【8】溶けた呪い
「己の勤めを果たさぬ者に、天国の扉が開かれることはありません」
夜の庭園に響く声は、夜風よりも冷たい。
ゾフィーとローズの靴は氷の魔術で地面に張りついている。ミリアム首座塔主補佐の魔術によるものだ。
ミリアムは修道服を着た美しい女だ。だが、美しさの中に静かな凄みがある。
それはセビルのように、生命力が漲りすぎているが故の苛烈さとは違う。
己の信仰に殉じる覚悟を決めた者の、壮絶さがもたらす凄みだ。
「ゾフィー・シュヴァルツェンベルク。貴女は〈楔の塔〉における務めのみならず、呪術師としての責すらも放棄するつもりですか?」
決してピシャリと叱咤するような声ではない。
ミリアムはただ静かに淡々と、ゾフィーの弱さを突きつける。
「あ、アタシ、人を苦しめることなんて、したくないです……」
「貴女は呪術の本質を理解していない。呪術とは罪人に罰を与え、己の罪を悔い改めさせるためにあるのです。過ちを犯した者に鞭を与えるのは必要なこと。それを怠れば、人はまた同じ過ちを繰り返すでしょう」
「で、でもぉ……」
何を言い返しても勝てない。無駄だ。という確信がある。
黙っていたら泣きたくなってきた。叱られるとそれだけで、ゾフィーは萎縮して泣きたくなる。
「物事には役割があります。ナイフは物を切るために、コップは水を汲むために、そして呪術は人を苦しめるためにある。各々の役割を果たさぬものに、どうして価値を見出すことができるでしょう。貴女はここで、己の価値を示さねばなりません」
呪術は人を苦しめるためにある。
シュヴァルツェンベルク家の呪いは、人を苦しめ殺すもの。それは子どもの頃から言われ続けてきたことだ。
何も言い返せず唇を噛んで俯いていると、ローズが言った。
こんな時なのに、いつものローズらしい穏やかな口調だった。
「ゾフィー、知ってるかい? 世界には面白い呪術があるんだぜ。体がピカピカする呪いだったり、なんでか足の小指がいつも机にぶつかったり、虫が集まってきたり……」
「聞き齧った程度の知識で、何を語ろうと言うのです」
ローズの顔からすぅっと表情が消えた。
緑色の目がランタンの灯りを反射して、トロリと輝く。
「『人の心の淀が溜まった深淵は深き泉。そこより生まれいずるものが魔物ならば、呪いとは魔物になる前の、より深淵そのものに近い力の塊とも言える』」
語る声はビロードのように滑らかで、艶があり、耳から心に染み込んでくる。
「『即ち、広義の意味で呪術師とは魔物を使役する者と言えるだろう』」
古典魔術の詠唱のように語る声が一転、いつもの陽気な男の声に戻った。
「知ってるかい、ゾフィー。魔物を封じた本が山ほどある禁書室ってさ、いつも魔物達が騒がしいんだ。それなのに呪術師が足を踏み入れると、魔物達は頭を垂れるみたいに、ピタリと静かになる」
ローズは何を言っているのだろう。訳が分からないのに、妙な自信を感じる。
「君の力は、そういうすごい力なんだ。苦しめるためだけのもの、って決めつけるのは、ちょっと早いと思うぜ!」
ミリアムの目が冷ややかさを増した。
彼女はローズを明確に、排除すべき異物として認識したのだ。
「……間者が、シュヴァルツェンベルク家の娘を誑かしたのですね」
(えっ、アタシ、ローズさんに誑かされたことになってる!?)
それはちょっとヤダ! とゾフィーが主張しようとしたその時、ミリアムが短い詠唱を口にした。冬の夜風が凍える寒さから、皮膚を切り裂くような冷たさに変わる。
ローズの足を固める氷が更に膨れ上がり、彼の下半身を氷漬けにした。
「ローズさん!」
ローズは己の体を封じる氷に手のひらで触れ、何かに失敗したような、悔しそうな顔をした。
そしてすかさず顔を上げて、ゾフィーに手を──指輪をした左手を伸ばす。
「ゾフィー、頼むっ!」
何を? と聞き返しそうになり、ゾフィーはハッとした。
解呪だ。ローズは指輪の呪いを解けと言っているのだ。
ゾフィーは思い切り右手を伸ばし、ローズの左手の指輪に触れた。ただ触れるだけなら、何をしているかミリアムには分からないだろう。
ただ、解呪には詠唱がいる。詠唱をしたらミリアムにバレてしまう。
どうしよう、と焦っていたら、ローズが声を張り上げた。
「この程度の氷、全然へっちゃらだぜ! オレはムキムキだから、寒さに強いんだ!」
時間稼ぎだ。ローズが大きな声で喋っている間に、ゾフィーは急いで解呪の詠唱をする。
(お願い、気づかれないで!)
ゾフィーは今までにないぐらい意識を集中した。自分の中にある深淵から力を引きずりだし、望む形に変える。
いつもならそれは、他者を苦しめ殺す呪いの形になる。だが、解呪の時は違う。
解呪のやり方は呪術師によって様々で、ゾフィーの場合、呪具に込められた呪いを包み込んで溶かすイメージだ。
(なにこの呪い、めちゃくちゃ凝ってる……複数の効果? 装着者の肉体への干渉、魔力放出量の制限……あとは、魔力を貯める器に呪い詰め込んで、最大魔力量減らしてる? なにこれ、ちょっと待って器の大きさおかしくない? ローズさんって、ほんと何者?)
ゾフィーは混乱した。この呪いもおかしければ、呪いをかけられたローズもおかしい。
呪いは複雑かつ高度すぎるし、ローズの魔力器官は人間離れしすぎて訳が分からない。
(落ち着け、落ち着け。大丈夫。この呪いは解呪すること前提で……ちゃんと解除できるように作られてる)
ミリアムがローズを覆う氷を増やしていく。腰の辺りから胸の近くまで。このまま腕が凍りついたらおしまいだ。
「もっと氷を増やしてくれても構わないぜ! 全部、砕いてやるからさ!」
(解呪!)
指輪から呪いが消えた瞬間、ローズは手のひらを大きく広げ、氷の塊を包みこむように触れた。詠唱はしていない。なのに、氷に亀裂が入った。パァン、と硬い音を立てて、氷が砕け散る。
(えっ、えっ、何したの、今?)
露骨に困惑しているゾフィーと違い、ミリアムは動揺を顔に出したりはしない。
ただ、その目に剣呑な輝きを宿してローズを睨んでいた。
「膨大な魔力量にものを言わせ、魔力放出だけで拘束魔術を破壊する……わたくしは、それができる人間に心当たりがあります」
「じゃあ、自己紹介はいらないな……っと!」
ローズがゾフィーのもとに駆け寄り、足を地に貼り付けていた氷に手のひらで触れる。それだけで、先ほどと同じように氷は砕け散った。
もう本当に訳が分からない。ただ、ローズが今までは呪いで制限を課せられていたことだけは分かる。
「ローズさんって何者なのぉ!? なんかすごくない!?」
「えーっと、説明は後で……」
ローズが言葉を濁したその時、金属と金属が擦れ合う、シャラリという音がした。
シャラリ、シャラリ、という音は速さを増していき、シャララララと金属音が連なる。
ゾフィーとローズの周囲を、宙に浮く鎖が取り囲んでいる。鎖一つ一つは、親指と人差し指で輪を作ったぐらいだろうか。その先端はミリアムの手首に繋がっていた。
華奢な手首をグルリと囲うブレスレットから、若い娘の声が響く。
『対象の情報を要求します』
「赤毛の男、黒と紫の髪の娘──以上二名。捕えなさい」
『捕獲を開始します』
次の瞬間、恐ろしい速さで鎖が宙を走り、ローズとゾフィーを雁字搦めにした。
ローズはポケットに手を突っ込み、何か詠唱をしようとしていたが、鎖がローズの手を縛る方が速かった。
鎖を操る腕輪。その正体をゾフィーは知っていた。
「古代魔導具……〈愚者の鎖デスピナ〉……!」
力任せに鎖に対抗していたローズが、「えっ」と声をあげる。
「それって、蔵書室室長が持ってるんじゃなかったっけ!?」
「元々は、ミリアム首座塔主補佐が使ってたの!」
〈楔の塔〉に三つある古代魔導具の内の一つ、〈愚者の鎖デスピナ〉は拘束と封印に特化した古代魔導具だ。
ゾフィーも適正有りということで、使用の訓練を受けていたから、その怖さは身にしみて分かる。
「ローズさん、これも氷みたいにパキッてできる……?」
「いやー、流石に古代魔導具は無理だなー……」
緊迫感のない口調でそういうことを言うのはやめてほしい。いや、緊迫感があっても、状況は変わらないのだが。
もうこれは無理だ。助からない。古代魔導具は戦力差を一瞬で引っくり返す兵器なのだ。
ゾフィーが絶望したその時、暗闇の中、誰かが駆け寄ってくるのが見えた。
もしかして、見習い魔術師の誰かが助けに来てくれたのだろうか、と思ったが違う。
夜闇の中、微かに見えるシルエットはモジャモジャした頭の男……。
「……アルムスター先生?」
ローズがキョトンとした顔で呟く。
こちらに駆け寄ってきたのは、見習い魔術師の指導員の一人、いつも気弱なアルムスターだった。
ミリアムの援護に来たのか、或いは見習い達を助けようと思ったのか──そのどちらかだと思ったのだが、何やら様子がおかしい。
アルムスターは何かから逃げるかのように、背後を気にしている。
「……ひぃっ、た、たすけてっ……!」
叫ぶアルムスターの背後で、背筋が凍るような声がした。
──ァォォオオオオオオオオオオン!!
狼の鳴き声だ。




