【幕間】誰かを愛する才能
誰かを愛するということは、一つの才能だ──ルキエ・ゾルゲは常々思っている。
ルキエは帝国南部のそこそこ裕福な家の生まれで、兄が二人、姉が一人、妹が二人いた。
裕福だけど、ルキエは学校に通っていない。女は学校に通う必要はない、という考えの地域だったのだ。
女は結婚し、子どもを産んで育てるのが役目だ。夫となる人を愛して尽くしなさい、と大人達は言う。
だけどルキエには、その才能が致命的に欠如していた。
誰かを好きになることはあっても、愛することはできない。
そんなルキエに、周りの女達は言った。
──まだ、運命の人に出会えていないだけよ。
──婚約したら、きっと気持ちが変わるわよ。
困ったことに、ルキエにはどの言葉もしっくりこなかった。
多分、ルキエのことを一番理解していたのは一つ年上の姉だ。
美人で気立てが良くて甘え上手で、皆から愛されている姉は、ルキエと特別仲が良かったわけじゃない。
ただ、ルキエの性格を理解して、適度に放っておいてくれた。それがルキエにとって丁度良い距離だった。
そんな姉は結婚して家を出ていく時、ルキエに言った。
『あんたには向いてないかもね。結婚』
それをたまたま聞いていた叔母達は、こぞって眉を吊り上げた。
『なんて酷いことを言うの!』
『ルキエが可哀想!』
『大丈夫よルキエ。あんたは美人だから、ちゃんと嫁ぎ先が見つかるわ!』
叔母達の中では、美人で誰からも愛されている姉が、未婚の妹を馬鹿にした──という物語が出来上がっていたらしい。
だけどルキエにとって姉の一言は、とてもしっくりくる言葉だったのだ。
(私に結婚は向いてない。そうよ、その通りだわ)
そう自覚したらとても気が楽になって、ルキエは心の底から姉に感謝した。
その頃、ルキエにはやりたいことがあった。彫り物だ。
父が扱う商品の中に魔導具のブローチがあって、ルキエはそれに魅せられた。
最初は木を彫るだけで満足していたけれど、できれば金属を熱して曲げたり、模様を彫ったりもしてみたい。
だけどルキエの生まれた地域では、女は火を扱う鍛冶場には入れなかった。
だからルキエは、調理場の残り火でこっそり金属を曲げたり、叩いたりして加工し、彫金の真似事をした。
刺繍や編み物も嫌いではなかったけれど、やはり彫り物が自分には一番しっくりくる。
親はルキエが彫り物に夢中になることをよく思わなかったけれど、服飾品の飾りビーズを自作しているのだと言って誤魔化した。
親もルキエが彫刻刀を握るのは、趣味の範疇だと思っていたのだろう。
上の姉が嫁いで一年が経った頃、父に婚約を命じられた。相手は父の取引先の息子で、ルキエの二つ上の青年だった。
温厚で、親切で、偉ぶらない好青年だった。
多分、婚約者としてでなかったら、普通に好きになれたと思う。だけど、それだけだ。ルキエは誰かを愛する才能なんて持っていない。
姉は、誰かを愛するのが得意な人で──人を愛する才能があった。
姉のことを、男に媚びるのが上手いなどと僻む者もいたが、それなら媚びを売るのだって才能だ。
姉は人を楽しませることが好きで、相手の好きな物や、人間関係を覚えるのも得意だった。他人に興味がないルキエとは大違いだ。
夫の姉はどこに嫁いでいて、どこそこのワインが好きだの、姑は誰それと不仲だから同席にならないように気をつけてだの──そういう気遣いがルキエは不得意だ。
何故なら他人に興味がないから。
だけど、婚約をするのなら、相手のことを知らなくてはいけない。
気が進まない、相手のことを思うなら別の人にした方がいい、と消極的な態度を見せたが、相手は是非ともルキエが良いのだという。
そこまで言われると、ルキエも強くは拒めず、ズルズルと出会いの日を迎えてしまった。
──今思うと、強く拒むべきだったのだ。お互いのためにも。
婚約者となる男は、善人だった。
彼はルキエの好きな物を訊きたがった。ルキエを理解しようとしてくれた。
彼は、彼の考える優しさと誠実さで、ルキエを愛する努力をしてくれたのだろう。
愛する人を知ること、理解することは当然なのだと、ルキエの周りの人間は口を揃えて言う。
──それが、煩わしかった。
ルキエは、好きな物を誰かと共有したい人間ではなかったのだ。一人で好きな物を愛でていればそれで良かった。他人に自分を理解してほしいとも思わなかった。
だから、彫り物に興味のない彼が、ルキエの「趣味」を理解しようとしてくれた辺りで……どうしようもなく、気持ち悪くなってしまったのだ。
彼はルキエの作った彫り物を見て、優しく微笑み、こう言った。
「これからも、趣味は続けて良いんだよ」
あ、無理だ。と思った。
彼は何も悪くない。誠実にルキエを理解しようとしただけだ。
ただ、ルキエは理解されなくていいし、しないで欲しいと思った。思ってしまったら、もう駄目だった。
結局のところ、ルキエは誰かを愛する才能も、誰かに愛される才能もなかったのだ。
何より、ルキエはそんな才能など欲していなかった。
愛せなくていい、愛されなくていい。神様に才能を一つ貰えるなら、物作りの才能がいい。
だから、親不孝も自分勝手も承知で、家を出ると決めた。
愛せなくてごめんなさい。
愛されなくてごめんなさい。
……そういう申し訳なさはあったけれど、それだけだ。
特に悲嘆に暮れるでもなく、ルキエは淡々と荷物をまとめて家を出た。
女が職人になれる場所は限られている。そうでなくとも、実績のない家出娘を受け入れてくれる工房なんて、都合良く見つかるはずもない。
そういった諸々を考慮して選んだのが、〈楔の塔〉だ。
自分は一生、誰からも愛されなくていい。理解されなくていい。
だからどうか、職人として生きることに、全てを捧げさせてほしい。
それが、ルキエ・ゾルゲの望みだ。
* * *
ある日、ルキエが第一の塔〈白煙〉の食堂で朝食を食べていると、隣にティアが座った。
他に空いている席があるのに、何故わざわざ自分の隣に座るのか。
この間、魔導具を粗末にしたティアに、かなりキツイことを言った自覚はある。
間違ったことを言ったつもりはない。ただ、あの時のルキエは、ティアが魔導具の価値を知らない、という可能性を意図的に無視した。自分の怒りを押し通したかったからだ。
──なんてことを考えていたら、隣に座ったティアがパンを小さく小さく千切りながら言った。
「ねぇねぇ、ルキエはお姉ちゃんがいるの?」
そういえば、そんな話を宿舎で同室のゾフィーに話した記憶がある。
ゾフィーは雑談のとっかかりにしたいのか、そういう話をよく振ってくるのだ。兄弟姉妹はいるの? とか、気になる人はいる? とか。
自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのが好きではないルキエは、面倒臭くなって適当に返事をしていた。
「……それがなに? あんたに関係ある?」
「関係ないけど、わたしにもお姉ちゃんいるから、嬉しくなったの。ルキエは、お姉ちゃんと仲良し?」
「あんた、それで仲が悪いって言われたら、どうするつもりだったの」
ルキエが素っ気なく言うと、ティアはピロロ……と喉を鳴らした。
ティアは時々、こういう奇怪な声を上げる。
「考えてなかった。ルキエは、お姉ちゃんと仲が悪い?」
「……良くも悪くもなかったわよ。ただ……」
美人で、社交的で、皆から愛されていて。誰かを愛して、愛される才能を持っていた姉は、ルキエのことも愛していたのだろうか。
別にどちらでも良いけれど、あの一言は嬉しかったな、と思う。
──あんたには向いてないかもね。結婚。
「仲が良かったわけじゃないけど……姉は、私のことをよく見てた。あぁ、私の姉なんだな、って思ったわ」
「ペフフフフ。そっかぁ」
ふと、気づく。
ティア・フォーゲルは入門試験の時からずっと、空が飛びたいと主張し続けていた。魔術の勉強なんてしたことがないけれど、そのために〈楔の塔〉に来たのだと言っていた。
空が飛びたいティア、職人になりたいルキエ。
魔術師の家の出ではないし、何の使命もないけれど、どちらも自分の夢を叶えるために、〈楔の塔〉の門を叩いた。
〈楔の塔〉に来た動機だけを見れば、ルキエとティアは似ているのだ。
もしかしたら、姉には自分がこんな風に見えていたのだろうか──とティアを横目に見ながら、ルキエは頭の隅で考える。
愛する才能がなかった人間と、繁殖に愛を伴わないハルピュイア。
一人と一匹は互いの事情を知らぬまま、朝食のパンをパクリと食べた。