一 : 命を削りて尽くす忠-(10)傾奇者の矜持と代償
大坂の前田屋敷に詰める利長は、凶報が届かないか不安だった。傍らに控える右近も気が気でない様子で、険しい形相のまま固まっている。
本来なら伏見に前乗りし翌日に徳川屋敷を訪問するのだが、利家は敢えて日帰りを選んだ。強行日程ではあるものの不測の事態を考慮しての差配とされる。
昼になり、陽が傾き、闇に染まる。刻の進みが遅いと感じつつ、利長は父の帰りを待つ。
そこへ、慌ただしい足音が利長の控える部屋へ近付いてきた。
「申し上げます! 大殿、間もなくご帰還されます!」
先駆けで報せを届けてくれた急使の言葉に、利長も右近もホッとする。生きて帰ってきてくれたと分かり、緊張が解れる。
居ても立っても居られず利長や右近、まつ達が屋敷の前で利家の到着を迎えようとしたが……待ち侘びた帰還に一同は息を呑んだ。
行きは馬上で見送りの者達に手を振る余裕を見せていた父は、護衛が外から見えないよう周りを囲まれ輿に乗って帰ってきた。扉を開けられてさらに絶句する。グッタリとした様子で座っているというより輿の壁に凭れ臥位に近い。顔も真っ青で、息も乱れている。
明らかに困憊している父は立つ気力も尽きている様子で、二人掛かりで両脇を抱えられ輿から下ろされると急いで用意した布団の敷かれた戸板に乗せられ、四人で運ばれて行った。まつが父に寄り添い声を掛けながら自室へ向かう様を見届けた利長は、言葉を失ったまま立ち尽くした。
「兄上」
背後から声を掛けられ、振り返る利長。そこには沈痛な面持ちの利政が立っていた。
今にも泣き出しそうな弟へ、利長は努めて平静な声で耳打ちする。
「仔細は後程」
今は他の者に気取られたくない。利長は瞬時に判断し、利政を屋敷の中へ入るよう促す。
これは、想定を遥かに超える深刻な事態だ。無意識の内に利長は重い溜め息を吐いた。
余人を排し、利長・右近・利政は茶室に籠もった。屋敷内では外から聞き耳を立てられる恐れがあり、密室で遮音性の高い茶室は密談に最適だった。
「さぁ、話してくれ。何があったか、を」
利長が水を向けると、利政は重い口を開いて説明を始めた。
伏見に到着した父は予め用意された馬に乗り徳川屋敷へ向かう。この時は出発時とそう変わらなかったと利政は語る。
徳川屋敷には、家康を始めとした重臣が勢揃いし利家一行を盛大に出迎えてくれた。
馬から下りた利家へ、家康が歩み寄る。利家の方から差し出した手を家康が両手で包み込む。
「この僕にこれだけ大勢の歓待を受けるとは、真に忝い」
「何を申されますか。大納言様は賓客、これくらい当然のことです」
にこやかに応じる家康。そこから利家は家康と並んで客間へ案内されたが、ここで度肝を抜かれる出来事が起こる。
席について早々、食事が運ばれてくる。その日の内に直送された新鮮な魚の刺身に立派な鯛の姿焼き、山城の山間で獲った鶴の吸い物に鹿肉の煮物、さらに利家の好物や故郷尾張の郷土料理など、一人では到底食べ切れない量の品数が次々と出てきたのだ。しかも驚いた事に同行した者達にも豪華な膳が振る舞われ、下人にも食事が提供される徹底振りだった。父は近頃食欲も食事量もめっきり落ち、(毒殺を恐れて)食事に箸を付ける事はしなかったが、徳川家の威信を懸けた饗応振りに涙腺がつい緩んだ……と利政は話す。
会談は序盤から和やかな雰囲気で進んだ。利家と家康は想い出話に花を咲かせ、宴も酣になった頃合に父の方から切り出した。
「殿下より政を託された内府殿がいつまでも自邸とは警護の面で些か心細いことでしょう。向島へ移られては如何か?」
何気ない一言だったが、重大な意味合いが込められていた。向島城は指月に建てられた伏見城の支城として築かれ、文禄五年〈一五九六年〉閏七月十三日に発生した大地震で伏見城が倒壊すると慶長二年〈一五九七年〉五月に木幡山に築かれた新しい伏見城へ移るまで秀吉の京における一時的な住まいとして利用された。今は空き城で豊臣家の管理化にあるが、大老筆頭とは言え家臣の身で豊臣家の城へ移る影響は大きい。防衛面のみならず豊臣家のお墨付きを得たも同然で、今後の政で家康へ有利に働くことだろう。
その重みを知っている家康は、和平の証に勧めてくれた利家の手を自らの両手で包み込むと、無言で頭を下げた。家康に多大な恩を売った父は陽だまりのような温かい笑顔を浮かべ、うんうんと頷いていた。
御家総出の礼遇を受けた利家は、家康が返礼に大坂の前田屋敷を訪れる事を約束して徳川屋敷から辞した。屋敷を出発し徳川の者達から見えなくなった頃に、父は緊張の糸がプツリと切れたのか馬上で突如蹲ってしまった。主君の異変に直ぐ気付いた家臣が慌てて馬から下ろし、念の為に用意していた輿に乗せ大急ぎで大坂へ戻った――。
以上、利政の口から明かされた伏見訪問の始終である。
全てを聞き終えた利長は、腕組みをしたまま瞑目している。利政は責任を感じているのか辛そうな表情を浮かべ、じっと座っている。
やがて、瞼を上げた利長は側に居る右近へ訊ねる。
「……薬師の見立ては?」
「脈が相当弱っている、と。かなり衰弱されておられますが、疲れもあり熟睡されてる由」
右近の言葉に、思わず息を吐く利長。安堵半分、懸念半分といったところか。
あの様子では、父の余命は幾許残っているか。それでも難局は襲ってくる。今度は家康が大坂の前田屋敷を訪れる。大物の家康だから今日明日ではないのが幸いであるものの、期日までに父の体調がどれだけ戻るか。弱味を見せたくない反面、帰ってきた姿を見た限りでは厳しい。
腕組みを解いた利長は、意を決したように告げる。
「右近」
「はっ」
「先方と日程の擦り合わせを任せる。それと、受け入れの準備も」
「承知致しました」
利長の命に謹んで応じる右近。それから利長は弟の方へ顔を向ける。
「孫四郎」
「はい」
「此度はよく父上を無事に連れて帰ってきてくれた。礼を申す。……大役を果たしてさぞ疲れただろう。もう休め」
「……ありがとうございます」
兄から感謝と労いの言葉を掛けられ、畏まった様子で頭を下げる利政。曇っていた顔が少しだけ晴れた利政は、促される形で自室へ戻って行った。
これで茶室には利長と右近の二人きり。利政の前では自重していた嘆息を漏らした利長は、自らの胸中を明かす。
「非常に拙い事になった」
「えぇ。非常に拙いです」
利長の言葉を繰り返す右近。別に巫山戯ている訳でなく、率直な感想だ。
父の死期が近いと知れば、家康はどう思うか。最大の障壁が取り払われると分かり、どう動くか。利家という心棒を喪った豊臣家の行く末は。今でさえ“武断派”と“文治派”の間に埋め難い溝が生じているのに、誰が両者を繋ぎ豊臣家を纏め上げるのか。……まぁ、それは他人事ではないのだが。
沈鬱な雰囲気を先に破ったのは、右近だ。
「大殿が内府様の訪問までに多少なりとも回復なされれば一番ですが、最悪の事態を想定せねばなりません」
「……最悪、とは?」
翳りが差す顔色で訊ねる利長へ、平坦な声で右近が答える。
「期日までに大殿が身罷られる事です」
右近の口から飛び出した語句に、利長は声を失う。ただ、身内による希望的観測で避けていただけで、右近の言う通り有り得る話だ。
残された時間は分からないが、父の死はすぐそこまで迫っている。期日次第では息を引き取る可能性だって十分にある。
「内府様は、まさか……」
「流石にそれは無いでしょう。例え大殿が自らの野望を阻む政敵であろうと、寿命が尽きるのを待つのは倫理に悖る行いで、もし明るみになれば人心は確実に離れていきます」
顔を蒼くする利長へ、即座に否定する右近。確かに、どんな敵でも熟した実が落ちるように相手が亡くなるのを待つのは卑怯と批判される。戦で命の遣り取りをしているから余計に、だ。
「最も考えられるのは、訪問された内府様を病床の大殿と対面する形式かと。大殿は生きていればどんな姿であろうと自分が会うと仰せになると思われますから」
右近の見立てに、利長も“然もありなん”と頷く。
父が死去したなら別だが、生きていれば互角に話せる自分が対応するのは明らかだ。最期の一瞬まで“豊臣家を支える”秀吉との約束を果たそうとする父を、利長は止められる筈がない。
「……では、その方向で用意致そう」
父がひどく衰弱している以上、利長が代わりに取り仕切る必要がある。あらゆる事態を考慮する難しい用意が求められる。
それから、利長は右近へ申し訳なさそうに声を掛ける。
「済まぬな。お主しか頼める者が居らぬ。大変だと思うが、やり遂げてくれ」
徳川家との日程調整から複数の事態を想定し支度を進める事が求められるが、今の前田家で右近以外に頼れる人が居なかった。負担を掛けるのは分かっているものの、右近も自分の役回りを認識しているのか恭しく受けた。
利長は父の余命が短いという厳しい現実と向き合わなければならなかった。北陸の太守・前田家と豊臣家の中枢を支える大老の重責を、自分が耐えられるか。正直、自信は無い。
それでも、前を向く。顔を上げる。現実を直視する。利長は次に進む肚を固めた。




