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一 : 命を削りて尽くす忠-(11)返礼の饗応

 伏見での対面で精も(こん)も尽き果てた父は危篤状態から脱したものの、依然予断を許さない状況は続いた。調子が良い時は覚束ない足取りながら立って歩く事もあったが、大半の時間は(とこ)から離れられず(かわや)へ行くのも小姓に両脇を抱えられる有様だった。

 家康訪問の日程は、父の回復を考慮し日延べするか、息絶える前に会わせるべきか、痛し(かゆ)しの心境だった。()む無く右近は利家に判断を仰ぎ、『儂が生きている内の方がいい』と告げた。その旨を受け右近は徳川家と調整した結果、訪問日は三月十一日に決まった。

 病床の父に代わり、利長が饗応準備の指揮を執った。家康の好物を調べ、山海の幸を取り寄せる段取りを組み、そして何より大坂へ到着した家康の安全を守る為に警護する体制を構築し手配した。徳川家側でも護衛を付けてくるだろうが、大坂で襲われるような事があれば“前田家の差し金か!?”と真っ先に疑われる。当然ながら徳川方も警戒したが部外者の乱入にも前田家側も目を光らせた。

 そして迎えた、当日。慶長四年三月十一日。

 周囲の祈りも叶わず父は(とこ)払いは出来なかった。本人は不本意ながらこの形で家康と会うしかない。

 朝、父の元に伺候(しこう)する利長。その姿を目にした父は小姓に命じて体を起こさせる。

「父上、御体に(さわ)りますから……」

 家康が来るまで体力を温存してもらいたい利長は慌てるが、利家は無視して問い掛ける。

「孫四郎。お主、覚悟は出来ておるか?」

 真剣な眼差しで強く迫る父に、多少の違和感を抱きながらも利長は答える。

「はい。饗応の支度は万事整っております」

 正直に答えた利長に、父は「そうか……」と短く漏らした。その姿はどこか落胆しているように利長の目には映った。

 フゥと息を一つ吐いた父は、いつもの顔に戻り応じた。

「――そうか。くれぐれも恙無(つつがな)く頼むぞ」

「ははっ」

 父の代理で応対する利長は身を引き締めて(うけたまわ)る。小姓の手を借りながら横になる父の瞳は、どこか達観しているように見えた。

 受け入れの最終確認もある利長は、父の前から辞す。幾つか意味深なことが頭に引っ掛かったが、間近に迫る家康到着へ集中しようと切り替えた。


「何だこれは!?」

 饗応準備の進捗状況を確認すべく門前へ来た利長は、吃驚(きっきょう)の声を上げた。

 明らかに、兵の数が多い。それに鉄砲や弓など飛び道具を(たずさ)える割合も高い。これでは威圧していると解釈されても不思議でない。

「はぁ……孫四郎(利政)様より『不測の事態があっては当家が叱責される』と仰せになられ、念には念を入れよ、と」

 困惑顔で説明する家臣に、思わず舌打ちする利長。言い分は尤もだが、明らかに過剰だ。

「兵の半分は屋敷の周りを警護せよ! それから、鉄砲・弓衆は多過ぎるから刀槍へ持ち替えよ! 急げ!」

 最高責任者たる利長の命に、家臣達も従わざるを得ない。大急ぎで配置や武器の変更を済ませ安心した頃、徳川家から(おとな)いを知らせる先駆けの者が到着した。いよいよ来るのだと利長は気を引き締め直す。

 それから四半刻〈三十分〉、こちらへ向かって来る集団が微かに見えた。家康の一行だ。

 供は百名程か。その中には本多忠勝・榊原康政・井伊直政など歴戦の猛者の姿が見られ、暗殺や襲撃に備えている事が窺える。ただ、それは伏見へ訪問した際に前田家も同じように一戦交える覚悟の陣容だったので文句は言えない。

 周りを厳重に兵で囲まれ、門の前に輿が付けられる。扉が(ひら)かれると、下腹が出た中年の男性が姿を現した。

「お待ちしておりました。内府様」

 頭を下げながら挨拶を述べる利長。それに対し「よっこらしょ」と言いながら輿から下りると、中年の男性はにこやかに応じた。

「久しいな、中納言殿。息災にしておられましたか?」

 気軽に声を掛ける男性。この人物こそ本日の賓客・徳川家康である。

 徳川“内大臣”家康、天文十一年〈一五四二年〉十二月二十六日生まれの五十八歳。三河を治める弱小大名・松平家に生を()けた竹千代(家康の幼名)は幼い内から織田・今川へ人質にされ、駿府では今川義元の軍師・太原雪斎から教えを受けたり義元の(めい)・瀬名姫を娶るなど、今川家期待の若手将校として扱われた。その義元が永禄三年五月に田楽狭間の地で織田勢に討たれると、元康(弘治四年〈一五五八年〉改名)は独立へ舵を切る。

 翌永禄四年に織田家と同盟を結び西の(うれ)いを取り払い、西三河の今川方へ攻撃を開始した。途中、家中を二分する一向一揆で一時苦境に立たされるも、家康(永禄六年改名)は永禄九年〈一五六六年〉に祖父・清康以来となる三河統一を果たした、これと前後し“徳川”へ改姓している。

 今川家の弱体化を好機と捉え遠江へ手を伸ばす傍ら、永禄十一年九月に盟友・信長が上洛戦を(おこ)すと援軍を出し、元亀元年の姉川の戦いでは自ら軍勢を率いて駆け付けるなど多忙の日々を過ごした。同じく今川領を狙っていた甲斐の武田信玄と手を組み大井川より西まで版図を拡げるも、今度はその武田家の脅威に晒される事となる。元亀三年十月、信玄は徳川領へ侵攻を開始、十二月二十二日には信玄に無二の戦を挑むも三方ヶ原の地で凡そ四分の一の将兵を喪い大敗。翌元亀四年に信玄が重病を患い甲斐へ引き揚げた事で危地を脱したが、信玄亡き後家督を継いだ勝頼の積極的な攻勢に押される展開が続いた。天正三年五月、設楽原の戦いで武田勢に歴史的勝利を収めた事で、家康はようやく反転攻勢の糸口を掴んだ。

 同盟締結当初は勢力が拮抗していたものの、“天下布武”を掲げ飛躍を遂げた織田家と三河・遠江二ヶ国の徳川家との間で時を追う(ごと)に格が(ひら)いていった。天正七年〈一五七九年〉、信長から『嫡男・信康と築山殿(瀬名の通称)に武田家と内通の疑いがあるので始末しろ』と一方的に言い渡され、家康は泣く泣く従った。天正十年二月に織田勢が武田領へ侵攻すると徳川勢も歩調を合わせ駿河へ侵攻、戦後駿河国を授けられた。東海道経由で帰還する信長を盛大に持て成した返礼で安土へ招待され、五月に安土へ赴いてから足を伸ばし京・堺を見物していたが――本能寺の変の一報が届く。錯乱(さくらん)した家康は『京で追い腹を切る!』と言い放つも家臣達に宥められ、難路が続く伊賀を通過し三河へと生還した。

 その後、空白地帯と化した旧武田領を徳川・北条・上杉の三家で(しのぎ)を削る“天正壬午(じんご)の乱”で甲斐と信濃の大半を掌握、三遠駿と合わせ五ヶ国を治める太守となった。信長の後継者となった羽柴秀吉とは距離を置いていたが、天正十二年三月に織田信雄の要請を受け尾張へ出陣。四月九日に三河へ奇襲する途上の羽柴別動隊を長久手の地で迎撃し池田恒興・森長可を討ち取るなど、公称十万の羽柴勢を相手に互角以上で渡り合った。

 家康に脅威を抱いていた秀吉は天正十三年十一月に徳川家の外交担当で次席家老の石川数正を出奔させるなど揺さ振りをかけるも、効果は薄かった。天下統一の為にどうにか家康を臣従させたい……そこで秀吉は奇策に出る。天正十四年〈一五八六年〉四月に自らの妹・朝日姫を後妻(こうさい)に、それでも家康が動かないので十月には母・大政所なかを“朝日姫の見舞い”名目で三河へ送り出した。秀吉最大限の譲歩に“これ以上は戦になる”と観念した家康は十月下旬に上坂。天正十八年七月、北条征伐の恩賞で家康は関東へ移封。豊臣家重臣として現在に至る。

 眼前に居る家康の顔を見て、利長は目を(みは)る。ふくよかな頬に福耳、そして特筆すべきは肌の色(つや)(すこぶ)る良い。何から何まで父とは対照的な健康体の家康に、心の(うち)で一瞬殺意が湧く。

 しかし、すぐに自制する。衝動的に殺して何になるか。仮に差し違えたとしても老い先短い父と自分を喪った前田家はどうなる。一寸(ちょっと)の気の惑いを(おくび)にも出さず、微笑を浮かべながら応じる。

「はい。内府様も御壮健そうで何よりです」

 胸中で“父の寿命を見定めに来たのだろ”と毒づきながら返す利長。それから、申し訳なさそうな顔で続ける。

「……生憎(あいにく)、我が父は先日来(せんじつらい)より体調が優れず、不肖ながら私()が応対させて頂きます」

「何と。先日対面した折もひどく痩せておられるように見受けられたので心配しておりましたが、そこまで体調が悪いとは……御心労お察し致します」

 家康から気遣いの言葉を掛けられ、神妙な面持ちで「ありがとうございます」と応じる利長。“アンタが大人しくしていればもう少しマシだったのに”と内心(ののし)りながら。

 まぁ、家康も社交辞令で述べているだけで、心中では全く別の事を考えていよう。体型から“狸”を連想した利長だが、正しくその通りだ。世間では“律義者”と持て(はや)されているがとんでもない。先程の狸、いや、底知れぬ不気味さや腹の底の読めなさから“(ぬえ)”の方が当て()まるか。

「では、父の元へ御案内致します」

 そう宣言し、自らが先導する形で家康を屋敷へ招き入れる。その後ろを徳川家の家臣達が続いて行く。

(……そうだ。これは茶の湯と一緒だ)

 案内しながら、ふと思う利長。

 師・千利休から教えを受けた、茶の湯。“侘び・寂び”に着目されがちだが、 “茶室に一歩足を踏み入れれば、俗世でどんな関係であろうと亭主・客となる”という基本的原則がある。それが水魚(すいぎょ)の交わりであろうと不倶戴天(ふぐたいてん)仇敵(きゅうてき)同士であろうと、茶室に入れば無に帰す。亭主は客を持て成し、客は亭主の気配り心遣いに応える。その役割があって始めて茶の湯は成立するのだ。

 茶席ではないが、家康は前田家にとって大切な賓客に違いない。恩讐を一旦脇に置き、大老筆頭の前田家に相応(ふさわ)しい対応をせねば礼を失する。

 考えを改めた利長は、息を吐く。家康の歩く速さに合わせ、呼吸を感じる。利長の(まと)う雰囲気が変わったのを機敏に察した家康は、やや強張っていた表情を緩めた。それだけ余計な気を張らせていた事を反省した利長は、なるべく家康が自然体でいられるよう努めた。


 客間に案内すると、父は中央に敷かれた布団に臥位で待っていた。もう座位を保つ体力さえ残されてないのかと胸が締め付けられる思いだが、利長は表に出さず家康を枕元まで案内する。

 すると、父は利長に声を掛けた。

「孫四郎。内府殿と二人きりで話がしたい。席を外してくれまいか」

 思いの外に張りのある声だったので安心する利長。片や、敵中で主君を一人にさせる事を危惧した徳川方の家臣達が色めき立つ。

 その懸念を払拭(ふっしょく)するように、家康は穏やかな声色で告げた。

「加賀大納言殿(たっ)ての求めだ。恥を掻かすな」

 主君の言葉に不承不承ながら引き下がる徳川家の面々。それから父の方へ顔を向ける。

「お見苦しい所を見せてしまい、申し訳ありません。何分(なにぶん)忠義のみ取り柄の田舎者です(ゆえ)

「なぁに、構いませぬ。内府殿は良き家臣をお持ちだ。……儂も若ければ、右府(信長の通称)様が二人きりになりたいと仰せになられたら、同じ思いだったろう」

 非礼を詫びる家康に、父は気安く応じる。ただ、亡き主君・信長の名を口にした時に一瞬だけ父は遠い目をしながら昔を懐かしむのを利長は見逃さなかった。

 既に二人だけの世界に入っており、利長は静かに徳川家や前田家の家臣達と共に場を後にする。別室に用意した饗応会場へ徳川家の皆様を先にお連れする事にした。

 二人がどんな話をするか利長も気にはなるけれど、年長者同士で積もる話もあろうと割り切りこれから始まる接待に頭を切り替える事にした。


 饗応会場に入ってから、利長は目(まぐ)るしく立ち回り続けた。用意された膳が人数分あるか、出された料理に不備がないか、対応に追われる利政以下家臣達が粗相をしてないか、そして徳川家の家臣達にお酌をしたり話をしたりと、常に目配り心遣いに追われた。

 そうこうしている間に、家康が会場へ入ってきた。まずは無事に登場した事にホッとする利長。家康の身に“もしも”があった場合、前田屋敷は血の海と化していたことだろう。

 着座した家康を持て成そうと利長は高座の前まで移動する。

「ささ、一献(いっこん)

 利長に促され差し出された家康の盃に、酒を()ぐ。それに対し家康は盃をゆっくりと傾け、半分程飲んだ家康はポツリと漏らした。

「……お心遣い、痛み入る。()りながら、暫し一人で思いに(ふけ)りたい。お気持ちはありがたいが、接遇は無用願いたい」

 何か思うところがあった様子の家康は、来た時と打って変わって湿っぽい雰囲気を(かも)し出していた。父とどういう話をしたか不明だが、家康の希望を尊重しなければならない。

「畏まりました」

 軽く一礼した利長は、家康の前から辞す。異変を察した利政や家臣達が近付いてきたが、利長から家康の要望を伝えると“了解した”とそれぞれ散っていった。

 酒が入って場が賑やかに盛り上がる中、上座の家康は一人別世界に居るように黙々と膳に載った料理を口に運び、チビチビと盃を()めていた。


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