【12】歩く覇気(姫)
『今日はねぇ、蔵書室で本を借りてきたんだ』
『ほぅ? 何の本だ?』
『これ。ゾフィーのお勧めなんだって』
フィンが取り出した本を見て、ユリウスは懐かしくなった。
昔、まだユリウスがザームエルの息子になる前、ザームエルに借りたことがある。
ワクワクして、ページを捲る手が止まらなくなった冒険小説。貧しい少年だったユリウスが、何度も何度も繰り返し、夢中で読んだあの本。
『良い本を借りたな』
『ランタンの灯り、ちょっと借りて良い?』
『あぁ、かまわん』
自分が勉強を教えたフィンが、ついに本を読めるようになった。
そうして、昔、ユリウスが夢中になって読んだ本を手に取った。
そのことに、言葉にできない喜びを覚えた時、ユリウスは思ったのだ。
──なぁ、ザームエル。あんたが俺に本を貸した時も、こういう気持ちだったのか?
* * *
(……少し、寝ていたか)
毛布に包まり膝を抱えた姿勢のまま、ユリウスは目を擦る。
どうやら、ぼぅっとしている間に、少しうたた寝をしていたらしい。
一昨日の夜は地下への潜入、昨晩は魔物の襲撃と、騒動が続いたせいで、体はろくに休めていなかった。
昔は──まだ浮浪児だった頃は、どこでも眠れたのに。
同じ室内に閉じ込められている見習い魔術師──ローズ、ゲラルト、ロスヴィータ、ゾフィーはどことなく気まずそうにユリウスを見ていた。気を遣われている。
ローズは隣国の〈茨の魔女〉で、ゲラルトはヴァルムベルク辺境伯の弟だった──その事実以上に、フィンが魔物であったという事実が、ユリウスを打ちのめしている。
(……全部、嘘だったのか)
違うだろう。とユリウスは確信している。
だって、フィンの向上心は本物だった。字が読めるようになった時、書けるようになった時、本当に嬉しそうだったのだ。
いつも自信無げなフィンに、「自信」を与えてやれたことが、ユリウスも誇らしかった。
父ザームエルに与えてもらった知識を、別の誰かに伝えることができたみたいで。
(……俺は、どうしたらいいんだ)
ユリウスが猛勉強をし、〈楔の塔〉にやって来たのは、父の追放の理由を探るためだった。
だが、その理由はもう分かってしまった。
父の仇め──と誰かを憎めたら良かったのに、それすらできない。
強いて言うなら、〈楔の塔カリクレイア〉が必要になった原因である、魔物を憎めば良かったのかもしれない。
だが、自分はフィンを知ってしまった。
優しくて、勇敢で、思いやりのある、あの素朴な少年を、ユリウスは憎めない。
父は死んだ。フィンは裏切った。アグニオールは姿を消した。
立ち上がり方が、分からない。
ボンヤリした思考のまま、もう一度まどろんでしまおうかと目を閉じたその時、張りのある声が響いた。
「待たせたな、皆のもの! わたくしの帰還だ、盛大にもてなすが良い!」
歩く覇気ことセビルが、勢いよく扉を開けて室内に入ってくる。
その後にティア、レン、ルキエが続いた。廊下の方では、エラが見張りの男にペコペコ頭を下げているのが見える。
(遠征組が帰ってきたのか……)
真っ先に立ち上がったのはゾフィーだった。
ゾフィーはそのピンク色の目を潤ませて、セビルに飛びつく。
「わーん! セビルぅー! セビルだぁー! ティアとレンもいるぅ〜!」
「ピヨップ! ただいま!」
「美少年の帰還だぜ」
元気そうなティアとレンの後ろで、ルキエがボソリと言った。
「……ただいま」
「ルギエェェエ」
ゾフィーがベショベショの泣き顔で、今度はルキエにしがみつく。
ルキエはその額をグイグイと押した。
「ちょっと。鼻水つけないで。汚い」
「その対応、本物のルキエだぁ……」
ゾフィの大騒ぎが一段落したところで、セビルは他の顔ぶれを順番に見回す。
「ロスヴィータ、昨晩は善戦であったと聞いた」
「……〈原初の獣〉には、敵わなかったわ……全然、届かなかった」
絞り出すような声で呟き、ロスヴィータは唇を噛む。
そんな彼女に、セビルは胸を張って告げた。
「まずは生き延びたことを誇れ。敗北から学び、何度でも挑めば良いのだ。わたくしはそうやって兄を引き摺り下ろす機会を狙ってきた」
サラリと物騒な皇帝一族事情を暴露し、続いてセビルはゲラルトの前に立つ。
ゲラルトは正座の姿勢のまま、背筋を伸ばした。長い前髪の下で、目が泳いでいる。
「ゲラルト、すまんな。わたくしはお前の素性に気づいていたのだ。既にレン達には語っている」
「……あ、はい、あの……」
「深く追求はせぬ。だが、そうだな……兄に叱られるのが怖くなった時は、わたくしを頼るが良い。わたくしは頼りになるぞ?」
セビルはパチンとウィンクをして、次はローズを見る。
「ローズよ、わたくしの留守中によくぞ皆を守ってくれた」
「最終的に捕まって封印されちゃって、ごめんなー」
「構わぬ。それも作戦の内であろう。オリヴァーは不在だが、こうして誰一人欠けることなく……いや」
そこでセビルは言葉を切り、静かに呟く。
「……フィンは魔物だったそうだな。誰ぞ聞かせよ。フィンは、お前達に牙を向けたのか?」
ユリウス以外の全員が首を横に振る。
セビルがユリウスを見た。
やめろ、見るな、話しかけるな。とユリウスは声に出さず叫ぶ。
「酷い顔だな、ユリウス」
「…………」
「虚勢を張る余裕もないか」
その通りだ。余裕がない時でも笑え、という父の教えは胸にあるのに。もう、指一本動かすのも億劫だった。
セビルは腰を折り、ユリウスの顎を掴んで顔を覗き込む。
そうして黒獅子皇の妹姫は、女獅子のように凶悪に笑った。
「その顔。なるほど、わたくしと同じ結論に行き着いたか。互いに、難儀な父を持つと苦労するな」
その言葉に、ユリウスの体は勝手に動いた。
己の顎を掴むセビルの手を、力任せに振り払う。
怒りと不快感に眉が吊り上がる。
「やめろ……ザームエルは……」
喉が、勝手に叫び出す。
「父さんは……お前の父親とは違うっ!」
「あぁ、まったくその通りだ」
セビルは折り曲げていた腰を戻すと、いつもの彼女らしく胸を張り、ユリウスを見下ろす。
「答え合わせに付き合え、ユリウス。お前はもう分かっているのであろう? 先帝──わたくしの父と〈楔の塔〉の断絶の理由を。そこに、お前の父ザームエルがどう関わったかを」
室内にいる者達は、話の流れが理解できず困惑している。
セビルはレンを指名して、訊ねた。
「レン、先帝が──わたくしの父が世間でどのように評価されている人物であるか、忖度なく申してみよ」
「……忖度なしでいいんだな? 後で『不敬故に処刑!』とか言うなよ」
「言わぬ。さぁ、申せ」
レンは気まずそうに唇を曲げる。そうして一度鼻から息を吐いて、腹を括った態度で言った。
「……女好きで戦争嫌い。美術品の蒐集とか保護には熱心だけど、そのせいで散財してた。戦争回避のためなら、平気で土地を切り売りして……」
「それだ」
セビルの一言に、室内の空気が張り詰める。
「先帝は、火種になるぐらいなら、平気で土地を切り売りする人物だった」
帝国では伝統的に、戦争好きと戦争嫌いが交互で皇帝になると言われていた。
事実、先々帝は戦好きで、国土を広げることに執心した人物である。五十年以上前には、隣のリディル王国に戦争で勝利し、また南方の侵略も積極的に進めていった。
だが、その次に皇帝になった先帝──セビルの父は、戦争嫌いだったのだ。
「そんな先帝が、〈水晶領域〉を手放したいと考えるのは、おかしなことではない。おそらく、北方のダーウォック王国辺りにでも、売りつけようとしたのではないか?」
セビルの紫色の目がユリウスを見下ろし、告げる。
「お前の父、ザームエル・レーヴェニヒの提言でな」




