【17】冬の子ジャック
──あれは、強い魔物だ。
そう確信すると同時に、ティアは混乱した。
(強い魔物が、ここにいる筈ないのに……)
完璧に人に擬態できる強い魔物は、〈水晶領域〉から出られないのだ。
厳密には短時間、短距離なら離れられるが、ここは〈水晶領域〉からかなり南下したところにある森だ。完璧に人に擬態できる、上位種の魔物が来るのはおかしい。
(あの魔物も、わたしと同じやり方で人にしてもらった? あの飴を持ってる?)
「ふふ、うふふ……」
「止まれ」
セビルが鋭い声で命じた。少年は一応足を止める。
セビルは赤くかじかんだ手で曲刀を握り直し、訊ねた。
「わたくしは、子どもに優しいのだが……さて、お前は子どもか?」
訊ねるセビルの吐息が白く曇った。周囲が急激に冷え込んでいるのだ。
「ふふ。ボクはジャック。冬の子どものジャック」
ジャックと名乗った魔物が駆け出す。
それは人や動物が走るというより、風に吹かれた木の葉のような身軽さだった。
セビルが素早く前に進み出て、曲刀で少年を斬りつける。だが、少年はヒラリ、ヒラリと軽やかな身のこなしでそれをかわした。
少年が斬撃をかわす度に、キラキラと氷の粒が周囲に飛び散る。
セビルが一度距離を開けると、ジャックが微笑みながら両腕を持ち上げた。
その笑みは、そのままホロリと溶けてしまいそうなほど儚い。それなのに、見る者の背筋をゾクリと凍えさせる薄ら寒さがあった。
「人の命は小さな灯火。その熱がいじらしくも愛おしい」
ジャックの体がフワリと宙に浮かぶ。ツララの垂れた袖がパタパタとはためいた。
セビルが叫ぶ。
「二人とも下がれ!」
「レンこっち!」
はためく袖から、ツララが勢いよく放たれる。ティアはレンの腕を引っ掴んで、木の陰に隠れた。
勢いよく飛来したツララは、深々と地面にめり込んでいる。その威力にレンがヒェッと息を呑んだ。
あれは、まともに直撃したら、ただじゃすまない。
ジャックはフワリと地面に降り立ち、踊るようにその場をクルクルと回る。
明確な隙だ。だけど、セビルは斬りかからなかった。正しい判断だ。
ジャックはわざと隙を作って、攻撃するよう誘っている。
「楽しいな、楽しいな、人間の子どもと遊ぶのは久しぶり。次は何をして遊ぼう。ねぇ、何をする?」
魔物は人に執着する。
人の肉を食うとか、血を吸うとか、或いは繁殖に人が必要だとか──執着の形は様々だが、ジャックの執着はおそらく熱だ。
人の熱を奪うことを、至上の喜びとする魔物。
(だったら……)
ティアはレンを残して木陰から飛び出し、セビルに叫んだ。
「セビル、兵器!」
「──! タイミングが難しいぞ!」
「ちょっとだけ、頑張る!」
叫びながら、ティアはジャックに向かって突進する。
ジャックは嬉しそうにパッと顔を輝かせ、両腕を広げた。
「ギュッとしてくれるの?」
ティアは琥珀色の目で冷ややかにジャックを見据え、両手を伸ばして告げる。
「そうだよ」
ジャックの白い腕が、ティアを抱きしめた。
ティアの体の表面を霜が覆う。霜は次第に分厚くなり、氷の膜となっていく。
そうして人を氷漬けにして、この魔物は愛おしげに笑うのだ。
「ボクの腕の中で、消えていく人の熱……なんて愛おしいんだろう」
それがこの魔物の、執着の形。
その執着を愛と呼ぶのなら、魔物の愛は暴力だ。
ティアは冷めた目で、氷の魔物を睨む。明確な敵意をもって。
(愛せるものなら、やってみろ)
ティアは凍りついた腕で、ジャックの体をしっかりと抱き返し……その小さな体を持ち上げ、走った。
「ピヨヨヨヨヨ……ふんふんふんふんふん!」
うっとりとティアを抱きしめ、熱を奪おうとしていたジャックが、「えっ」と困惑の声をあげる。
ティアの体の表面は氷に覆われていた。だが、ティアの命は凍らない。
見た目が人間でも、ティアはハルピュイアなのだ。簡単に熱は奪えない。
「なに、この体……? 君は……」
「やぁっ!」
ティアは抱きしめたジャックの後頭部を、思い切り木の幹に叩きつけた。大きく腕を動かした拍子に、ティアの腕を覆っていた氷も砕け散る。
ジャックは「ガヒュッ」と悲鳴をあげた。普通の人間なら首が折れているところだが、流石は上位種。頑丈だ。
ジャックが震える腕を持ち上げた。その袖から垂れるツララが、ナイフのようにティアの首を狙う。
「ピヨヨヨヨ!」
ティアはジャックから手を離して後ろに跳び、ツララをかわした。
入れ違いでセビルが距離を詰める。ティアの体に隠れるようにして近づいたセビルは、曲刀でジャックに切りかかった。
曲刀の一撃が、ジャックの左肩から先を切り落とす。ツララの垂れた袖ごと、ジャックの腕がボトリと地面に落ちた。
切断面から血が流れることはない。切断面は雪を詰めたみたいに真っ白で、そこから血の代わりに氷の粒がハラハラと落ちる。
ジャックの動きが止まった瞬間、少し離れた場所にいたレンが、右手を前に突き出した。
「いけぇっ!」
レンの手のひらから、一抱えほどある火球が放たれる。火球を放つ魔導具のブローチを、セビルがレンに渡したのだ。
セビルがティアを小脇に抱えて、飛び退る。
火球がジャックに直撃した。
ジャックの体に火球が触れた瞬間、ジュワッという音がする。焦げているのではない。溶けているのだ。
火球が消えた後に、魔物の亡骸はない。焦げたのは、木と地面だけだ。
火球を放ったレンが、ゆっくり大きく息を吐いた。
「あー、ビビった……思ったよりデカいのな、この火球」
そう言ってレンは、手の中にある赤いブローチをセビルに返す。
セビルのブローチは兵器、もとい魔導具だ。魔力を込めると、一回だけ火球を放つことができる。
そこで少しでも確実に攻撃を当てるため、ティアが魔物を抱きしめている間に、セビルはレンにブローチを渡した。
そしてセビルが曲刀で攻撃をし、その背後から、レンが最後の一撃を放ったのだ。
レンはジャックが溶けた地面を見て、ブルッと体を震わせ顔をしかめた。
「なんか、人を燃やしたみたいで、気分悪いや……あいつ……魔物、なんだよな?」
「うむ。限りなく人に近い形をしていたな。ということは、上位種というやつか?」
「でもさ、強い魔物は〈水晶領域〉から離れられないんだろ? なんで、こんなとこにいるんだよ」
レンとセビルが話をしている間、ティアはしゃがみ込んで地面を観察していた。
ジャックが消えた辺りに、何か鉱石の残骸のような物が落ちている。
(……これって水晶? もしかして、〈水晶領域〉の……)
指でつまみ上げようとしたら、残骸はサラサラと砂のように崩れてしまった。
ティアがピロロロロロと鳴いていると、レンとセビルが左右からティアを挟みこむ。
「というか、ティア、大丈夫なのかよ! 腕! 凍らされてたろ!」
「見せてみろ。凍傷は厄介だぞ」
「わたし、元気! とっても丈夫!」
なにせ中身はハルピュイアなのだ。人間よりも寒さにずっと強い。
あのジャックという魔物が、そこまで強くなかった、というのも理由の一つではある。
詠唱無しで対象を凍らせ、ツララを操る能力は、確かに脅威ではある。だが、上位種の魔物本来の力は、こんなものではないはずなのだ。
ジャックは明らかに弱体化していた──まるで、ティアのように。
考え込むティアの腕をレンとセビルが両側から掴み、手で擦る。凍傷にならないようにしてくれているのだろう。ちょっぴりくすぐったい。
「ぺふぅ……えへへぇ」
ティアが喉を震わせ笑っていると、地面が微かに揺れた。
三人はギョッと音の方を見る。
こちらに向かって走ってくる、白い巨体──雪猪だ。
先程遭遇した二体のどちらかか、或いは新手かは分からない。ただ、周囲に他の魔術師達の姿はなかった。
「逃げるぞ!」
セビルが曲刀を鞘におさめ、ティアとレンを促し走りだす。
ティアはペタペタと走りながら、首を捻って雪猪を観察した。
いつもなら、「なんでここに魔物がいるんだろう? 不思議だなぁ」で終わるところだ。
──そうやって『なんで?』って疑問に思うことは大事だ。
──特にお前は、レンやセビルがいると、二人に考える作業を任せがちだからな。ちゃんと自分でも頭使え。
ふと、ヒュッターの言葉が頭に蘇る。
何故、上位種の魔物がいたのか。この雪猪達と同じ理由な気がする。
これは、自分が考えなくてはいけないことのような気がして、ティアは自分以外の魔物がいる「なんで?」について懸命に考えながら、ペタペタ走った。
(そういえば、ヒュッター先生……魔物に襲われてないかな。大丈夫かな……)