【11】何かになりたい生き物達
ティアの前方をレンがタッタカ走る。それをティアはペタペタ走って追いかけた。
タッタカ、ペタペタ。
タッタカ、ペタペタ。
ティアは人間の足で走ることに慣れていない。なので鈍足ではあるけれど、体力があるので人間よりずっと長く走っていられた。
レンは特別足が速いわけでも、体力があるわけでもないので、ティアが追いつくのはあっという間だった。
第一の塔〈白煙〉を出て、塔と塔の間にある庭園のような場所で、レンは荒い息をしながら足を止める。
レンが振り向き、ティアを睨んだ。走り疲れたのか、その顔は真っ赤だ。
「なんで、追っかけてくんだよ」
「うーんと……なんでだろ?」
何か、追いかけようと思った理由がある気がする。
理由〜、理由〜とティアが首を捻っていると、レンがハァッとため息をついて、その場に座った。
庭園にはフカフカの芝が生えている。ティアもレンの隣に座った。
レンがしているみたいに、膝を抱えて座り、ティアは歌を口ずさむ。
慰めようとか、間をもたせようとか、気まずい空気を払拭しようとか、そういうことを思ったわけじゃない。
天気が良いからとか、芝の香りが気に入ったからとか、そういう理由で、ハルピュイアはなんとなく歌う生き物なのだ。
これでも人のフリをしている間は、割と自重している。
「『ララルゥア・ララルゥア・メーテア、ララルゥア・ララルゥア・メーテア、ララルゥア・アルシェ・ディーアーヴァ』」
「……なんだよ、それ」
レンが膝を抱えてティアを見る。ティアはちょっと名残惜しく思いつつ、歌を止めた。
「晴れた日で気持ちいいから、みんなおいでよ! の歌」
「なんで歌った?」
「歌いたかったから?」
「…………」
「ピョッ! そうだ、歌ってたら思い出した! レンを追いかけた理由!」
レンがギュゥッと顔をしかめる。まるで、これから痛いことが起こるから、それに耐えようとしているみたいな、そんな顔だ。
なんでそんな顔をするのだろう。蹴ったりつついたりなんて、しないのに。
不思議に思いつつ、ティアは口を開く。
「あのね。さっき、ヒュッター先生が訊いたでしょ。魔術で何をしたいか? って」
「……おう」
「それにね、レンがお金持ちになりたいって答えたのが、不思議だったの」
レンの眉間に深い皺が寄る。そのくせ、恥ずかしがるみたいに顔が赤いのはどういうわけだろう。
レンがボソボソ言った。
「どうせお前も、馬鹿みたいだ、軽薄だ、くだらないって思ったんだろ」
「ピロロロロ……そういうのじゃなくて」
ティアはピロピロと喉を鳴らしながら、懸命に言葉を探す。
「魔術で何をしたい? って訊かれて。わたしは空を飛びたい、セビルは魔法剣を使いたいって答えたでしょ。なのに、レンは何かになりたいって答えたから、それがよく分からなかったの」
「質問に対する答えが噛み合ってないって?」
「そんな感じ。レンは何かになりたいの?」
「当たり前じゃん。立派な魔術師になりたい、金持ちになりたい、偉い人間になりたい……普通は何かになりたがるもんだろ。『何かをしたい』と『何かになりたい』は、大体繋がってるんだから」
レンの言葉は、ティアにとってちょっとした衝撃だった。
だって、ティアは何かになりたいと思ったことはない。ハルピュイアのままでいい。
今でこそ人の姿をしているけれど、それは飛行魔術を学ぶための手段で、別に人間になりたかったわけではないのだ。
「……人って、何かになりたがるんだ?」
ティアがポツリと呟くと、レンは少しだけ目を見開き、それからクシャッと顔を歪めて笑った。
「お前って、変なやつ」
「ピヨッ!?」
「なんか、物差しが周りと違うっていうか……あ〜……」
自分の言葉で何かに気づいたのか、レンは抱えた膝に顔を伏せて、綺麗な金髪をグシャリとかいた。一つに結んだ髪が少しほつれて、サラサラ流れる。
「そうだよな。オレ、自分の物差しが小さいって思われるの嫌で、見栄を張ったんだ」
「物差しって、長さ測るやつだよね? 小さいと駄目なの?」
大真面目に訊ねるティアに、レンはフハッと息を吐くみたいに笑う。
「そういうとこ、やっぱ変わってるよ、お前」
レンは抱えていた膝を伸ばし、芝生に両手をついて空を見上げた。
初めて会った時、レンは目を逸らさない強い生き物だと思った。今のレンはちょっと弱っている生き物だ。
「オレさ、別に魔術師になるのが夢だったとか、そういうんじゃないんだ。あの家を飛び出して食って行けるなら、なんだって良かった」
いつも強気なレンの顔が、弱気に曇る。
「……だから、ヒュッター先生の『何がしたい?』って質問に答えられなかったんだよ」
* * *
レン・バイヤーはバイヤー商会の商会長の息子だ。
ただし、正妻の子ではない。妾の子だ。
「ティアはさ、『美人は得だ』って言われたことあるか?」
「ピヨッ? 美人は得? ……繁殖に有利ってこと?」
「おい着眼点……いや、間違っちゃいないんだろうけどさぁ……もっと言いようがあんだろ……」
レンはティアの顔をマジマジと眺めた。
少しキツめの目つきだが、愛嬌のある可愛らしい顔立ちだ。あと数年したら、そこそこ美人の部類に入るのではないだろうか。
だが、ティアは今一つピンとこない、という顔をしている。レンはため息をついた。
「オレの母さん、すげー美人だけど、全然得なんかしてなかった。デカい商家のオッサンに目をつけられてさ、無理矢理、妾にされたんだ。その時、愛し合ってる恋人がいたのにだぜ? ……それで産まれたのがオレ」
母は抵抗し、断ろうとしたらしい。だが母の父がそれを許さなかった。
母の実家は貧しい家だったから、与えられる金に飛びつき、娘を売ったのだ。
「オレが産まれる前から、親父の正妻には息子が三人いてさ。正妻と上の兄貴達は、母さんとオレにすげー嫌がらせするわけ」
レンがまだ小さかった頃は、レンの父親が度々庇ってくれた。
だが、正妻はそれが面白くなかったのだろう。彼女とその息子達の所業は日に日にエスカレートし、そしてついに一線を越えた。
「ある日、あの正妻が下男に金を握らせて、母さんの顔に熱い油をぶちまけさせたんだ」
母は一命を取りとめたが、美しい顔は半分爛れてしまった。
その日から、父はレン達が暮らす離れに寄りつかなくなった。まるで臭い物に蓋をするみたいに。
だったらいっそ、オレと母さんを解放してくれと思った。
だが、顔の爛れた妾を見捨てたら、世間から後ろ指を指され、商売に影響が出るかもしれない、と父は考えたらしい。だから彼は、妾とその息子を離れで飼い殺しにした。
レンは本が欲しいと懇願した。この離れを出て、母を支えて生きていくには学がいる。外国語の読み書きや、難しい計算をできるようになりたかったのだ。
だが、正妻がそれを邪魔した。
──お前にはそんなもの不要でしょう? あの女と同じ綺麗な顔があるんですもの。どうとでも生きていけるわ。
美人って得ねぇ、と言って笑った正妻の顔に、レンは唾を吐き、しこたま殴られた。
「オレって美少年だろ? 母さん似でさ。オレの美少年っぷりを見れば、母さんがどんだけ美人だったか分かるだろ?」
ティアは琥珀色の目で、じぃっとレンを見た。
レンの境遇を、ティアは憐れむでも同情するでもなく、ただ無表情で聞いている。
その反応の薄さが、妙に気楽だった。
「……母さんがさ、オレを見て泣くんだよ。そっくりに産んでごめんねって。私に似てるから、お前も酷い嫌がらせをされるんだ、ごめんね、ごめんね。って」
正妻はレンの顔を見る度に、あの女に似ていて気に入らない、と罵詈雑言を浴びせた。
妾の顔を傷物にして、夫が妾のもとに出入りしなくなって、それでも彼女の気は晴れないのだ。だから、今度はレンに当たる。
それを見た母は泣きながら、レンに謝るのだ。そっくりに産んでごめんね、と。
(母さんは、何も悪くないのに)
正妻には息子が三人いて、一番下の兄だけは、レンにお古の服をくれたり、こっそり本を融通したりしてくれた。レンが読み書きできるのも、その兄のおかげだ。
兄が融通してくれた本で〈楔の塔〉の存在を知ったレンは、三年に一度の入門試験に全てを賭けて、家を飛び出した。
〈楔の塔〉でなら、自分でも勉強ができる。魔術師になれるかもしれない、と縋りつくような思いで。
「セビルの言うとおりだよ。オレが幸せになったところを、正妻やクソ兄貴達に見せびらかしたかったんだ。オレの方が凄いんだぞ。幸せなんだぞって。それで……」
少しだけ、喉が詰まる。
見栄を張るための言葉はスラスラ出てくるのに、本当に思っていたことを口にすると、どうしてこんなに、苦しくなるのだろう。
「それで?」
ティアが続きを促す。無垢な目で、真っ直ぐにレンを見て。
レンは顔をグシャリと歪めた。きっと今の自分は美少年じゃない。
「それで……母さんに言いたかったんだよ。母さんがそっくりに産んでくれたおかげで、オレは人生得をしまくり! みんなに可愛がられてる、幸せ愛され美少年なんだぜ! って……」
「なら、それを最初から正直に言えば良いのだ。馬鹿者」
声はすぐ後ろから聞こえた。振り向くと、セビルが腕組みをしてレンとティアを見下ろしている。
セビルはズンズンとこちらに歩み寄り、レンの左隣に座った。右にティア、左にセビル。挟まれたレンが居心地悪そうにしていると、セビルが手にした紙袋からクッキー一枚を取り出す。
そして紙袋をレンに押しつけた。
「ティアまで回せ」
「……何これ」
「ピヨッ! あ、お菓子だー」
紙袋には大きめのクッキーが二枚入っていた。
レンは一枚取り出して、紙袋をティアに渡す。
ティアもクッキーを手に取り、三人に一枚ずつ行き渡ったところで、セビルが言った。
「ヒュッター先生に頼まれたおつかいだ……が」
セビルは口紅に彩られた口の端を持ち上げ、ニヤリと笑う。
「くすねてやったのだ」
「はぁ?」
セビルはレンとティアの顔を交互に見て、フッと鼻を鳴らす。
「欲しかったからな」
セビルはきちんと「いただきます」と言ってから、クッキーを食べた。
ティアも「いただきます!」とクッキーを齧る。相変わらず小さい一口だ。いつも元気が良いくせに、ティアは何故か食事はポソポソ食べる。
レンも小声で「いただきます」と言ってクッキーを齧った。口いっぱいにバターの香りが広がる。甘い。美味しい。菓子なんて、いつ以来だろう。
レンがクッキーを噛み締めていると、セビルが口の端の食べかすを指で拭いながら言った。
「わたくしの母は、人質同然で父に召された身だ」
あっ、とレンは小さく声をあげた。セビルが何に腹を立てたのか、今更気づいたのだ。
先帝の女癖の悪さは有名だ。何人もの女が泣かされたと聞く。セビルの母もその一人だ。
「ハーレムを作るのなら、全員を幸せにする覚悟で、心からお前を愛してくれる者を集めるがいい」
「…………はぁい」
小声で言うレンに、セビルが「素直でよろしい」と返した。
* * *
ポソポソとクッキーを食べながら、飛べなくなったハルピュイアは考える。
(人間って、難しい)
レンの母には、愛し合っていた恋人がいたという。
セビルは、ハーレムを作るなら心から愛してくれる者を集めろと言う。
(まるで、愛がとっても良いものみたい)
ティアが知っている歌にも、愛を歌ったものは沢山ある。
それは尊いものだと、美しくて素晴らしいものだと、人間が作る愛の歌は、愛を讃える歌ばかりだ。
──愛してるわ、ティア。わたしの大事なお友達。
愛を囁く幼い声が、いつまでも耳にこびりついている。
耳障りだ。早く消えてほしい。とティアは思った。




