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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【18】死にやすい弟を持った兄の奮闘


 フレデリクが、あの蜘蛛女と遭遇したのは、父やオリヴァーと共に見回りをしている時のことだった。

 蜘蛛女は恐ろしく強く、ランゲの里で最強だった父ですら歯が立たなかった。


「……真っ先に僕が捕まって、父は僕を助けようとして……オリヴァーは、悲鳴をあげて真っ先に逃げ出したんだ」


 思い出したら胃液が込み上げてきた。

 フレデリクは口元を押さえ、吐き気がおさまるのを待つ。

 脳裏をチラつく鮮血、変わり果てた父の亡骸、むせるような血のにおいを、今も喉の奥が覚えている。

 あの日、オリヴァーが逃げたことを、フレデリクは怒っても恨んでもいない。寧ろ、正しい判断だとすら思う。

 父ですら歯が立たなかったのだ。幼いオリヴァーにできることなど、何もない。

 一番の間抜けは、真っ先に蜘蛛の糸に捕まった自分だ。


「……あの時のオリヴァーには、まだ、恐怖があったんだ。ちゃんと、真っ当に恐怖を感じていた」


 オリヴァーが変わったのは、その事件の後だ。

 ただ、フレデリクはオリヴァーの変化に、すぐには気づかなかった──気づけなかった。


「父が死んだ時、僕はちょっとまともな状態じゃなくて……しばらく、周りから隔離されてたんだ。少し時間が経って、久しぶりにオリヴァーに会ったら、なんかおかしくなってて……」


「おかしく?」


「強がりじゃなくて、恐怖が欠如してるみたいな……今のオリヴァーみたいになってたんだ」


 本来のオリヴァーは、強がりな臆病者だったのだ。勇敢をよそおっていても、いつだって足や声が震えていた。

 それなのに、久しぶりに会った弟は、人として大切な何かが欠けていた。

 別の生き物みたいで気持ち悪いのに、それは確かにオリヴァーで、フレデリクは頭がどうにかなりそうだった。


「周りの大人達は、『父が死んだ責任を感じて、そう振る舞っているんだろう』って言うけど……僕は違うと思った。あの蜘蛛女が、オリヴァーの恐怖を食べたんだ」


 そんなことができる魔物なんて、あの蜘蛛女ぐらいじゃないか──そう気づいた時、フレデリクは恐怖した。

 感情を部分的に食われ、生かされている状態。それは印付きも同然だ。

 ランゲの人間にバレたら、オリヴァーは魔物狩りのための囮にされてしまう。


(だから、オリヴァーが印付きなことは、他の大人達にバレちゃいけない)


 あの蜘蛛女は強い魔物で、〈水晶領域〉から離れるのは命を削る行為だ。頻繁にはランゲの里まで来ないだろう。

 だけど、次はいつ来るか分からない──そんな不安を抱えていたところに、今回の襲撃だ。

 正直、フレデリクは冷静ではいられなかった。


(次に来たら、あいつは同じことをする。僕の前で、オリヴァーを食い散らかす)


 そうなる前に殺さなくては。あの蜘蛛女を。


「フレデリクさんは」


 すぐ隣で声がした。

 この子の声は不思議だ。頭がグツグツと煮立っている時でも、スッと自然に入ってくる。

 憐れむでもなく、気遣うでもなく、ただ思ったことを口にするような素朴さで、ティアは言う。


「オリヴァーさんを守るために、戦ってたんだね」


 フレデリクは苦笑した。

 これを言ったのがティア以外だったら、きっと自分はしかめっ面で「違う」と否定していただろう。


「……誤解しないでほしいんだけど、弟が大事とか、可愛いとか、そういうのとは違うんだ。子どもの頃はまぁまぁ仲良かったけど、今は……」


 フレデリクは言葉を切り、図体ばかり大きくなった弟の言動を振り返る。


 ──兄者! 充分に寝ているか! 安眠にはラベンダーだ! 抱き枕も良いぞ、兄者ー!


 頭痛がした。


「……こっちが苦労してるのも知らないで、何が生活習慣を改善しろだ、睡眠時間だ、あのクソ弟。こっちは魔物をどうにかしなけりゃ安眠なんてできないんだよ、お前はもう家で大人しくしてろ役立たず、って思ってるよ」


「ピロロロロ……」


 ティアが口を菱形にして、奇怪な声を発した。どうやら自分は、あまり穏やかではない表情になっていたらしい。

 いけない、いけない、とフレデリクは顔を捏ねる。


「ただ、オリヴァーがこのまま殺されたら良い気分はしないし……父が死んだ時と同じ思いはしたくない。それだけなんだ」


 端的に言うと、「僕のトラウマをこれ以上増やすな」である。そのために、フレデリクは必死になって毎日戦っているのだ。

 本当は逃げてしまいたい。それこそ魔物に印付きにされたオリヴァーだって、遠くに逃すのが一番良いのだ。

 だけどランゲの人間は──魔物狩りは壁を越えられない。魔物から逃げることは許されない。


「フレデリクさんは、オリヴァーさんは〈楔の塔〉にいた方が安全かも、とは考えなかったの?」


「それも少しは考えたけど……恐怖心をなくしたオリヴァーって、本当に怖いんだ。平気で魔物に突っ込んでいくし、討伐室入りなんかした日には、すぐ殺されるのが目に見えてる。弱いし」


 ランゲの里は魔物狩りの一族だが、率先して魔物を討ちに行くわけではない。あくまで、人の領域を守ることが主だ。力の強い魔物が現れることも、あの蜘蛛女の例を除けば、そう多くない。

 一方、〈楔の塔〉は遠征して魔物を倒すことを主としている。ランゲの里の防衛任務より、討伐室の遠征の方が遥かに危険が大きい。

 魔物と対峙する危険性を考えるなら、ランゲの里にいる方がマシ。

 だが、印付きであることがバレる危険性を考えるなら、〈楔の塔〉の方がマシ。

 どっちを選んでも、不安要素はある。

 それならば、とフレデリクが出した結論がこれだ。


「どう転んでも危険なら、僕が危険な方に行って、オリヴァーは比較的安全な里にいる方がまだマシでしょ。あと、オリヴァーが同じ空間にいると、僕がストレスで死ぬ」


「ペフゥ……どっちかというと、最後が重要?」


「うん。だから、オリヴァーが〈楔の塔〉に来た時は、本当に腹が立ったよね」


 それこそ、思わず槍をぶん投げたくなるぐらいには、である。

 こっちはお前が死なないように奔走してんだから、大人しく家にいろ──とあの時のフレデリクは大変ブチ切れていた。

 正直、オリヴァーに対する愚痴なら、まだまだいくらでも言える。

 だが、フレデリクがそれを口にするより早く、廊下の方で声が響いた。


「ご当主! フレデリク様! 魔物に動きが!」


 フレデリクは素早く立ち上がり、槍を握る。そうしてティアを見下ろした。

 ……本当は、見習いを巻き込みたくはない。だが、現状はあまりにも人手が足りていないのだ。それこそ、見習いの手も借りたいぐらいに。


「ごめん、人手が足りないから、君の力を借りるかも」


「ピヨップ! 任せて。わたし、とっても元気!」


 つい先程まで行方不明になっていたというのに、頼もしい後輩である。

 本当はこんな形でティアと飛び回るのではなく、ただ穏やかに空の散歩ができたら良かったのに。とフレデリクはこっそり考えた。





 フレデリクの後ろをペタペタ走りながら、ティアは考える。

 恐怖を植えつけられた兄と、恐怖を食われた弟──兄は弟を危険から遠ざけようと奔走し、弟は兄の力になろうと奮闘した。

 フレデリクが言うには、オリヴァーは蜘蛛の魔物に恐怖を食われている。

 それは、フレデリクの父を喰った魔物の仕業であるらしい。


(……何か、変)


 ティアは普段あまり表に出さないが、魔物特有の残忍性を確かに持っている。

 だからこそ、分かる。

 フレデリクの父を喰った蜘蛛女は、粘着質に人間に執着する残忍な魔物だ。フレデリクがどんな目に遭ったか──まともに食事と睡眠をとれず、痩せた彼の体を見れば、ティアはなんとなく想像できる。

 蜘蛛女は残酷だ。人の苦しめ方を熟知している。そんな魔物が、こんなにも長い間、オリヴァーを放置するだろうか? 恐怖を食うだけで満足するだろうか?

 なによりフレデリクは、「オリヴァーが恐怖という感情を食われる瞬間」を目撃していないのだ。


(もしかしたら……)



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