一 : 命を削りて尽くす忠-(1)慶長四年元旦
慶長四年〈西暦一五九九年、以下西暦省略〉元旦、伏見。
「新年、明けましておめでとうございます」
謹んで年賀の挨拶を述べる壮年の男性。
前田“肥前守”利長。従三位・権中納言。永禄五年〈一五六二年〉一月十二日生まれで三十八歳。前田家嫡男に生まれた犬千代(利長の幼名)は天正四年〈一五七六年〉十五歳の時に父の主君・信長に仕え、元服すると“孫四郎”利勝と名乗る。利勝と同年代の者の多くが信長の嫡男・信忠に仕える中でも天下人である信長の家臣となっただけでなく、天正九年〈一五八一年〉八月に父が能登一国を授かるとその旧領である越前・府中三万三千石が与えられ、同年に信長の四女(三女・五女の説あり)永姫を正室に娶るなど、織田家中でも特別の扱いを受け将来を嘱望されていた事が窺い知れる。
天正十年〈一五八二年〉六月、永姫と共に上洛途上で驚天動地の報が齎される。六月二日、信長の宿泊する本能寺を明智光秀率いる一万超の軍勢が急襲!! 衆寡敵せず信長は非業の死を遂げた。同日、信長の嫡男・信忠や政権の中枢を支える多くの吏僚達も喪い、織田家は一日にして機能不全に陥った。俗に“本能寺の変”と呼ばれる光秀の謀叛を知った利勝は、永姫を前田家所縁の地である尾張国荒子に護衛を付けて避難させると、自らは明智方に与しない蒲生賢秀が籠もる近江・日野城へ駆け込み蒲生勢と共に戦ったとされる。
信長の死後は父の麾下に入り、天正十一年〈一五八三年〉に勃発した賤ヶ岳の戦いでは父が従う柴田方として従軍。四月二十一日に前田勢が戦線から離脱し、撤退した越前・府中城へ翌日に羽柴秀吉率いる軍勢が迫ると父は恭順の姿勢を示した。この後、前田勢は勝家が戻った北ノ庄城へ先鋒として進軍した際、(能登から駆け付けた)母の護衛に残っていた利勝へ「武功を挙げてきなさい」と母から促され、僅か二騎の供廻りを連れて参戦している。戦後、利勝は秀吉から加賀・松任四万石が与えられた。
天正十三年〈一五八五年〉閏八月には佐々征伐の論功行賞で利勝へ越中国射水・砺波・婦負三郡三十二万石が与えられ、前田家の家臣ながら独立した大名として取り扱われる事となる。天正十五年〈一五八七年〉の島津征伐では四月一日に行われた岩石城攻めで搦手口から猛攻を仕掛け、一日で落城するのに貢献した。天正十七年〈一五八九年〉頃、名を“利長”と改める。天正十八年〈一五九〇年〉二月の北条征伐では前田勢として参戦し、上杉景勝や真田昌幸などと共に松井田城や鉢形城・八王子城の攻略に寄与している。文禄四年〈一五九五年〉に上杉家の転封に伴い上杉領だった新川郡も加増され、越中一国を治める身となった。去年には父が隠居し前田家当主の座に就き、加賀国加賀・石川郡二十六万七千石を譲られた。
家督を継ぎ二年目、まだ慣れておらず周りの支えを受けつつ家中運営を行う日々だった。
「うむ」
利長の挨拶を高座で重々しく応じる老齢の男性。正月とあって黒地の大紋直垂を着用している事もあって、威厳や風格を感じさせる。この男性こそ利長の父・利家だ。
前田“権大納言”利家。天文(“てんもん”とも)七年〈一五三八年〉(異説あり)十二月二十五日生まれの六十二歳。尾張国荒子が地盤の土豪の四男に生まれた犬千代(利家の幼名)は天文二十年〈一五五一年〉頃から信長の小姓として仕え始める。翌天文二十一年〈一五五二年〉八月十六日の萱津の戦いで初陣を果たし、首級一つを挙げる武功を立てた。この後に元服し“又左衛門”利家と名乗った。
数々の戦で武功を挙げた事から“槍の又左”の異名で呼ばれ、永禄元年〈一五五八年〉頃に信長の発案で新設された馬廻の精鋭部隊・母衣衆の若手で選抜された赤母衣衆(中堅を中心に構成された対となる“黒母衣衆”もある)筆頭に任じられるなど、順風満帆に出世の道を歩んだ。また、同年に従妹のまつを正室とし、公私共に充実した日々を送っていた。余談ながら、上背があり美丈夫の利家は信長の夜伽相手、衆道関係にあったとされる。
そんな状況が暗転したのは、永禄二年〈一五五九年〉。信長からも気に入られていた同朋衆の拾阿弥が妻・まつの実父の形見である笄を盗み、返すよう迫るも逆に侮辱された事に激昂した利家は拾阿弥を斬り捨ててしまった。しかも間の悪いことに斬殺する様を信長が目撃し、忿怒した信長は利家をその場で手討ちにしようとした。偶然居合わせた家老の柴田勝家や忠臣の森長可が必死に取り成した甲斐もあり、利家は出仕停止処分となった。収入が途絶えた当時の生活は相当苦しかったが、秘かに勝家や仲の良かった木下藤吉郎が支援した事で何とか食い繋ぐ事が出来た。この時の経験から、“笄斬り”と呼ばれる事件を語る際は『それまで親しくしていた者達も落魄れた途端に離れていく、苦境にある時に声を掛けてくれる者こそ頼りとなる人物だ』と後輩達に伝えている。
どうにか主君に帰参を赦してもらうべく、利家は織田家の戦へ無断に参加。永禄三年〈一五六〇年〉五月の桶狭間の戦いでは前哨戦・本戦で計三つの首級を挙げるも認められず、永禄四年〈一五六一年〉の美濃・森部の戦いにおいて素手で人の首を千切り取る怪力から“頸取足立”の異名を誇った斎藤家家臣・足立六兵衛を討ち取る大手柄を挙げ、信長もようやく利家の復帰を許した。永禄十二年〈一五六九年〉には信長の鶴の一声で長兄・利久から前田家の家督を継ぎ、以降も上洛を機に飛躍する織田家に従い各地を転戦。天正三年〈一五七五年〉五月の設楽原の戦いでは四名の鉄砲奉行の一人として大勝利に貢献した。
天正二年〈一五七四年〉頃から柴田勝家の与力扱いとなり、翌年には越前で発生していた一向一揆の鎮圧完了後の論功行賞で信長から府中三万三千石の大名になった。越前を与えられた勝家の目付役を兼務し北陸方面で戦う傍ら、摂津・有岡城攻めや播磨・三木城攻めに駆り出されるなど遊撃的役割も担った。天正九年八月、これまでの多大な貢献を認められた利家は能登一国を授かり、国持大名へ昇進した。日本五大山城に挙げられる難攻不落の七尾城は時代にそぐわないと感じた利家は、七尾湾に近い小丸山に新たな城を築いて居城とした。
北陸方面指揮官である勝家の下で利家は織田家の版図拡大に貢献する中、六月三日に本能寺の変の凶報が届く。当時、越中東部の要衝で攻略直後の魚津城に居た織田勢だったが、勝家は与力の者達も含め一旦領国に戻り混乱に乗じた騒擾に備える事を決めた。実際、嘗て織田家と敵対していた畠山旧臣が落ち延びていた越後から上杉家の支援を受け六月二十三日に能登へ戻ると石動山の荒山砦を占拠、これに天平寺宗徒も加わり旧領奪還へ向け挙兵していた。この動きに対し利家は加賀を治める佐久間盛政の援軍を受け、六月二十五日に敵勢千三百名を全滅させ鎮圧している。
信長の死後、仇敵・明智光秀を討ち織田家の主導権を握ろうとする羽柴秀吉に勝家は強い警戒感を抱いた。同じ思いの織田信孝・滝川一益(“いちます”とも)と連携し秀吉に対抗しようと画策するも、間近に迫った冬が訪れれば勝家の治める越前を始めとする北陸は深い雪に閉ざされてしまう。そこで勝家は十一月に秀吉の元へ利家に金森長近・不破直光を付け、和睦を結ぼうと考えた。
利家は秀吉が下人だった頃から気が合い、清州時代は家が隣同士・安土時代は屋敷が向かい同士、さらに妻のまつも秀吉の妻・寧々と大変仲が良く、子宝に恵まれない寧々から子沢山のまつへ『次に生まれた子を我が家に貰いたい」と約束し、四女・豪姫を養子に迎えた程だった。この関係性を信長は『俗に“犬猿の仲”とはよく聞くが、犬千代とサル(秀吉の綽名)は違うらしい』と評したとされる。そんな親友からの願いに秀吉も快諾、難しい交渉も覚悟していた利家も大役を果たしホッとした。だが、勝家の魂胆は見抜いていた秀吉は天正十年十二月から勝家方へ侵攻を開始。両者の対決は決定的となった。
味方が苦境に喘ぐのを座視していられず勝家は二月末に北ノ庄から出陣。雪を除けながら南下し三月十二日に近江・柳ヶ瀬布陣した。越中を治める佐々成政は対上杉の押さえに残したが、北陸方面の与力衆を総動員し三万の大軍勢だった。この中には利家率いる前田勢も含まれる。片や秀吉も十九日に五万の兵を率いて木ノ本に着陣、両軍は睨み合いの様相を呈した。勝家が近江に出てきた事を受け、一度は秀吉に屈した信孝が再挙兵。その対応の為に秀吉は木ノ本に押さえの兵を残して一旦美濃へ向かった。
これを好機と捉えた佐久間盛政は羽柴方で守りの弱い大岩山・岩崎山・賤ヶ岳砦への奇襲を勝家へ進言。敵中の奥へ攻撃を仕掛ける事の危険性から一度は斥けた勝家だったが、このままでは埒が明かないと判断し『目的を果たしたら直ちに帰陣する事』を条件に許可を出した。四月十九日、盛政率いる軍勢は中川清秀が守る大岩山砦を急襲、守将の清秀は大軍相手に善戦するも討死、砦は陥落した。勝家は戦果に満足するも、盛政は“美濃へ行った秀吉は暫く戻れないから、もう一働きする”と出撃の約束を無視し大岩山砦に留まった。
一方の秀吉。信孝の居る岐阜城へ向かう途中、大雨の影響で増水した長良川・揖斐川の前に大垣の地で足止めを喰らっていた。二十日、盛政による大岩山砦急襲の一報が届くと直ちに軍を反転。木ノ本に至る街道沿いの村々へ後日相応の報酬を与える旨を触れさせ、握り飯・水や松明、草履の提供を呼び掛けた。未の正刻〈午後二時〉に大垣を出発した軍勢は休む事なく駆け通し、戌の初刻〈午後七時〉に先頭集団が木ノ本に到着したとされる。実に十三里〈約五十二キロメートル〉を最速五時間で走破した“美濃大返し”と後年呼ばれる出来事は、膠着した局面を打開するに充分だった。
岐阜へ向かっている途上にあると決めつけていた盛政は、羽柴勢の帰還で大いに慌てその日の夜から撤退を開始。これを羽柴勢は追撃するも、盛政の巧みな采配で攻め倦ねた。激戦の中にある盛政を救うべく、勝家は茂山に布陣していた利家へ軍を前進させ羽柴勢に圧力を掛けるよう求めた。“親父殿”と慕う勝家か、“友”と呼べる秀吉か。悩みに悩んだ末に下した利家の決断は――戦線離脱。どちらにも与しない道を選んだ。前田勢が退いていく光景を目にした佐久間勢は辛うじて保ち続けていた緊張の糸がプツリと切れ軍は崩壊、柴田勢もその余波が及び勝家は少ない供廻りを連れて北ノ庄へ向け敗走した。戻る途中、府中城に退却していた利家へ勝家は粥と替えの馬を所望し、『お主は秀吉と仲が良かったから降伏するように』と言い残して北ノ庄へ去って行った。二十二日、府中城へ進軍してきた秀吉に降伏した利家は北ノ庄城攻めの先鋒を任され、二十四日の攻城戦では忠義を示すべく損害覚悟で猛攻を仕掛けた。戦後、羽柴方の勝利に大きく貢献したと評価された利家は加賀国河北・石川郡が与えられ、尾山(金沢)城に居を移した。
天正十二年〈一五八四年〉三月、前年より秀吉との関係が急速に冷え込んでいた織田信雄(“のぶかつ”とも)は手切れし、同盟を結ぶ徳川家康へ助力を頼んだ。家康は信長の後継として日々伸張していく秀吉を看過出来ない存在と認識しており、これに対抗すべく包囲網の構築を目指した。羽柴家と敵対する四国の長曾我部元親や紀伊の根来・雑賀衆、そして越中の佐々成政だ。成政は寄親の勝家が自刃したのに伴い済し崩し的に秀吉へ臣従したものの、“藤吉郎”と名乗っていた下人時代から蔑んでいた事から内心不満を抱いていた。燻っていた火種を煽るように家康から誘いを受けると、成政は快諾。秀吉が信雄・家康連合軍と対峙し身動きが取れない隙を突き、成政は八月二十八日に前田方の加賀・朝日山城を攻め反羽柴の旗幟を鮮明にした。当初朝日山城を攻めたがそれは目眩まし、成政の狙いは能登・加賀国境の末森城を九月九日に一万五千の兵で急襲した!!
末森城の将兵三百はよく守るも大軍相手に落城寸前まで追い詰められた。一方、金沢で急報を受けた利家は直ちに二千五百の兵で出陣。敵の監視を掻い潜り十一日明け方に佐々勢の背後から奇襲を仕掛けた。突然降って湧いた前田勢の攻撃に佐々勢は大混乱に陥り、損害拡大を危惧した成政が撤退を決断。両軍共に七百五十名の死者を出す大激戦を制した。
その後、十一月に信雄・家康が相次いで秀吉と和睦を結んだ事で戦の大義を失っただけでなく、加賀の前田家と羽柴家に誼を通じた越後の上杉家に挟まれ、成政は苦境に立たされた。それでも諦め切れず家康へ助力を求めるべく十一月二十三日に富山を出発した成政は立山を越える“さらさら越え”で浜松へ向かった。人の背丈を超える雪と厳しい寒さから地元民も足を踏み入れない中を、同行者から凍死する者を出しながら踏破した成政だが、家康から色好い返答を得られず富山へ戻った。
翌、天正十三年。秀吉の弟・秀長を総大将に五月から開始された四国攻めも順調に進み(七月二十五日に元親が降伏)、これと前後し七月十一日に従一位・関白宣下を受けた秀吉は先延ばしにしていた佐々討伐に着手した。八月七日に秀吉が京から出陣するのに先立ち、六日に利家率いる前田勢が佐々勢が占領していた鳥越城(河北郡、能美郡にある同名の城とは別)を攻めた。成政は国内の城砦全てを放棄し富山城へ戦力を一極集中するも七万の羽柴勢に勝機は皆無と悟り、二十六日に嘗ての主家筋・信雄を通じて秀吉に降伏。論功行賞で越中の大半を利勝に与えられ、前田家全体で七十六万五千石の太守となった利家は同年四月に死去した丹羽長秀に代わり北陸方面担当指揮官となり、東国の大名との交渉窓口を務めるなど羽柴(豊臣)家の重臣として存在感を増していく事となる。
天正二十年四月十三日から開始された文禄(同年十二月八日改元)の役では秀吉と共に名護屋に詰め、一時渡海に向けて準備したが停戦交渉が始まり出兵は免れた。その後も一時帰国はあるも大半は秀吉に帯同し、慶長三年〈一五九八年〉四月二十日に隠居したが、政の第一線から退く事を秀吉は認めず側近くに置かれた。
老いの進行や体調を崩す事が多くなった秀吉は、自ら亡き後に秀頼を頂点とする政権運営の構築に乗り出した。豊臣家を支える有力大名から為る“五大老”と実務を担う能吏から為る“五奉行”の合議制とし、利家は家康と並び大老筆頭に就いた。伏見で政を担当する家康に対し、利家は秀頼の傅役として大坂で後見する役目が与えられた。自分が死ねば家康は必ず天下獲りへの野心を露わにすると警戒した秀吉は、唯一対抗する事が出来ると見込んだ利家に豊臣家の居城にして象徴である大坂城の天守へ自由に出入りを許すなど特権を与え、秀頼の将来を託した恰好だ。家康は関東二百五十五万石、利家は前田家全体で能登・越中と加賀二郡約八十三万石と石高では足元に遠く及ばない。それでも秀吉が利家を頼みとしたのは理由があった。
現在、戦場で武功を重ね出世してきた“武断派”と、行政や兵站等で蔭から豊臣家を支え登用された“文治派”の間で深刻な亀裂が生じている。どちらも秀吉が長浜城主になった頃に小姓として仕え始めた小姓上がりの者が多く、譜代の臣が居ない致命的な弱点を子飼いの臣を育成し補おうとしたのだ。こうした者達は身分の低い頃から小さな対立は生じていたものの、文武に実績があり人望のあった秀吉の弟・秀長が仲裁役を担っていた。しかし、秀長は天正十九年〈一五九一年〉一月二十二日に死去。代わって、双方に顔が利く利家がその立ち位置に就いた。武断派の中心人物で三成を唾棄する程に憎んでいた加藤清正は利家を慕い、その三成も(家康と張り合える実力を持つ)利家からの諫言は素直に聞き入れた。また、利家の四女・豪姫は宇喜多秀家、五女・与免は浅野幸長、六女・千世は長岡忠興の嫡男・忠隆と、実力者との縁戚も強みとしていた(但し、与免夭逝に伴い婚姻は解消されている)。以上の点から、石高に反映されない巨大な影響力を利家は有していた。
難題と重責を利家に委ねた秀吉は、慶長三年八月十八日に薨去。享年六十二。水呑み百姓の底辺から天下人に昇り詰め、徒手空拳から位人臣を極めた稀代の傑物だった。しかし、秀吉という偉大な君主の威光で纏まっていた豊臣家を維持する為に利家は家中に睨みを利かさねばならなかったのだが――。
「その……本当に登城なされるのですか?」
気遣わし気に訊ねる利長。
長躯に鍛え上げられた筋肉で覆われていた身体は、この数年でかなり痩せ衰えていた。父も寄る年波に勝てず、次第に体調を崩すようになり去年には草津へ湯治に出ている。今も背筋をシャキッと伸ばすが、顔色は悪い。
「当然だ。仕える主へ新年参賀の挨拶をせぬ者は居るまい」
息子の懸念に“何を言っている”とばかりに一蹴する利家。しかし、その声は壮健な頃と比べ明らかにか細い。
隠居した身ながら、前田家を実質的に動かしているのは父だ。その体にもしもの事があればと考えるだけで、利長の心配は尽きない。
弱った顔を浮かべる利長に対し、「それにな……」と父は言葉を継ぐ。
「今日、どうしてもやらねばならぬ事がある。儂にしか出来ぬ、大事な大事な役目が、な」
そう言い、父はニカッと笑う。心配する息子を安心させようとしたのだろうが、明らかに無理をしているのが伝わり心が痛んだ。
どっこいしょ、と重い体を上げた父は、足を摺るように歩き出す。傍らで寄り添う正室・まつの支えが無ければ今にも倒れそうだ。
文字通り“命を削って”までやらねばならぬ事とは何か。老いた父の小さくなった背中を見送りながら、考えさせられる利長だった。