【18】死にやすい弟を持った兄の奮闘
フレデリクが、あの蜘蛛女と遭遇したのは、父やオリヴァーと共に見回りをしている時のことだった。
蜘蛛女は恐ろしく強く、ランゲの里で最強だった父ですら歯が立たなかった。
「……真っ先に僕が捕まって、父は僕を助けようとして……オリヴァーは、悲鳴をあげて真っ先に逃げ出したんだ」
思い出したら胃液が込み上げてきた。
フレデリクは口元を押さえ、吐き気がおさまるのを待つ。
脳裏をチラつく鮮血、変わり果てた父の亡骸、むせるような血のにおいを、今も喉の奥が覚えている。
あの日、オリヴァーが逃げたことを、フレデリクは怒っても恨んでもいない。寧ろ、正しい判断だとすら思う。
父ですら歯が立たなかったのだ。幼いオリヴァーにできることなど、何もない。
一番の間抜けは、真っ先に蜘蛛の糸に捕まった自分だ。
「……あの時のオリヴァーには、まだ、恐怖があったんだ。ちゃんと、真っ当に恐怖を感じていた」
オリヴァーが変わったのは、その事件の後だ。
ただ、フレデリクはオリヴァーの変化に、すぐには気づかなかった──気づけなかった。
「父が死んだ時、僕はちょっとまともな状態じゃなくて……しばらく、周りから隔離されてたんだ。少し時間が経って、久しぶりにオリヴァーに会ったら、なんかおかしくなってて……」
「おかしく?」
「強がりじゃなくて、恐怖が欠如してるみたいな……今のオリヴァーみたいになってたんだ」
本来のオリヴァーは、強がりな臆病者だったのだ。勇敢をよそおっていても、いつだって足や声が震えていた。
それなのに、久しぶりに会った弟は、人として大切な何かが欠けていた。
別の生き物みたいで気持ち悪いのに、それは確かにオリヴァーで、フレデリクは頭がどうにかなりそうだった。
「周りの大人達は、『父が死んだ責任を感じて、そう振る舞っているんだろう』って言うけど……僕は違うと思った。あの蜘蛛女が、オリヴァーの恐怖を食べたんだ」
そんなことができる魔物なんて、あの蜘蛛女ぐらいじゃないか──そう気づいた時、フレデリクは恐怖した。
感情を部分的に食われ、生かされている状態。それは印付きも同然だ。
ランゲの人間にバレたら、オリヴァーは魔物狩りのための囮にされてしまう。
(だから、オリヴァーが印付きなことは、他の大人達にバレちゃいけない)
あの蜘蛛女は強い魔物で、〈水晶領域〉から離れるのは命を削る行為だ。頻繁にはランゲの里まで来ないだろう。
だけど、次はいつ来るか分からない──そんな不安を抱えていたところに、今回の襲撃だ。
正直、フレデリクは冷静ではいられなかった。
(次に来たら、あいつは同じことをする。僕の前で、オリヴァーを食い散らかす)
そうなる前に殺さなくては。あの蜘蛛女を。
「フレデリクさんは」
すぐ隣で声がした。
この子の声は不思議だ。頭がグツグツと煮立っている時でも、スッと自然に入ってくる。
憐れむでもなく、気遣うでもなく、ただ思ったことを口にするような素朴さで、ティアは言う。
「オリヴァーさんを守るために、戦ってたんだね」
フレデリクは苦笑した。
これを言ったのがティア以外だったら、きっと自分はしかめっ面で「違う」と否定していただろう。
「……誤解しないでほしいんだけど、弟が大事とか、可愛いとか、そういうのとは違うんだ。子どもの頃はまぁまぁ仲良かったけど、今は……」
フレデリクは言葉を切り、図体ばかり大きくなった弟の言動を振り返る。
──兄者! 充分に寝ているか! 安眠にはラベンダーだ! 抱き枕も良いぞ、兄者ー!
頭痛がした。
「……こっちが苦労してるのも知らないで、何が生活習慣を改善しろだ、睡眠時間だ、あのクソ弟。こっちは魔物をどうにかしなけりゃ安眠なんてできないんだよ、お前はもう家で大人しくしてろ役立たず、って思ってるよ」
「ピロロロロ……」
ティアが口を菱形にして、奇怪な声を発した。どうやら自分は、あまり穏やかではない表情になっていたらしい。
いけない、いけない、とフレデリクは顔を捏ねる。
「ただ、オリヴァーがこのまま殺されたら良い気分はしないし……父が死んだ時と同じ思いはしたくない。それだけなんだ」
端的に言うと、「僕のトラウマをこれ以上増やすな」である。そのために、フレデリクは必死になって毎日戦っているのだ。
本当は逃げてしまいたい。それこそ魔物に印付きにされたオリヴァーだって、遠くに逃すのが一番良いのだ。
だけどランゲの人間は──魔物狩りは壁を越えられない。魔物から逃げることは許されない。
「フレデリクさんは、オリヴァーさんは〈楔の塔〉にいた方が安全かも、とは考えなかったの?」
「それも少しは考えたけど……恐怖心をなくしたオリヴァーって、本当に怖いんだ。平気で魔物に突っ込んでいくし、討伐室入りなんかした日には、すぐ殺されるのが目に見えてる。弱いし」
ランゲの里は魔物狩りの一族だが、率先して魔物を討ちに行くわけではない。あくまで、人の領域を守ることが主だ。力の強い魔物が現れることも、あの蜘蛛女の例を除けば、そう多くない。
一方、〈楔の塔〉は遠征して魔物を倒すことを主としている。ランゲの里の防衛任務より、討伐室の遠征の方が遥かに危険が大きい。
魔物と対峙する危険性を考えるなら、ランゲの里にいる方がマシ。
だが、印付きであることがバレる危険性を考えるなら、〈楔の塔〉の方がマシ。
どっちを選んでも、不安要素はある。
それならば、とフレデリクが出した結論がこれだ。
「どう転んでも危険なら、僕が危険な方に行って、オリヴァーは比較的安全な里にいる方がまだマシでしょ。あと、オリヴァーが同じ空間にいると、僕がストレスで死ぬ」
「ペフゥ……どっちかというと、最後が重要?」
「うん。だから、オリヴァーが〈楔の塔〉に来た時は、本当に腹が立ったよね」
それこそ、思わず槍をぶん投げたくなるぐらいには、である。
こっちはお前が死なないように奔走してんだから、大人しく家にいろ──とあの時のフレデリクは大変ブチ切れていた。
正直、オリヴァーに対する愚痴なら、まだまだいくらでも言える。
だが、フレデリクがそれを口にするより早く、廊下の方で声が響いた。
「ご当主! フレデリク様! 魔物に動きが!」
フレデリクは素早く立ち上がり、槍を握る。そうしてティアを見下ろした。
……本当は、見習いを巻き込みたくはない。だが、現状はあまりにも人手が足りていないのだ。それこそ、見習いの手も借りたいぐらいに。
「ごめん、人手が足りないから、君の力を借りるかも」
「ピヨップ! 任せて。わたし、とっても元気!」
つい先程まで行方不明になっていたというのに、頼もしい後輩である。
本当はこんな形でティアと飛び回るのではなく、ただ穏やかに空の散歩ができたら良かったのに。とフレデリクはこっそり考えた。
フレデリクの後ろをペタペタ走りながら、ティアは考える。
恐怖を植えつけられた兄と、恐怖を食われた弟──兄は弟を危険から遠ざけようと奔走し、弟は兄の力になろうと奮闘した。
フレデリクが言うには、オリヴァーは蜘蛛の魔物に恐怖を食われている。
それは、フレデリクの父を喰った魔物の仕業であるらしい。
(……何か、変)
ティアは普段あまり表に出さないが、魔物特有の残忍性を確かに持っている。
だからこそ、分かる。
フレデリクの父を喰った蜘蛛女は、粘着質に人間に執着する残忍な魔物だ。フレデリクがどんな目に遭ったか──まともに食事と睡眠をとれず、痩せた彼の体を見れば、ティアはなんとなく想像できる。
蜘蛛女は残酷だ。人の苦しめ方を熟知している。そんな魔物が、こんなにも長い間、オリヴァーを放置するだろうか? 恐怖を食うだけで満足するだろうか?
なによりフレデリクは、「オリヴァーが恐怖という感情を食われる瞬間」を目撃していないのだ。
(もしかしたら……)




