【8】勝つか負けるか、生きるか死ぬか
第二の塔〈金の針〉の一階は、訓練場とは別に、もう一つ大きな部屋がある。それが医務室の本室だ。
怪我の治療が主となる医務室は、最も怪我人が出やすい〈金の針〉に本室を置き、第三の塔〈水泡〉の第一分室は医療用魔術の研究。第一の塔〈白煙〉の第二分室は、日常的な軽微な怪我の治療が主となっている。
フレデリクとの戦闘でそこそこ派手な怪我をし、辺りに鼻血を撒き散らして〈赤き雨〉となったオリヴァーは、すぐ近くにある〈金の針〉内部の医務室本室で治療をすることになった。
「うぇ〜ん、なんで、あーしがこっちに来ている時にぃ……」
「うっさいよ、マイネ! アンタと同じ〈白煙〉の子だろ。面倒見ておやり!」
泣き言を言いながら、オリヴァーの傷を洗っているのは、ゴワッとした黒髪に眼鏡の女。そんな彼女を叱り飛ばしているのは、白髪を三つ編みにした、肉づきの良い老女だ。
眼鏡の女は、第一の塔〈白煙〉にある、医務室第二分室の分室長であるマイネ分室長。
そして、三つ編みの老女は、この第二の塔〈金の針〉内にある、医務室の室長を務めるトロイ室長──つまり、この〈楔の塔〉における医療従事者の最高責任者だ。
トロイ室長を一目見た瞬間、ティアは思った。
(ボスだ。この人は、群れのボスだ)
トロイは体は大きいが動きは機敏だ。なかなかに恰幅が良く、ティアが正面から体当たりをしたら、弾き返されてしまうかもしれない。とにかく強そうだ。
一方、分室長のマイネは、なんとなく頼りない雰囲気のお姉さんで、今もオリヴァーの手首を診断しながら、「捻挫してるような、してないような〜」などとブツブツ言っている。
痺れを切らしたトロイが「おどき!」とそのふくよかな体でマイネを押し退け、オリヴァーの手首を診断した。
「骨折はしてないけど、手首が軽い捻挫さね。攻撃を受け流し損ねたんだろう。マイネ! 固定しておやり!」
「はぁ〜い、ただいまぁ〜」
そのやりとりを、ティア、レン、セビル、ローズの四人は壁際で見ていた。
レンが小声で言う。
「あのばあさんには、あんまり世話になりたくないな……」
「そうか? 寧ろ、頼もしいではないか。信頼できる医者だ」
セビルはトロイ室長の手際の良さに、感心しているようだった。
一番端に立つローズは、物珍しげに医務室の中を眺めている。実を言うと、ティアもそうだ。
用途のよく分からない道具や薬瓶がいっぱい詰まった棚。薬やハーブの匂い。
ハルピュイアにとって馴染みのあるものではないが、なんだか懐かしい気持ちになるのは、ティアが世話になった魔女様の家を思い出すからだ。
フンフンフン、とティアが部屋の匂いを嗅いでいると、レンがオリヴァーに言った。
「それにしても、オリヴァーさんさ……オレが言うのもなんだけど、よく入門試験合格できたよな」
「うむ。飛行魔術で崖を飛び越えたのだ。野うさぎさんの如く」
「あ、だから、野うさぎさんなのかぁ」
オリヴァーの言葉に、ローズがポンと手を打つ。
ティアはあの入門試験を振り返った。鍵を四つ集めて、金庫を開けて、〈楔の証〉を手に入れて戻る試験。
ティア達は徒歩でせっせと崖を上ったが、なるほどオリヴァーの跳躍力があれば、崖上りも難しくはないだろう──空中での腕かきは大変そうだけど。
「ピヨッ? つまり、オリヴァーさんは鍵を四つ集めたの?」
「否。集められなかった。それでも、他の金庫は軒並み空になっていたので、最後の希望を胸に、俺はスタート地点から最も遠い場所に向かったのだ」
スタート地点から最も遠い場所──つまりオリヴァーは、ティア達と同じ場所を目指したのだ。
「最後の夜に辿り着いたその金庫は扉が開いており、中に〈楔の証〉があったのだ」
ティアはピョロロロロ……と鳴きながら、あの日のことを思い出す。
蔵書室室長リンケが使役する翼の生えた蛇を撃退し、金庫に辿り着いたティア達は、鍵を使って金庫を開けた。
ティア達が金庫を開けたのは夕方だ。そして、オリヴァーが金庫に辿り着いたのは、その数時間後の夜。
レンもティアと同じことを考えていたのだろう。彼はハッとした顔でセビルを見る。
「セビル、〈楔の証〉を手に入れた後……金庫の扉閉めたか?」
「レンが閉めたのではないのか?」
「あの時、セビルが先頭だったろ! 金庫を開けたのもセビルだった!」
セビルは腕組みをし、余裕たっぷりの態度でフッと笑った。
「つまり、わたくしが金庫の扉を閉め忘れたおかげで、オリヴァーは合格できたということだな!」
開き直るセビルに、オリヴァーは大真面目に頭を下げる。
「そうだったのか。感謝する」
「良かったなぁ、オリヴァー」
開き直るセビル、素直に感謝するオリヴァー、ニコニコと喜びを分かち合うローズ。
そんな大人達に、レンが「いいのか、それで……」とぼやく。
あの時は金庫のそばに、蔵書室室長のリンケがいたが、彼女はあくまで〈楔の証〉の大量持ち出しを防止するだけで、鍵の開閉までは触れなかったのだろう。
結果、開きっぱなしになっていた金庫から、オリヴァーは〈楔の証〉を手に入れたというわけだ。
オリヴァーがティア達より先に戻れたのは、高低差がある場所の移動時間を飛行魔術で節約できたからだろう。
その時、マイネ分室長が細長い布を広げながら、オリヴァーの前に座った。
「はいはーい、包帯巻くよ〜。ちょっと腕上げてね〜。いやぁ、随分こっぴどくやられたねぇ〜。これ、ランゲ君にやられたの? ……って、あー……君もランゲ君だっけ。紛らわしいや。二人とも似てるねぇ〜、双子?」
「否。年子だ」
「へぇ〜。髪を下ろしたら、お兄さんと間違えそうだねぇ……あ、包帯キツくない?」
「ゆるい」
「ひぃん、ごめんよぅ。やり直す〜」
モタモタと解いた布を巻き直すマイネに、トロイが呆れたように鼻から息を吐く。
「まったく何やってんだい、分室長が」
「だぁってぇ、〈白煙〉でそんなに大怪我する人なんて、そうそういませんもん〜。ちょっとした擦り傷の手当てとか、二日酔いや痔の薬の処方とかぁ……」
そのやりとりを聞きながら、ティアはピロロ……と難しい顔で考え込む。さっきから気になっていることがあるのだ。
結局ティアは我慢できず、レンに小声で訊ねた。
「ねぇ、レン。あの人は、なんでオリヴァーさんに布を巻いてるの?」
「……は?」
レンはチラチラとローズの方を気にし、さりげなく動いて距離を空けて、小声でティアに話しかける。
「なんでって……手当てだよ、手当て。傷が開かないようにガーゼ当てたり、手首固定するように包帯巻いたり……」
「包帯って、あの白い布?」
「そうそう」
ティアはちょっとだけ驚いた。
「あれって、お洒落じゃなかったんだ?」
「失礼だろそれは! え、つーか、お前、手当てとかそういうの……」
「しないよ。魔物は怪我をしたら、魔力が多いところで休んで回復するもん」
レンがあんぐりと口を開けて絶句した。どうやら、相当衝撃だったらしい。
ティアは他の魔物の生態に詳しいわけではないけれど、多分上位種の魔物も、わざわざ手当てはしないのではないかと思う。魔物は人間よりもずっと回復力が高いのだ。
傷口を舐めたり、洗ったりぐらいはするかもしれないが、薬を塗ったり包帯を巻いたりなんてしない。
ふとティアは思い出す。
人間のもとを逃げ出し、行き倒れたティアを拾った男──カイも、包帯を巻いていたのだ。
(てっきり服の一部か、そういうお洒落なんだと思ってたけど……そっか、カイは怪我をしてたんだ……)
それならやっぱり、カイは人間なのだろう、とティアはなんとなく思う。
だって魔物は、わざわざ包帯で手当てなんてしない。
ティアが一人納得していると、ローズとセビルの会話が耳に入ってきた。
「なぁなぁ、さっきヘーゲリヒ室長が言ってたこと、本当にやると思うかい?」
「あそこまで言い切ったからには、やるのだろう。腕が鳴るな」
さりげなく元の位置に戻ったレンも、会話にまざった。
「討伐室相手に魔法戦ってやつ? 正直、無謀だろ。そもそもオレら、まだ魔術を習ってもいないんだぜ」
これに興味津々の様子で口を挟んだのが、包帯を巻き直していたマイネだ。どうやらお喋りが好きらしい。
「え、なになに? 魔法戦するの? 誰と誰が?」
「兄者と、我ら見習い魔術師一同でだ」
オリヴァーが淡々と答えると、マイネは顔をクシャクシャにして「ひゃぁぁ」と声をあげた。
「それは、見習い君達が可哀想だよぉ〜。お兄さんのランゲ君……もうフレデリク君でいいや。彼、討伐室のエースだもん。勝ち目ないってぇ〜」
「マイネ! 口より手を動かしな!」
「はぁ〜い、トロイ室長!」
マイネはキュッと口を閉じて、包帯をせっせと巻く。
そのやりとりを聞いていたティアは、ペフゥと喉を鳴らした。
(魔法戦かぁ……)
セビルはやる気満々だが、正直ティアはあまり気乗りしない。
ティアの目的は飛行魔術で空を飛ぶことだけで、魔術を使った戦闘に興味があるわけではないのだ。
そもそも、命の保証がされている魔法戦に勝って、それが何になるのだろう?
(生きるか死ぬかの戦いなら、一生懸命になるのは分かるけど……)
死にたくないから、必死になる。それは分かる。
でも、勝ちたいから必死になる、という気持ちがティアには分からない。
空を飛んで、歌を歌えれば、それでティアは幸せだ。
(わたし、フレデリクさんに勝って嬉しい理由がない……)
或いはフレデリクが嫌いなら、戦う理由になったかもしれない。
だけどティアは、飛行魔術で空を飛ばせてくれたフレデリクにとても感謝しているのだ。
魔法戦で勝ちたい理由がない。フレデリクと戦う理由もない。
ティアはピロロォ……と唸り、考え込む。
(この気持ちで魔法戦をするの、良くない気がする……)
だって、ハルピュイアであるティアは知っているのだ。
戦意なく狩場に現れた愚か者は、ただ無情に狩られるだけだと。




