【28】水晶教会
何もかもが水晶でできた森、水晶領域──そこに、周囲から浮き上がる異質な建造物があった。
──それは教会だ。
森同様、何もかもが水晶と化した礼拝堂と聖具室、後は幾つかの部屋や倉庫がある、古い建築様式の教会である。
水晶領域は極めて魔力濃度の高い土地で、人間は長く生きられない──つまり、人間の職人を滞在させて、建造物を作らせることはできない。
その教会は、この土地が水晶領域になる前からあるもので、現在の水晶領域における唯一の建造物でもあり、上位種の魔物達が集う場所でもあった。
本来ならとっくに朽ちているであろうその教会が、今も当時のままで残っているのは、水晶化しているからこそだ。
そんな教会の一室で、水晶のテーブルに突っ伏している魔物がいた。
鮮やかな金髪の美しい青年の姿をした魔物──ジルは、その端正な顔をデロリと歪めて、力無く呟く。
「ぽっぽー……」
「見るに堪えない間抜けヅラだな。頭が溶けたか、ヒル野郎」
扉の方から響いた声に、ジルはノロノロと頭を持ち上げる。
「相変わらず口が悪いね、おじいちゃん」
そう呟くジルの視線の先にいるのは、銀の毛並みを持つ狼だ。
狼はノシノシと室内に入ってくると、窓から日が差し込む場所で体を丸める。
「ここは俺の寝床だ。喉笛食いちぎられたくなければ、出ていけ。お前がいると、香水臭くて鼻が曲がる」
「この俺の魅力を最大限に引き立ててくれる香りなのに。流行も分からないなんて、可哀想なおじいちゃん」
ここぞとばかりにジルはシャツの胸元をはだけ、天を仰ぐ。
銀の毛並みの狼は、呆れたように鼻から息を吐いた。
「……ここから出られないくせに、よくもまぁ、流行とやらを追いかけられるもんだ」
「そこはねぇ、眷属ちゃん達の力を借りて? ……あっ、ごめんねぇ〜。おじいちゃんにも眷属いたんだっけぇ? どーせ〈原初の獣〉なんて、殆ど子孫達に忘れられてんでしょ。かーわいそぉー」
銀の狼──〈原初の獣〉はどうでも良さそうな態度で、目を閉じた。
一般的に、人間に擬態できない獣の姿をした魔物は、下位種に分類される。だが、それは母親の腹から、或いは卵から孵ったものの話。
かつて、上位種の魔物と同様に、深淵の闇から生まれた始まりの魔獣がいた。
それが、〈原初の獣〉である。
他の下位種の魔獣達にも、かつては始まりの魔獣がいたのだ。
今となっては、生き残っているのはこの銀の狼ぐらいで、〈原初の獣〉は、この狼を指す言葉になってしまったが。
「なにがおじいちゃんだ。人間どもから見たら、てめぇも大概に年寄りだろうが」
「日頃から身嗜みを気にしてる俺と、毛並みボサボサの小汚い狼さんを一緒にしないでくれますぅ? もうね、美意識が違うっていうか? すぐに暴力に訴える野蛮さがありえないっていうか?」
ペラペラとジルが不満を並べ立てたその時、部屋の扉がコツコツと叩かれた。
この水晶領域で、そういう人間らしい仕草をする者はあまりいない。
部屋に入ってきたのは、フード付きマントを羽織った青年だ。青年はジルを見て、深々と頭を下げる。
「おかえりなさいませ、ジル様。ジャック様はご一緒ではないのですか?」
「…………」
ジルは無言で立ち上がると、マントの青年の襟首を掴み、その頭を近くの壁に叩きつけた。
グシャリ、という音がするが、ジルは気にしない。
「ねぇ、宰相。お前の作った水晶鋲、最悪なんだけど? 途中でヒビが入ったしさぁ」
ジルは青年──宰相の頭を、壁にグリグリと押しつける。
宰相がガヒュッと苦しげな息を吐いた。
「申し訳……あり、ませ……」
「お前、俺を殺そうとしたね?」
ジルが低く甘い声で囁く。
宰相はフードの下で薄く微笑んでいた。
「……滅相もありません」
「うっかり死んでも、まぁいっか〜。ぐらいに思ってたでしょ?」
「…………」
「水晶鋲、さっさと改良してくれるぅ? ジャック坊やが帰ってきたら、また一緒にでかけるからさぁ。着け心地良くしてね。着けてるのを忘れるような軽やかさでよろしく」
「…………」
「返事は?」
「はい、仰せのままに」
ジルはゴミをクズカゴに投げ捨てる気軽さで、宰相をポイと床に投げ捨てる。宰相が口から吐いた赤い血が、水晶の床を汚した。
水晶でできた廊下を歩くジルが向かうのは、一番奥の部屋。
そこは家具のない、寂しい小部屋だった。ただ、壁に一枚の絵がかけられている。
絵の前には、一人の人物が佇んでいた。
見た目だけなら十代後半ぐらいだろうか。少年にも少女にも見える美しい顔をしている──その魔物に性別はない。
顎の辺りで切り揃えた髪は、雪のような白。
身につけているのは、所々スリットの入った漆黒のローブで、髪や肌の白さを際立たせた。
その魔物が微かに身じろぎする度に、ローブの裾が揺れ、スリットからローブの内側がチラリと見える──ローブの中には暗い闇だけが広がっている。
漆黒のローブよりもなお黒く、暗く、深い深い闇が。
この彼でも彼女でもない生き物が、この時代の魔物達の王。
人間達に魔王と呼ばれる存在だ。
ジルは自分が美しいことを自覚している。それは流行を調べ、その時代に最も美しいと思われる容姿になるよう己の形を整え、身につける物を厳選しているからだ。
手入れをし、整えることで生まれた美しさがジルの美なら、魔物の王のそれは、人の手の行き届かない秘境の美しさに似ている。
厳しい冬の寒さの中にある、誰にも踏まれていない新雪の美。
暗い暗い夜空の黒と銀色に輝く月の美。
そういった美しさが人の形をとったら、こうなるのではないかと思わせる美しさがある。ただし、その美を目に焼きつけるには、死の恐怖がつき纏うのだ。
「はぁい、王様。野蛮な狼とゲロ臭い宰相のせいで心が荒んだから、綺麗なものを見に来たの。ご一緒してもいい?」
「許す。美しいものが与える幸福は、共有することで更なる幸福をもたらす」
「美しいものを独占する喜びだってあるけどねぇ?」
「わたしは幸福を共有する喜びこそ尊く思う。同胞が少なくなった今は、尚のこと」
魔物が自由に大陸を行き交う時代は終わり、魔物達は滅びたと、〈水晶領域〉を知らぬ人間達は思っている。
事実、魔物達は滅びかけている。
深淵から新しい上位種の魔物が生まれることも殆ど無い。
人と魔物の領域は断絶が進み、人を食う魔物、人と繁殖する魔物は著しく数を減らしている。
──魔物達の滅びは近い。
だからこそ、幸福を共有する同胞がいることを、魔物の王は尊ぶのだ。
「──我らは深淵の申し子。人の業より生まれし者。故に人を求めずにはいられない。望めば朽ちよ、望めば果てよ。最後の一人になろうとも。最後の一人になろうとも……」
詩を口ずさむかのように呟きながら、魔物の王は絵画を見つめた。
絵の中では、聖女と呼ばれる人間の女が祈りを捧げている。
頭上には光が差し、背中に羽の生えた人間達が空から彼女を見下ろしている。あれはハルピュイアではない。天使と呼ばれる神の使いだ。
天から降り注ぐ柔らかな光と天使達が、彼女を祝福している──繊細なタッチで描かれたその絵は宗教画と呼ばれるものだった。
魔物の王はこの絵をとても気に入っていて、よくここに見に来る。
ジルも同じだ。ジルは人間が作る芸術品を愛している。
水晶化していないこの絵画は、眷属を通じて人間達に献上させた物だ。
時に魔物達は人間の姿や文化を真似るが、それでも魔物は創造力がない。
真似はできても、ゼロから何かを生み出すことはできないのだ。この絵を描いた人間のように。
「宰相が、水晶鋲の量産に成功した」
魔物の王が、絵画を見つめたまま呟く。
ジルは、先日水晶鋲を刺したばかりの己の胸元を撫でて、舌を出した。
「性能はイマイチなんでしょ。魔獣達に使うの?」
「そうだ」
「一度にたくさんの魔物が山を下りたら……ふふ。きっと、人間達はビックリするねぇ」
王が動けば、恐怖が降り注ぐ。人々の嘆きと絶望は、王の糧となるだろう。
「その間に、俺達は事を進めるってわけね。良いんじゃない、王様?」
深淵と呼ばれる暗い場所で、人間の負の感情と魔力が結びつき生まれた魔物達は、ある意味、人間から生まれた生き物と言って良い。
そのためか他の魔法生物と違って、人間に依存し、執着する。
ジルが人間の血や芸術に執着するように、魔物の王にも執着があった。
魔物の王が、その目を静かに輝かせる。
虹の煌めきを内包した、美しい銀の目を。
「長き悲願も、じきに叶う」
そうして魔物の王は宗教画を見上げる。
銀色の目に、憧憬を滲ませて。
恐怖を振り撒く魔物の王なのに、その姿は絵画の聖女のように無垢な美しさだった。




