二 : 外の鵺、内の不和-(1)家康の勧め
代替わりした前田家は、利家の遺言に則り粛々と行動へ移していた。
生前利家が『口の堅い律義者』と評した篠原一孝は利家の亡骸と共に金沢へ帰った。また、これとは別に利家の死で落飾し“芳春院”と号した母・まつや側室達も利政が金沢へ連れて帰っている。また、利家から『徳川家に内通している疑いがある』と忠告していた越中・大峪城主の片山延高を閏三月十日に忙殺した。そして、利家から注意するよう名前が上がっていた徳山(“とくのやま”とも)則秀も延高の死を知り“自らの身が危ない”と感じ出奔。この翌年、徳川家に五千石で召し抱えられている事から、裏で家康が糸を引いていた可能性がある。
そんな最中、利長は利家の死去に伴い大老の職に就いた。還暦手前の家康に四十代中盤の輝元・景勝、二十代の秀家の四名に三十代の利長が加わり、均整の取れた年齢構成となった。慣れない公務に年長者の助言を受けつつ利長は懸命に職責を果たそうとした。
片や、唯一対抗出来る存在だった利家は世を去り、何かと噛み付いてきた三成も失脚させた事で、家康を邪魔立てする者は消えた。家康の独走を許さぬよう監視し身を挺して抑止する存在が失せたのを受け、大老筆頭の地位と権限を濫用し始める。
予てより毛利家中で争点とされた秀元の領土配分とそれに伴う吉川広家の移封に際し、今年一月に三成が出した決定を家康は白紙化した上で新たな案を示した。閏三月二十一日に家康と輝元の間で交わした起請文に『(輝元が家康のことを)兄のように思う』と記述があり毛利家は徳川家の下手に付く姿勢を見せていたが、明らかな内政干渉に流石の輝元も家康の案を黙殺。その後六月に“秀元へ父・穂井田元清の旧領、慶長三年六月に死去した小早川隆景の毛利領内における旧領の返還、吉川広家の所領に変更なし”の案を提示し、輝元達も受け容れた。家康が毛利家の力を明らかに削ごうとした事に対し、輝元は家康と距離を置くようになる。
家康の影響力が日に日に増していくのを肌で感じていた利長だが、どうする事も出来ない。新参者の利長が下手に首を突っ込むべきではないし、自ら火中の栗を拾いに行く勇気もなかった。
ただただ無力感を募らせる日々が続き、八月。大老五名による評議の場で、冒頭家康からある事が提案された。
「皆々様に於かれましては、亡き太閤殿下の体調悪化から二年に渡る長期間畿内に在駐する事を強いられてきました。ただ、政情も一先ず落ち着きましたので、一度国許へ戻られては如何でしょうか?」
帰国を促す家康に、利長は『いけしゃあしゃあと言ってからに』と心中で吐き捨てる。年初の騒ぎが無ければもっと早く帰れた筈なのに、当の張本人は全く責任を感じておらず平然としている。余程面の皮が厚いのだろう。
それに対し、利長が問うた。
「内府様は如何なされますか?」
「私は殿下より政を託されております。責務があります故、残念ですが伏見に留まる所存」
至極不本意といった態で答える家康に。利長は“冗談じゃない”と眉を顰める。
秀吉が体調を崩した事に端緒に薨去で伴う政権移行、朝鮮出兵の中止と撤収など為すべき事の連続だったのは事実ではあるものの、家康が『御掟』違反を犯さなければもっと早く帰国は実現していたと断言出来る。しかも、父が亡くなってから専横の色を強める家康は帰らないと言う。これでは野に虎を放つようなもので、利長は断固拒否したかった。
しかし、他の三名は異なる。異議を唱えるどころか消極的にせよ“願ったり叶ったり”と顔に書かれていた。輝元は自領内の割譲に伴う根回し、景勝は移封直後の上洛で手付かずになっている内政の処理、秀家は年初に起きた騒動で他家へ流出したり出奔したりした者の旧領への対処と、それぞれ帰りたい切実な事情を抱えていた。家康が畿内に一人残る危険を認識しつつも国許の課題解決を優先したい思惑が透けて見えた。
「御三方は帰国なされるみたいですが、加賀中納言様は如何なさいますか?」
人が好い笑みを湛えながら、家康は訊ねる。利長は返答に窮した。
父から『三年は帰国するな』と戒められている。だが、遺言に際し父は内通者の存在を匂わせていた事から家康に内容が伝わっている可能性があり、どうしたものか。他の三名が帰国へ前向きなのに一人だけ断れば角が立つ。大坂に留まれば意に添わぬ行動をした利長へ家康が奸計を仕掛ける事も考えられる。願わくば「一度持ち帰り返答します」と先延ばしにし右近達に相談したいが、他三名は今すぐにでも受諾する雰囲気を出している為それも難しい。今ここで決める必要に迫られた。
黙考する利長。この選択は自分の、前田家の、延いては豊臣家の未来を左右する重大な分岐点になる事も有り得る。呑むか、拒むか。利長が下した答えは――。
「……では、私も内府様の御厚意に甘えさせて頂きます」
殊勝な態度で応じる利長に、うんうんと満足そうに頷く家康。
斯く言う利長も、国許に不安材料がある。父の死去から約五ヶ月、代替わりしてから顔を合わせてない家臣も多く、治政がどうなっているか気になる。そして一番の決め手は“今、家康を敵に回す事は避けるべきだ”と利長の勘が警鐘を鳴らした事だ。父の遺言に背くより豊臣家中で最大の権力者となった家康の心象を悪くする方が損だと利長は判断した。
この選択が正しいか間違っていたか現時点で分からない。後々振り返った時に賢明な判断をしたと思えることを利長は心中で祈った。
屋敷に戻った利長は頼みとする重臣を呼び、家康の勧めに応じて帰国する旨を明かした。
「殿!! 本当にそれでよろしいのですか!?」
真っ先に反発の声を挙げたのは、立派な髭を蓄える熱血漢。
村井“又兵衛”長頼、天文十二年生まれで五十七歳。利家が信長から出仕停止処分を受けた頃も付き従い、武辺者として支えた忠臣だ。長年の功が評価され、利家が能登一国を授かると家老に抜擢された。その特徴的な髭姿から“髭殿”と利家や家中から親しみを込めて呼ばれた。
「又兵衛。殿も悩み抜かれて決められたのだろう。苦しい胸の内を察して差し上げろ」
隣から長頼を窘める声が掛かる。こちらは冷静沈着といった感じだが、利長の決断に対し積極的に支持する風でもない。
奥村“助十郎”永福、天文十年〈一五四一年〉生まれの五十九歳。永禄十二年に信長の命で前田家の当主が利家となった折、荒子城を預かっていた永福は『主君(利久)の命令が無い限り、明け渡せない』と拒否し忠義を示した。一旦浪人になった後、天正元年〈一五七三年〉に帰参した。長頼と同じく利家が大名になった際に家老となり、天正十二年の末森城の戦いでは比類ない働きを見せている。
この両名は尾張荒子の土豪だった前田家を加能越三国約八十三万石の大大名に押し上げた正真正銘の功労者である。家督を継いだ利長もそれは承知しており、粗略に扱わず敬意を持って接していた。
「右近、其方はどう思う?」
利長が水を向けると、先人に遠慮して発言を控えていた右近が重い口を開く。
「……致し方ありませんな。他の御三方が国許へ戻る中で内府様の意向に反し畿内へ留まれば、何をされるか分かりません。大殿亡き今、我等単独で徳川に対抗する力はございません故」
右近の率直な見解に、重臣両名も黙り込む。
利家に心酔してきた家臣が家中で大勢を占める中で、遺言は絶対に遵守すべきだと考える者は多い。反発した長頼や否定的な姿勢を見せた永福がそれをよく表している。ただ、この両名は経験を重ねた年長者で、前田家の置かれた状況を推察する能力があるので、前田家の弱体化に触れた右近の発言を暗に肯定している。重鎮二人の反応を受け、利長は悔しそうに唇を噛む。
もし父が存命ならば違っていたと受け取れる右近の見立ては正しい。利長もそう捉えたから帰国する選択をした。しかし、どれだけの家臣が利長の高度な判断を受け容れてくれるだろうか。『偉大な父君の御遺言に背いた不忠者』『徳川に尻尾を振った軟弱者』と蔭で罵られるのは明白だ。当主を軽んじる風潮が家中で蔓延すれば、さらなる出奔や離反を招く恐れがある。
暗澹たる先行きに思わず溜め息を吐きそうになる利長へ、「殿」と呼び掛けられた。俯いていた顔を上げた利長へ、長頼が続ける。
「家臣達の頂点に立ち前田家の“顔”たる御方が背を丸めどんよりとした表情をなされていては、内外に示しがつきませぬ。虚勢でもいいですから、胸を張り毅然と振る舞いませ」
一聴すれば責めている風にも聞こえるが、違う。当主としてあるべき姿を長頼は説いているのだ。その言葉の裏には、利長を支える意志が隠れている。
それから永福も付け加える。
「家中につきましては我等が目を光らせ、殿の難しい御立場を理解するよう働きかけましょう。……ですから、御懸念には及びませぬ」
前田家を支えてきた重鎮二人の言葉は、重い。下手をすれば若い当主の利長より優るかも知れない。その両名が陰ながら支えるとなれば、家中の反発を抑える期待が高まる。
自分が決めた事にも関わらず家臣達の顔色を窺っていてどうするのだ。長頼に喝を入れられ、永福には背中を押され、利長は気持ちを改めた。
「……ありがとう」
利長が感謝を口にすると、長頼は照れたように顔を横に向け、永福は口元を緩ませた。その様を右近は温かい眼差しで見つめていた。




