【8】〈美少年〉特技認定
夜の森の中、それはゆっくりと動き出した。
夏の夜の森は草木の匂いが色濃いが、ヒクヒクと鼻を動かしていると、草木とは異なる匂いが分かる。
──あれは獲物の匂いだ。
それは心のままに遠吠えしたい衝動を堪え、ベロリと舌舐めずりをした。半開きになった口から、ダラダラと涎が垂れる。
その足で地面を踏み締めると、喜びが胸を満たした。
強く、強く地面を蹴り、それは大地を駆けだす。あぁ、なんという開放感!
窮屈な皮に押し込められていた鬱憤を晴らすように、それは黒い風となって夜の森を駆け抜ける。
──さぁ、己が誇りを取り戻しに行こう。
* * *
目の前に広がる断崖絶壁を見上げ、レンは絶望に満ちた顔で呻いた。
「これってさぁ……ほぼ、山じゃね? もう、森じゃないよな、山だよな?」
試験会場の森は、南は比較的平坦な土地だが、北に行くほど山が近くなり、高低差も増える。
ティア達が目指す、最も遠くにある×印はまさに、高低差の激しい北の方にあった。
ティアは目の前の切り立った崖を見上げて首を捻る。
「山かなぁ? このぐらいなら、まだデコボコした森じゃないかな」
「多少ではあるが、人の手が入っているようだな。見ろ、階段がある」
セビルが指さした先には、地面に丸太や木の板を埋め込んだ、簡素な階段らしき物があった。
ただ、それは一定の幅で規則的に作られた物ではなく、極めて足場の悪いところを補助する程度の物だ。
当然に手すりもないし、一歩間違えれば崖の下に真っ逆さまである。
レンは「うへぇ」と顔をしかめたが、ティアは素直に感心した。
「親切!」
「この程度で親切かよ。美少年のお出ましだぞ。赤い絨毯敷くぐらいしろっつーの」
「文句の多いやつは置いていくぞ」
セビルがスタスタと歩き、その後ろをティアがペタペタ、少し遅れてレンがバタバタと続く。
試験開始から丸一日以上が経ち、今は二日目の昼過ぎ。試験終了は明日の正午であることを考えると、日が暮れるまでにここを登りきりたい。
崖を登る道は険しく、上り坂の合間に階段のような足場がある。
道は決して広くはない上に、足を滑らせたら滑落しかねないので、三人はセビル、ティア、レンの順番で一列に並んで進んだ。
「ティア、足を滑らせぬよう気をつけろ。お前の歩き方は少し危なっかしい。レンはどうしてもキツくなったら申告しろ」
「ピヨップ!」
「おぅ……」
体力のあるティアは元気に返事をしたが、レンは既に息も絶え絶えである。軽口や悪態を口にする余裕もないらしい。
それでも意地があるのか、レンは黙々と足を動かしてティアの後ろについてきた。
ティアは坂を歩きながら空を見上げる。今日は雲の多い日だが、空気はそれほど湿っていない。明日まで天気が崩れることはないだろう。
(高いところ、久しぶりだぁ)
そんなに高いところまで来たつもりはないが、地面よりもずっと空を近くに感じる。それが、ティアには嬉しい。
(飛行魔術を覚えたら、もっといっぱい、もっと高く飛べるんだ)
よし頑張るぞ、とティアは意気込み、エッホエッホと足を動かした。
雲が出ていても、空の明るさでティアは大体の時間が分かる。日没まで、あと一時間程度だろうか。
地図には高低差までは詳しく記載されていなかったが、目的地までそれほど距離はないように思える。
やがて、西の雲が夕焼けの色に染まり始めた頃、セビルが口を開いた。
「見えてきたぞ、頂上だ」
ティアの後ろでレンが「あぁぁぁ……ぉぇ、うっぷ」と喜びの声をあげた後でえずいた。本当に限界が近いのだろう。
「レン大丈夫? 顔がヘニョヘニョしてるよ」
「待て、三秒待て。今、美少年に戻るから」
レンは己の顔を両手で覆うと、宣言通り三秒でパッと手を離した。
パチンと開いた緑の目、薔薇色の頬、愛らしい笑みを浮かべるふっくらとした唇──なんだか髪まで艶を取り戻した気がする。
「どうだ、美少年復活! 頬を伝う汗も、少し苦しげな吐息も愛らしいだろ? ……ふぅ」
レンは横髪を指にクルリと巻きつけ、顔の角度を意識して吐息を漏らす。
セビルがどこか感心したように言った。
「なるほど、これは確かに特技だ。よろしい、お前の美少年を特技と認めよう…………む?」
セビルが眉をひそめて、腰の剣に手を添える。
同時にティアも前傾姿勢になった。シュルシュルという嫌な音を聞いたのだ。
長い体の生き物が、体を引きずって移動する音──ただ、蛇にしてはその音が重い。これは、体の大きい生き物が立てる音だ。
ティアはピヨッという声を飲み込み、音が聞こえた方を凝視する。
(……まさか)
ぬらりと、木々の陰からそれは現れた。
* * *
セビルは以前、竜討伐に参加したことがある。
故に目の前に現れた生き物を見た時、最初は竜の一種かと思った。
だが、竜と言うには明らかに体が長すぎる。
薄茶の鱗に覆われた長い体躯は、丸太を三本ほど束ねたぐらいの太さがあった。その先にある頭は人間を容易く丸呑みにできそうなほど大きい。
巨大な蛇──そう表現することを躊躇わせるのは、その背中に一対の羽が生えているからだ。
羽を生やした異形の蛇は赤黒い舌をダラリと垂らし、シュウシュウと喉を震わせて、こちらを見据えていた。
セビルは驚愕を押し殺し、腰の剣に手を添え呟く。
「驚いたぞ、レン。お前の特技は、魔性をも惹きつけるのか」
「いや、いや、いや、なんだよこれ……あっ、そうか幻術か! 幻を見せる魔術があるって、本で読んだことがある! 絶対近くに試験官隠れてるぜ、これ!」
異形の大蛇が尾を一振りした。その尾の先端には太い鉤爪があり、細い枝を複数斬り落としながら、地面を深々と抉った。
抉られた地面から土埃が巻き起こり、レンが軽く咳き込む。
こんなの、幻術にできることじゃない。
「……ゲホッ。なぁ、これ作り物だよな? 中に人が入ってるんだよな?」
そうだと言ってくれ、と泣きそうなその顔が言っていた。
セビルは抜いた曲刀を構える。
「作り物に、あのような動きができるのか?」
「じゃあ、新種の竜だ。ほら、翼竜っているじゃん。あれの仲間なんだよ、きっと……!」
「わたくしは翼竜を見たことがある。あれは全くの別物だ」
現存する魔法生物は、竜と精霊だけ。目の前の蛇は、そのどちらとも違う。
異形の大蛇が羽をはためかせた。ゴゥ、と強い風が地面を叩き、蛇の巨体が浮き上がる。
巨大な口を持つ頭がスルスルと空に上り──そして、勢いよく降下した。
「二人とも、下がれっ!」
叫びながらセビルはギリギリまで蛇を引きつけ、その口元に切りつけた。だが、大蛇は器用に身を捩ってそれをかわす。
セビルの剣は突きには向かない剣だ。深く肉を抉るには、馬などに乗って加速する必要がある。
故にセビルは、飛びかかってくる大蛇の勢いを利用して、曲刀でその体に切りかかった。だが、なかなか深い一撃が決まらない。直前でスルリとかわされてしまう。
その動きに、セビルは明確な狡猾さを感じた。少なくともこれは、目の前の生き物にただ襲いかかるだけの、単純な生き物ではない。
セビルは、レンとティアを鼓舞するべく声を上げた。
「わたくしは、竜と戦ったことがある。竜の体は非常に硬く、眼球、口腔、眉間への攻撃しか通じないのだ」
再び大蛇が飛び上がる。
大きく開いた口からは、白く鋭い牙が見えた──それでも、竜の牙に比べたら細い。
「喜べ! この蛇は竜より楽な相手だぞ!」
「わぁ嬉しいな! ……って喜べるか畜生っ!!」
ヤケクソのように叫んだレンが、「あっ」と何かに気づいたような声を漏らした。
遅れてセビルも気づく。空に浮かび上がった大蛇の体に、何かが張りついている。
白髪の少女──ティアだ。
「ティアっ! あいつ何やって……!」
レンがギョッと目を剥く。セビルもまぁまぁ驚いた。いつのまに飛び移っていたのやら。
その時、頭上でピョロロロロとご機嫌な声がした。
「高い! すごく高い! 飛んでる! わぁ〜〜〜!」
「あの馬鹿ぁーーーーーーーー!!」
レンが悲鳴をあげた。