【21】堕ちた速くて脆い鳥
およそ数分前、フレデリク・ランゲが発見したのは、大ムカデの魔物だった。
全長はどれほどの長さだろう。小さな家程度なら、グルリとその体で一周できるのではないかというぐらいに長い。
それが、二匹。
(とうとう、この大きさの魔物が〈水晶領域〉から出てきたか……)
ランゲの里は、最も〈水晶領域〉に隣接した人里の一つだが、それでもこれだけの規模の魔物が現れたことはない。
大きくて力の強い魔物ほど、魔力濃度の濃い土地でないと生命維持ができないからだ。
フレデリクは飛行魔術で上空から、ムカデの体を観察した。
指導室のヒュッターが言うには、魔物達は体に〈水晶領域〉の水晶片を埋め込むことで、行動範囲を広げているのではないか、とのことだった。確かに、ここ最近目撃された他の魔物の体にも、水晶片らしきものが確認されている。
このムカデもそうならば、水晶片を引っこ抜いてやれば、即死とまではいかずとも、弱体化させることができるのではないか、とフレデリクは考えた。
だが、目に見える範囲に水晶片はない。
(……腹側に刺しているのなら、視認は難しいか)
カマキリやムカデの魔物に人間ほどの知能はない。自分達で水晶片を目立たぬ場所に刺す、なんて考えもしないはずだ。
(おそらく、そこそこ知能のある魔物が水晶片を仕込んでるんだ)
ムカデの体から水晶片を探すのは後回しだ。まずは息の根を止めるのが先決。
あの大きさの魔物だと、ヘレナの〈嗤う泡沫エウリュディケ〉では仕留めきれない。ここは自分が引き受けるべきだ。
フレデリクは二体の位置を確認。もう一体が反撃に来ない角度を狙って急降下し、ムカデの一体に槍を振り下ろした。
槍は刺さった、が思ったより深くは刺さらない。
フレデリクの体重が軽すぎることも理由ではあるが、単純にムカデの体が硬いのだ。
(……こういう敵は、リカルドの方が向いているけど)
フレデリクは槍を刺したまま詠唱をした。槍に風を纏わせて、魔物の体を抉るのだ。
だが、詠唱が終わるより速く、右手の方向から何かが飛来した。
フレデリクは咄嗟に身を捻ってそれをかわす。ムカデの体にベッタリと張りついているのは、白い糸だ。
恐怖に血の気が引く。指から力が抜けそうになる。そういう時、フレデリクは反射的に怒りを燃やす。
途切れた詠唱を続けて、魔力を意味ある形に編み上げる。フレデリクの槍に渦巻く風が生じた。それが、ムカデの体を抉る。
「久しぶりだねぇ、坊や」
ねっとりと絡みつくような女の声。忘れるものか。
(殺してやる)
その魔物は、ムカデの体の陰に隠れていた。
上半身は銀の髪を持つ美しい女。そして、下半身は巨大な蜘蛛の魔物だ。その下半身は、少し前に倒した蜘蛛女達より二回りは大きい。
──かつてフレデリクの父を殺した、あの蜘蛛女だ。
フレデリクは風を纏う槍で、蜘蛛女を狙う。
同時に蜘蛛女が大量の糸を吐き出した。粘着性の強い糸は風の勢いを削ぎ、更にムカデが尾を振るって攻撃の邪魔をする。
その間に、もう一匹いたムカデは、どこかに移動してしまった。
(……くそっ、手が足りない)
逃げるムカデ。蜘蛛女と組んで襲ってくるムカデ。どちらを先に撃破するか。フレデリクは判断に迷う。
恐怖に呑まれぬよう怒りを燃やせ。されど、怒りに呑まれて冷静さを失うな。
己にそう言い聞かせ、フレデリクは決断を下した。
(一番の脅威は、この蜘蛛女だ。ここで、絶対に仕留める)
仮に逃げた方を追いかけたら、きっと蜘蛛女に背後から狙われる。逃げたもう一匹のムカデは、他の者に任せよう──フレデリクはそう判断した。
ムカデの巨体の陰で、蜘蛛女がニタリと笑う。
「ワシの妹達を殺したね?」
ティアとレンを襲った、蜘蛛女姉妹。あれは妹達だったか。
あの姉妹は下位種の中ではそこそこ知性があり、強い方だったが、それでも上位種ほどではなかった。
目の前にいる銀髪の蜘蛛女は、下位種の中の特別変異──いわゆる、女王と呼ばれる存在なのだろう。
この強さで上位種ではないなんて、嫌になる。
「嬉しや、あんなに小さかった坊やが、ワシの妹達を殺せるぐらいに強くなって。父親を目の前で殺された時は、あんなに……」
蜘蛛女の言葉が終わるより早く、フレデリクは槍を振るった。
この蜘蛛女と必要以上に会話を続ける気はない。まして、昔話なら尚のこと。
蜘蛛の糸が槍の勢いを削ぐ。ムカデの尾が邪魔をする。
蜘蛛女は、長いムカデの体を這い回りながら笑った。
「坊や、またお前に恐怖と絶望を植えつけてあげようねぇ」
(そうやって、オリヴァーの恐怖も食ったのか)
フレデリクは距離を取り、詠唱をして風の刃を放った。
だが、蜘蛛女は大ムカデの陰に隠れてしまう。ムカデの背中は非常に硬く、風の刃では大したダメージにならない。
やはり、とどめを刺すには魔力付与した槍でないと駄目なのだ。
(ただ、風の刃でも、蜘蛛の糸を食い止めることはできる……上手く使い分けないと)
魔術師が同時維持できる魔術は二つまで。
フレデリクの場合、飛行魔術で常に一手使い続けているので、風の刃と渦巻く風の両方を使うことはできないのだ。
ひとまず、飛行魔術で高度を維持し、風の刃で牽制をして、敵の隙を狙う。長期戦になると不利なのはフレデリクだ。人間よりも魔物の方が、体力も魔力も圧倒的に多い。
(ならば、まずはムカデが動きづらい場所に移動する)
あの大ムカデの巨体なら、木々が密集している場所では動きづらいはず。
そう判断したフレデリクは、飛行魔術を駆使して大ムカデを誘導した。
フレデリクの飛行魔術は機動力が強みだ。多少、木々が密集していても上手にかわして飛び回ることができる。
前方に、良い具合に木々が密集している箇所があった。その木と木の隙間を飛行魔術ですり抜けた時──フレデリクの全身に違和感。
皮膚にベッタリと張りつくそれは、ごくごく細い蜘蛛の糸だ。
「坊や、蜘蛛は罠を仕掛けて獲物を待つものだよ」
(しまった……!)
身動きが取れなくなったフレデリクに、大ムカデが勢いよく突っ込んでくる。
大ムカデは周囲の木々を容赦なく薙ぎ倒し、フレデリクの体を押し潰した。
衝撃に意識が飛びかける。肺が圧迫され、息ができない。それでもギリギリのところで飛行魔術を維持して、フレデリクは土埃の中、上空に飛び上がった。
──クン、と槍が下に引っ張られる。
(……あ)
槍に蜘蛛の糸が絡みついていたのだ。蜘蛛の糸が強く引かれる。
単純な力比べだと、フレデリクは魔物に勝てない。このままだと、槍ごと地面に叩きつけられる。
フレデリクは仕方なく槍を手放した。
槍がなくとも、攻撃手段はある。風の刃で牽制をするため詠唱をしようとして、フレデリクは咳き込んだ。
先ほど肺を圧迫され、更には漂う土埃でむせ、上手に呼吸ができなかったのだ。これでは詠唱もできない。
ガヒュゥガヒュゥ、と呼吸を繰り返すフレデリクの足が引っ張られる。蜘蛛の糸だ。まさか、この高さまで飛ばせるなんて。
フレデリクの細い体が、地面に向かって勢いよく叩きつけられた。
* * *
少し、意識が飛んでいた。
か細い呼吸を繰り返しながら、フレデリクは重い瞼を持ち上げる。
少し下に地面が見えた。自分は木々の間に張られた蜘蛛の糸で、宙吊りにされているのだ。
うつ伏せで頭から坂道を滑り落ちて、途中で停止したら、こんな体勢になるだろうか。我ながら間抜けな格好だ。
全身は酷く痛み、呼吸がしづらい。墜落した時に頭を切ったのか、血が滴って目に入る。血の汚れを拭いたいのに、全身が糸に張りついてままならない。
特に手足は念入りに糸で拘束されていて、手首足首から先が糸に埋もれている。
「干からびるまで、ここに置いておこうかえ……喉が渇いたら潤してあげようね、空腹なら満たしてあげようね……あの時みたいに」
やめろ、黙れ、と怒鳴ろうとして、フレデリクは咳き込んだ。
口の端から血泡の混じった唾液が垂れる。気持ち悪い。
「そうだ。あの日逃げたお前の兄弟は、さぞ大きくなっただろう? あれを目の前でバラバラにして、泣き叫ぶ声を、耳元で聞かせてあげようねぇ」
フレデリクの中に、怒りと嫌悪と殺意が込み上げる。同時に、小さな疑問が浮かんだ。
弟が泣き叫ぶ声を──妙な表現だ。
だって、恐怖を食われたオリヴァーは、恐怖に泣き叫ぶなんてしないのに。
(お前が、オリヴァーの恐怖を食べたんだろう?)
その時、フレデリクの耳に恐怖とは無縁の勇ましい声が届いた。
「兄者ぁぁぁぁ!! 無事かぁぁぁぁ!!」
なんて間の悪い愚弟なんだ、とフレデリクは頭をかきむしりたくなった。




