代でない点も加味し“家康へ買収された”と兼続は判断。秘かに謀殺する事を決めた。
そうした中での景勝による決起発言。帰国以降恭順を説いていた信吉は上杉家中で浮いた存在と自覚していたのもあり、同日に出奔。江戸に居る徳川秀忠の元に駆け込んだ信吉は“上杉家に叛意あり”と訴え出た次第である。
直近まで上杉家家臣だった信吉の訴えは捨て置けず、家康は豊臣家の外交僧である西笑(“せいしょう”とも)承兌に『上方で上杉家謀叛の噂が流れており、説明の為に畿内へ来て欲しい』旨の書状を持たせ、四月一日に自らの家臣・伊那昭綱と増田長盛の家臣・河村長門を景勝の元へ送った。二人は四月十三日に会津へ到着、家康の書状を受け取った上杉家は兼続が十四日付で返書を認めた。五月三日、その返書が家康の元へ届いたのだが――。
「そして、“アレ”で決定的になった、と」
利長の意味深な発言に右近が頷く。“アレ”とは兼続の返書だ。
その内容は『上方で在らぬ噂が流れているみたいですが、京・伏見間でも誤解が起きますから致し方ありません』『上洛しろと仰られますが、国替え直後に上洛し九月にようやく帰国したばかり。これではいつ内政を執ればよろしいのですか』『我が主(景勝)に叛心など無いのに、讒言した者の言い分を碌に調べず取り合われてはどうしようもありません。これでは内府様に裏表があるようにしか思えません』『武器を集めるのは上方の武士が茶器を蒐集するようなもの。そんな些末な事まで一々気になされては天下人らしくありませんよ?』『道を整備するのは為政者として当然の事。戦を考えているなら道を塞いだり堀切を造ったりするのが普通で、もし我等が攻めるなら一方向(南)しか無いにも関わらず騒ぎ立てる者は愚か者としか思えません』『繰り返しになりますが我が主に叛心など毛頭ございません。それにも関わらず上洛出来ないよう仕向けられてはどうしようもないです。例え挙兵し天下を獲っても(暗に“家康に勝てる”と挑発)悪者扱いされて末代の恥となりますから致しませんので、ご安心を』『遠国にあるものですから、どうか在りのままをお聞き下さい。近頃では本当の事でも嘘のようになります。この書状をお目に掛かられますから、真実をそのまま認めさせて頂きました。多少お見苦しい点もありましたが、我が方の主張を聞いて頂きたくて遠慮なくお伝えした次第です。どうぞよしなに。直江“山城守”兼続』
この返書を受け取った家康は挑発的な文面に大変激怒したとされる。あまりに出来過ぎな内容に“後世の創作では?”とする見方がある一方、“(兼続からの返書に)家康は激怒した”と記録される史料も存在する事から、脚色はあれど事実の可能性が高い。
「如何に考える?」
「会津中納言様が内府様の専横に待ったを掛けるべく吹っ掛けたのは確かでしょう。そして内府様も面子がありますから、応じるのは間違いありません」
戦になると断言する右近。利長も一緒な見解を持っていたが、気になる点がある。
「……内府様が上杉討伐へ動くなら、畿内はがら空きになる。内府追討の兵を挙げるなら絶好の機会ぞ?」
家康が天下人の如く振る舞える最大の要因は、大坂で“幼君秀頼公”という唯一無二の存在を抱えていた事だ。会津へ向かえば当然ながら力の源泉たる秀頼を手放す事になる。その間隙を突いて家康の独走に反感を抱く勢力が徳川討伐の狼煙を上げる可能性も充分に有り得る。
利長が自らの見立てを述べると、右近は同意を示した上で答える。
「それを含めて、上杉征伐に踏み切られたと思われます。自らが天下を獲るには何れ大きな賭けに打って出ねばなりませんが、内府様は全てを擲つ覚悟で今と読まれたのかと」
自らが頂点に立つ野心を抱く家康は、秀頼の家臣という立場から脱却したい。その為に今まで築いてきた家名や財産・地位を賭け金に、乾坤一擲の大勝負に出る必要がある。勝てば全てを手に入れ、負ければ全てを失う。実に分かりやすい。だが、高みに上り好い思いをしてきた者の多くは、それを失う恐怖から博奕に出られない。もし利長が家康を始末する機会が巡ってきたとしても、加能越約八十三万石の大身を失ってまで実行へ移す気持ちになれるかどうか。誰もが躊躇する選択を敢えて進んだ家康は、並大抵の器ではないと利長は敵ながら尊敬する。
暫し沈黙の時間が続き、利長がポツリと漏らす。
「……治部は、起つかのぅ」
「起つでしょうな」
キッパリ断言した右近は、理由を述べる。
「太閤殿下の存命時よりその存在を危険視されておられた治部殿が、内府様が畿内から離れた絶好機を逃す筈がありません。それに、治部殿と山城守(兼続)殿は昵懇の仲、此度の上杉家による挑発も事前に申し合わせていた可能性も大いにあるかと」
確かに、右近の指摘は一理ある。秀吉の死後、再三にわたり利家へ家康の処罰を進言してきたが、奉行職を解かれ佐和山で謹慎処分を受けて以降は俗世の動きに関心を失ったように隠棲している。前田討伐の兆しが見られた際は嫡男・重家を代理に手勢を出す意向を示し、三成はすっかり牙を抜かれたと世間は捉えていた。しかし、それは仮初の姿で、反撃の時機を窺っているとも受け取れる。また、三成と兼続はそれぞれ羽柴・上杉家の取次になった縁で、理知的な性格や読書好きなど共通点が多かった事から友人関係にあった。会津へ戻る途次、佐和山へ立ち寄った兼続が三成と家康を倒す計画を話し合ったとしても不思議でない。
「動くか、遂に……」
そう溢す利長は仄かに頬が紅潮している。家康が兼続の煽動に乗る形で東国へ向かう事で、必ず天下は動く。時代の大きなうねりに興奮を覚える反面、利長は前田家が大波に呑まれぬよう見定めねばならない。
ただ、利長は他の諸大名と違い制約がある。母や長頼を家康へ人質に取られ、足枷を嵌められている状態だ。形勢次第で切り捨てる非情な選択を迫られるかと考えるだけで、頭が痛くなる。胸の鼓動が高まるのは楽しさなのか不安なのか、利長は判別がつかなかった。
複雑な面持ちの利長へ、落ち着いた声色で右近は声を掛ける。
「殿。御自身一人で抱え込む必要はございません。私を始め、経験も考え方も多様な家臣が我が家には揃っております。悩み迷われた時は、どうか頼って下され」
優しい語り口に、利長は噛み締めるよう何度か頷き「……分かった」と短く答えた。
右近の言う通り、前田家には経歴も場数も性格も異なる家臣を大勢抱えている。ごった煮集団と言えば悪く聞こえるが、これだけ雑多な色が混在している家も珍しい。その利点を利長は前向きに捉えようと決めた。
上杉征伐の意向を明らかにした家康に対し、『まずは上杉家の弁明を聞くべきで、戦を決断するのは拙速である』と増田長盛・長束正家は制止したが、これを無視。家康は“上杉家に叛心あり”と一方的に断じ、それを止められる者は最早居なかった。こうして“上杉征伐”を発端に、辛うじて保っていた均衡が大きく揺れ動こうとしていた――。




