【22】それが一番怖かったのに
「兄者ぁぁぁぁ!!」
叫びながら真っ直ぐに飛ぶオリヴァーの後ろを、猫のように跳躍して追いかけながら、ティアは耳をすませていた。
(……魔物の気配が、たくさん)
あちらこちらで交戦中の音がする。魔術師の詠唱、悲鳴、怒声。大きな体を引きずる音は、前方に見える大ムカデだ。
そして、大ムカデの体の上を移動しているのは、銀の髪の蜘蛛女。
一目見て分かった。アレはティアと同じだ。
ティアがハルピュイアの中でも特に力が強いように、あの蜘蛛女もまた、上位種に届く力を持つ魔物なのだ。
ムカデと蜘蛛女のそばの木には白い糸が張り巡らされ、その中でフレデリクが拘束されている。
「いくよ、オリヴァーさん!」
ティアは跳躍用魔導具で、オリヴァーより高く飛び上がると、真っ直ぐ前方に飛ぶオリヴァーの背中を、上から軽く踏んだ。
オリヴァーは障害物にぶつかるまで止まれないので、こうしてティアが上から押すことで方向転換をするのだ。
オリヴァーは地上に向かって斜め下に飛んでいく。その先にいるのは、大ムカデと蜘蛛女だ。
蜘蛛女はオリヴァーに向かって糸を吐き出そうとして、動きを止めた。
あの手の糸を大量に射出するには、多少の溜めがいる。そうでなくとも、フレデリクとの戦闘で糸を大量に消費したばかりなのだ。
結果、蜘蛛女が糸を吐き出すより速く、オリヴァーの槍が蜘蛛女を狙った。
蜘蛛女は素早い動きでムカデの上を移動して、攻撃を回避。オリヴァーの槍はムカデの背中を少し傷つけただけに終わる。
オリヴァーは一度着地したら、そこで飛行魔術が解除されてしまう。フレデリクのように、飛行魔術で自由自在に飛び回るような戦い方はできないのだ。
だから、ムカデの背中をドスンドスンと踏みつけながら、蜘蛛女を狙う。
「ぬぅぅぅん!」
勢いよく突き出された槍を、蜘蛛女がかわす。オリヴァーは諦めずに攻撃を続ける。
……その間に、ティアはフレデリクに近づくと、ランゲの里で拝借したランタンとたいまつを用意した。ランタンの火を火付け用の小枝に移し、それを松明に移す。
棍棒ほどの大きさの棒に、油脂を染み込ませた布を巻きつけた簡素な松明だ。火はそこまで長持ちはしないだろう。
「ペフッ、フレデリクさん、大丈夫? 意識ある?」
声をかけながら、まずはフレデリクの手の周囲にある糸を火で炙る。
蜘蛛の糸は刃物で切るにはコツがいる。下手をすると刃がベタベタになるので、火で焼き切る方が簡単なのだ。
フレデリクの喉が震えた。薄く開いた目がティアを見て、「どうしてここに」と訊ねている。
ティアは気づいた。フレデリクの首の辺りに牙を食い込ませた痕がある。
(多分、毒を流し込まれたんだ)
あの蜘蛛女が扱う毒は、獲物を殺すための毒ではない。獲物を確実に食らうため、動きを止めるための麻痺毒だ。
すぐに死ぬような毒ではないが、フレデリクが思ったより負傷している。至るところから出血し、皮膚は打撲の痕だらけ。これは人間基準なら大怪我だ。
絡みつく糸を焼き切ると、フレデリクの体がズルリと傾いた。そのまま地面にベシャリと落ちると思ったが、フレデリクはギリギリのところで両足で立つ。
その片手が何かを探していた──多分、槍だ。
「フレデリクさん、槍、目に見える範囲には落ちてないよ」
フレデリクはガヒュゥガヒュゥと不自然な呼吸を繰り返しながら、口を動かした。
『逃 げ て』
か細い声だ。だけど、耳の良いティアには、しっかり聞こえている。
ティアはピョロロと喉を鳴らし、考えた。
(オリヴァーさんじゃ、蜘蛛に勝てない。わたしじゃ、フレデリクさんを運べない)
蜘蛛女も脅威だが、ムカデも厄介だ。その巨体でのしかかられたら、大抵の人間はただではすまない。
ひとまず、重傷のフレデリクを安全な場所に移動させた方が良い。
「オリヴァーさーん! フレデリクさん、生きてる! 運ぶの手伝って!」
「承知!」
こちらに引き返してきたオリヴァーに、今度は蜘蛛女が迫ってくる。
ある程度糸が溜まったのだろう。蜘蛛女は勢いよく白い糸を吐き出した──が、それをティアは松明の火で振り払う。
「フンフンフン! フンフンフン!」
鼻息荒く松明を振り回し、ついでにオリヴァーの腰ベルトに差し込ませてもらった追加の松明を確保。そちらにも火を移して、松明を二本に増やす。
二本の松明で、蜘蛛の糸を焼いている間に、オリヴァーがフレデリクを背負った。
「行くぞ、ティア!」
「ピヨップ!」
オリヴァーがフレデリクを背負い、ティアが松明の火で蜘蛛の糸を焼き払う。
そう分担して、二人は山を下るように逃げた。
背後では、蜘蛛女が「ほ、ほ、ほ」と楽しげに笑う声が聞こえる。
空も飛べない虫ケラが──とハルピュイアのティアは静かに苛立った。
元の姿に戻ったら、存分に蹂躙してやる。
* * *
(……僕は、何をしてるんだ)
オリヴァーに背負われながら、フレデリクは朦朧とする意識を繋ぎ止めるのに必死だった。
全身が痛いし、思考はまとまらない。声を発しようとすると、血泡混じりの咳がでるのでろくに詠唱ができない。これでは、図体がでかいだけの役立たずではないか。
オリヴァーとティアは、木が密集している場所を選んで逃げていた。その方が、体の大きいムカデは追いかけづらいからだろう。
ついさっき、同じことを考えたフレデリクは、まんまと蜘蛛の罠に引っかかった。
実際、あたりにはいたるところに蜘蛛の糸が張り巡らされている。
だが、それをティアが素早く松明で焼き切っているので、三人は蜘蛛の糸に引っかからず移動することができた。ティアはあどけない少女だが、意外と目端が利く。
(でも、このままだと、追いつかれる)
ティアとオリヴァーは決して足が速いわけではない。まして、重傷のフレデリクを背負っているのだ。
(……この二人だけなら、飛行魔術と跳躍用魔導具で、逃げられる)
だが、フレデリクを背負って飛ぶのは無理だろう。二人とも飛び方が特殊すぎる。
真上に跳躍してから、方向転換するオリヴァー。飛行用の羽が不調で、跳躍しかできないティア。
この二人では、重傷かつ図体のでかいフレデリクを抱えて飛ぶことはできない。
一方蜘蛛女は、森の中を移動するのに慣れていた。足場の悪いところは糸を張り、その糸の上をスルスルと渡って追いかけてくる。
(僕が、なんとか、しないと)
ティアとオリヴァーの足が止まる。前方の木々の間にビッシリと糸が張り巡らされていたのだ。ティアが松明の火で糸を燃やしているが、今まで以上に厚く張り巡らされているせいで、なかなか焼き切れない。
ティアが「燃えろ、燃えろ」と念じるように呟いているのが聞こえる。
そこに蜘蛛女が迫ってきた。
(僕の、槍はどこだ)
フレデリクは虚ろな目で手を彷徨わせた。
槍、槍、そうだ、さっき落としてしまった……でも、まだある。オリヴァーの槍が。
指先が柄に触れた瞬間、体が動き方を思い出した。つくづく自分はランゲだ。魔物狩りだ。
ぐったりと弛緩していた体に力を込める。オリヴァーの槍を奪い取り、地に足をつける。
「兄者、駄目だ! 兄者──!」
黙ってろ、クソ弟。と掠れた声で呟き、魔物と対峙する。
蜘蛛女と大ムカデ。ムカデは狭いところだから動きづらそうだ。大木に張り付くようにしているので、体が少し傾いている──丁度良い。
フレデリクはまず、大ムカデの腹と大木の間に槍を捩じ込んだ。そうして、咳き込みながら詠唱。ただ風を起こすだけの短い詠唱でも一苦労だ。
成功しろ、と念じながら風の魔術を発動。
ムカデと大木。その間に捩じ込んだ槍から風の塊が生まれる。結果、風に押されたムカデは木から剥がされ、地面に転がり腹を見せてひっくり返った。
その腹に深々と槍を突き刺し、残る力を振り絞って、ムカデの腹を裂く。その時、指から槍がすっぽ抜けた。力みすぎたかと思ったが違う。
大木の上で、蜘蛛女が笑っていた。その手に、糸で引き寄せた槍を握って。
「頑張ったねぇ、坊や」
動かなくては、と思った。だけど、体が勝手に地面に崩れ落ちる。ここまで動きすぎたせいで、毒が全身に回ったのだ。
そんなフレデリクに蜘蛛女が槍を振りかぶるのと、オリヴァーが飛び出したのは、ほぼ同時だった。
「兄者ぁぁぁ!」
無様に這いつくばり、弟の背中を見上げ、フレデリクは絶望した。
(馬鹿弟め。僕は、これが怖くて怖くて仕方がなかったのに……!)
恐怖をなくしたオリヴァーは、きっと自分の命を顧みず、誰かを助けようとするだろう。
その相手が自分なら最悪だ。いよいよ死にたくなってしまう。
だから、〈楔の塔〉に来たのに。だから、強くなったのに。
(オリヴァーが、死ぬ)
勢いよく振り下ろされた槍の穂先が肉を抉る。鮮血が飛び散り、辺りを汚す。
その時、フレデリクは聞いた。弟の声を。
「…………ロミー?」
槍に貫かれていたのは、黒髪の小柄な娘の上半身。
その下半身は、醜悪な蜘蛛の魔物のそれだった。




