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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【16】目の当たりにする憎悪


 ほんの少し前、ティアは大きな生き物が静かに動く音を聞いた。虫の魔物がよくそういう音を立てる。獣の魔物より手足が細くて体が軽いので、音が独特なのだ。

 そして、その音が突然、人間の足音に変わった──つまり、人間に化けたのだ。

 だから、ティアは自分の前に現れた女がすぐに魔物だと気づいた。

 違和感は他にもある。

 冬なのに薄着すぎる服。人間とは温度の感じ方が違うから、薄着すぎることに気づいていない。ただ人の服を引っ掛ければ、人に成りすませた気になってしまう。

 ティアは足を振り上げた。地面に転がる魔物の頭を砕いてやろうと思ったのだ。

 だが、仰向けにひっくり返った女は、フシュゥと息を吐くと、唐突に飛び上がった。跳躍というより、体を糸で勢いよく吊り上げられたような動きだ。

 女はヒラリと身軽に木の枝の上に着地する。そこにはもう一人、似たような顔立ちの女がいた。こちらは暗い茶褐色の髪をしている。


「痛いよぅ、姉様。あの小娘、容赦なくアタシの顔を踏みやがったよぅ」


「ほ、ほ、一目で正体を見抜くなんて、勘の良い人間ねぇ」


 赤褐色の女が顔を押さえて喚き散らし、茶褐色の女が上品に笑う。

 次の瞬間、女達の体が──主に下半身が内側から膨れ上がった。上半身は女のまま、下半身が丸く膨らみ、そこから細く長い足が生える。

 女の上半身と蜘蛛の下半身をもつ魔物だ。粗末な服は胸元がはだけ、胸の谷間に水晶の欠片が煌めいている。やはり、あれが魔物の力を抑え、同時に〈水晶領域〉から離れることを可能にしているのだ。

 レンが蜘蛛女達を見上げ、吐き捨てた。


「真っ当な人間は、魔物に追われてる時に子どもと出くわしたら、『助けて』じゃなくて、『逃げろ』って言うんだよ」


 なるほど。だからレンは、駆け寄ってきた女を警戒したというわけだ。

 ティアは楽しげに笑う蜘蛛女達を観察する。

 人間に化けられる魔物は大抵が上位種だが、こいつらは違う。とティアは判断した。

 そもそも化け方が違うのだ。上位種は肉体そのものを変化させるが、目の前の蜘蛛女達は一時的に皮を被っているだけ。


(こいつらは上位種じゃない。下位種の中では強い方だろうけど)


 少なくともカマキリの魔物よりは格上だろう。人の振りをして人に近づく狡賢さがあるのだから。

 赤褐色の蜘蛛女と、茶褐色の蜘蛛女が、キャラキャラと甲高い声で笑う。


「決めた。アタシの顔を踏んだ小娘は、顔の皮を剥いで逆さ吊りにしてやろう」


「ほ、ほ、可愛い坊やに、その様子をたっぷり見せてあげようね。子どもの悲鳴は良い味がする」


 次の瞬間、蜘蛛女達がそれぞれ逆方向に跳んだ。でかい図体に似合わず、素早い動きだ。

 蜘蛛女達が飛んだ軌道に、キラキラと輝く白い糸が伸びる。あの蜘蛛女達が分泌しているのだ。


「レン、隠れてて」


 ティアが言うまでもなく、レンは木の影に隠れて、懐から紙とペンを取り出した。筆記魔術の道具だ。

 飛び上がった茶褐色の蜘蛛女が、蜘蛛の下半身から大量の白い糸を吐き出し、ティアに向かって飛ばす。

 ティアは跳躍用魔導具で飛び上がってそれをかわし、近くの木の枝の上に着地した。


「逃がさないよぅ」


 赤褐色の蜘蛛女──妹の方が、木を這い上がってティアを狙う。

 ティアは冷ややかに蜘蛛女を見下ろした。

 ハルピュイアは鳥の魔物だ。それ故、虫の魔物に対して、こういう本能がある。


 ──捕食対象の、虫ケラ風情が。


 ティアは木から飛び降り、蜘蛛女の顔面を強かに踏みつける。鉤爪があったら引き裂いてやるのに。

 それができないのが、もどかしい。


「キシャァアアッ!」


 姉の蜘蛛女が、ティアに向かって糸を放った。

 ティアは妹の蜘蛛女を踏み台にして跳躍し、それをかわす。妹の蜘蛛女は哀れ、白い糸まみれになった。


「ちょっと姉様、よく見ておくれよぅ、アタシが糸まみれじゃん」


「ほ、ほ、鈍臭いお前が悪いのです。そんなことでは姉様に笑われてよ」


「大姉様には言わないでおくれよぅ」


 ティアは跳躍を続けながら、蹴りで蜘蛛女達を狙った。だが、蜘蛛女達もティアの攻撃パターンが見えてきたらしい。

 ティアは足技しか使えないのだ。それだけで魔物を殺すのは難しい。


(大きな石があれば、顔面に叩きつけてやるのに……)


 辺りを見回したが、丁度良い大きさの石がない。


「ティア!」


 レンが小声でティアを呼んだ。ティアは迷わずレンのもとに駆け寄り、レンを抱えて跳躍する。魔物のティアは、筆記魔術の発動役になれないのだ。


「ほ、ほ、逃がさなくてよ」


 ティアとレンに向かって、姉の蜘蛛女が糸を吐く。その糸にレンが書き終えた紙を投げつけた。

 魔力を込めた紙が、ぼぅっと燃え上がる。

 人の頭ほどの大きさの炎だ。それほど威力はないし、敵に向かって飛んでいく強い指向性もない──が、炎は糸の束を伝って燃えていく。

 その火に蜘蛛姉妹が怯んだ隙に、ティアはランゲの里の方角に向かって跳んだ。


(聞こえた。風の音)


 背後から蜘蛛姉妹が追いかけてくる。図体が大きい割に素早く、木々の間を飛び移りながら。

 ティアは抱き抱えたレンに訊ねる。


「レン、人間の悲鳴って『キャー』であってる?」


「おう、合ってる合ってる」


「じゃ、耳塞いでてね」


 ティアは大きく息を吸い込み、叫んだ。


「キャーーーーーアァーーーーアーーーー!!」


 それは、人に化けたハルピュイア渾身の大声だ。レンは耳を塞いでもなお、顔をしかめている。

 追いかけてくる蜘蛛女達は、キャラキャラと笑った。


「あらまぁ、なんて声だろう、うるさいったら」


「ほ、ほ、どうせなら、もっと無様にお泣きなさい。美味しく食べてさしあげます……よ!」


 跳躍したティアの体が傾く。足に蜘蛛の糸が貼りついているのだ。

 ティアはレンを押し潰さないよう、地面に転がすよう優しく投げ、自身はベシャリと顔から落ちた。


「ぺブッ……」


 口に入った土を吐き、立ちあがろうとしたところで、蜘蛛の糸が勢いよくティアの体に絡みつく。

 ベッタリとした糸は、ティアの跳躍用魔導具の羽にも絡みついていた。

 風の噴き出し口にも糸が詰まっている──これでは、跳べない。

 地面から身を起こしたレンが起き上がって、声をあげた。


「ティア!」


「大丈夫だよ、レン」


 蜘蛛女達がティアに殺到する。

 ティアは空を見上げて呟いた。


「間に合ったみたい」


 ゴゥッ、と音がして、頭上から風が降り注ぐ。

 繰り出される風の刃は渦を巻き、蜘蛛女達の胴体をズタズタに切り裂いた。

 人の鮮血とは違う青緑の体液が、ビチャビチャと辺りに飛び散る。蜘蛛の足は幾つかもげて、小枝のように地面に転がった。


「……うちの見習いに手を出したな」


 その声は頭上で響いた。

 怒りと憎悪と殺意を煮詰めたような、低く重い声の主──ランゲ兄弟の兄、フレデリク・ランゲは槍を片手に、蜘蛛女達を睥睨すると、詠唱をしながら飛行魔術で一気に距離を詰める。

 先に狙われたのは、茶褐色の蜘蛛女だ。

 蜘蛛女は大量の糸を吐き出して、フレデリクをからめとろうとした。だが、フレデリクは飛行魔術で素早くそれを回避し、風を纏う槍で突きを放つ。


 ──女の顔をした頭、胸、そして蜘蛛の下半身に合計三発。


 渦巻く風を纏ったその突きは、魔法戦の時にも見た、フレデリクの切り札だ。

 その一撃は、魔物の肉を捻りながら抉った。

 グチャグチャになった肉片と体液と女の髪が、辺りに飛び散り、姉の蜘蛛女は断末魔をあげることすら許されぬまま、穴の空いた肉塊になる。

 それでも、蜘蛛の体はビクビク痙攣していた。

 フレデリクが槍を一振りする。風の刃が蜘蛛の足と女の首を切り落とした。

 ゴトリ、ボトリと魔物の部位が地面に落ちる。その凄惨な光景に、レンが白目を剥いてひっくり返った。


「ピョエェ……」


 ティアの知るフレデリク・ランゲは、いつも穏やかに微笑んで、フワフワと宙に漂っている、ニコニコノッポさんである。

 そんな彼が、今は魔物が怯むほどの苛烈な殺意を撒き散らして、妹の蜘蛛女に問う。


「お前は、この子達を『食べた』?」


「ま、まだ、食べてない……っ、爪の先っぽほどだって、肉も心も食っちゃいないよぅ」


 そう、とフレデリクが呟くのと、彼が動くのはほぼ同時だった。

 槍が蜘蛛女の首を抉る。捩じ切れた女の頭はクルクルと宙を舞って、地面にボトリと落ちた。


「あ……あぁ……」


 地面に落ちた首は、女の頭は、まだパクパクと口を動かし声を発していた。

 フレデリクはそこに槍を振り下ろす。


「人を真似るな。気持ち悪い」


 嫌悪を隠さぬ声で呟き、フレデリクはまだ痙攣している蜘蛛の胴体を槍で抉る。

 何度も、何度も、執拗に。


 人間が魔物を恐れ、憎んでいることを、ティアは知っている。

 ただ、最近はレンやセビルとずっと一緒だったから、どこか感覚が麻痺していたのかもしれない。

 フレデリクの殺意が、ティアに現実を突きつける。

 人間は魔物を恐れ、憎み、嫌悪しているのだと。

 やがて魔物が完全に動かなくなった頃、フレデリクはティアを振り返った。


「大丈夫?」


 おっとりした表情はティアのよく知るフレデリク・ランゲだった。

 フレデリクは背が高いので、自然とティアは首を傾け見上げる形になる。

 フレデリクは心配そうにティアを見ていた。もし、ティアが魔物だと知ったら、きっとこの優しげな表情は、嫌悪に歪むのだろう。

 ティアが何も言わないから、フレデリクは不安そうに眉根を寄せる。


「怖かった?」


 何かを確かめようとする口調だった。フレデリクの目は、ティアの表情の変化を観察している。


(どうしたんだろ……)


 フレデリクの声からは、ティアを案じる気持ちと、何かを懸念している焦りの二つを感じた。

 ただ、ティアの正体に気づいている風ではない。

 あれだけ魔物を憎んでいる人なのだ。ティアの正体に勘づいたら、もっとティアに警戒するはずである。

 だが、フレデリクからティアに対する警戒は感じない。

 フレデリクは膝を折り、ティアと目の高さを合わせて訊ねた。


「……答えて。ちゃんと怖い? 怖かった?」


 ティアはピロロと喉を鳴らし、短く答えた。


「うん、怖かった」


 フレデリクさんが、というのは勿論内緒だ。

 ティアの返事に、フレデリクは心底ホッとした様子で胸を撫で下ろした。


「そう、良かった……君達が食われてなくて」



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