【16】目の当たりにする憎悪
ほんの少し前、ティアは大きな生き物が静かに動く音を聞いた。虫の魔物がよくそういう音を立てる。獣の魔物より手足が細くて体が軽いので、音が独特なのだ。
そして、その音が突然、人間の足音に変わった──つまり、人間に化けたのだ。
だから、ティアは自分の前に現れた女がすぐに魔物だと気づいた。
違和感は他にもある。
冬なのに薄着すぎる服。人間とは温度の感じ方が違うから、薄着すぎることに気づいていない。ただ人の服を引っ掛ければ、人に成りすませた気になってしまう。
ティアは足を振り上げた。地面に転がる魔物の頭を砕いてやろうと思ったのだ。
だが、仰向けにひっくり返った女は、フシュゥと息を吐くと、唐突に飛び上がった。跳躍というより、体を糸で勢いよく吊り上げられたような動きだ。
女はヒラリと身軽に木の枝の上に着地する。そこにはもう一人、似たような顔立ちの女がいた。こちらは暗い茶褐色の髪をしている。
「痛いよぅ、姉様。あの小娘、容赦なくアタシの顔を踏みやがったよぅ」
「ほ、ほ、一目で正体を見抜くなんて、勘の良い人間ねぇ」
赤褐色の女が顔を押さえて喚き散らし、茶褐色の女が上品に笑う。
次の瞬間、女達の体が──主に下半身が内側から膨れ上がった。上半身は女のまま、下半身が丸く膨らみ、そこから細く長い足が生える。
女の上半身と蜘蛛の下半身をもつ魔物だ。粗末な服は胸元がはだけ、胸の谷間に水晶の欠片が煌めいている。やはり、あれが魔物の力を抑え、同時に〈水晶領域〉から離れることを可能にしているのだ。
レンが蜘蛛女達を見上げ、吐き捨てた。
「真っ当な人間は、魔物に追われてる時に子どもと出くわしたら、『助けて』じゃなくて、『逃げろ』って言うんだよ」
なるほど。だからレンは、駆け寄ってきた女を警戒したというわけだ。
ティアは楽しげに笑う蜘蛛女達を観察する。
人間に化けられる魔物は大抵が上位種だが、こいつらは違う。とティアは判断した。
そもそも化け方が違うのだ。上位種は肉体そのものを変化させるが、目の前の蜘蛛女達は一時的に皮を被っているだけ。
(こいつらは上位種じゃない。下位種の中では強い方だろうけど)
少なくともカマキリの魔物よりは格上だろう。人の振りをして人に近づく狡賢さがあるのだから。
赤褐色の蜘蛛女と、茶褐色の蜘蛛女が、キャラキャラと甲高い声で笑う。
「決めた。アタシの顔を踏んだ小娘は、顔の皮を剥いで逆さ吊りにしてやろう」
「ほ、ほ、可愛い坊やに、その様子をたっぷり見せてあげようね。子どもの悲鳴は良い味がする」
次の瞬間、蜘蛛女達がそれぞれ逆方向に跳んだ。でかい図体に似合わず、素早い動きだ。
蜘蛛女達が飛んだ軌道に、キラキラと輝く白い糸が伸びる。あの蜘蛛女達が分泌しているのだ。
「レン、隠れてて」
ティアが言うまでもなく、レンは木の影に隠れて、懐から紙とペンを取り出した。筆記魔術の道具だ。
飛び上がった茶褐色の蜘蛛女が、蜘蛛の下半身から大量の白い糸を吐き出し、ティアに向かって飛ばす。
ティアは跳躍用魔導具で飛び上がってそれをかわし、近くの木の枝の上に着地した。
「逃がさないよぅ」
赤褐色の蜘蛛女──妹の方が、木を這い上がってティアを狙う。
ティアは冷ややかに蜘蛛女を見下ろした。
ハルピュイアは鳥の魔物だ。それ故、虫の魔物に対して、こういう本能がある。
──捕食対象の、虫ケラ風情が。
ティアは木から飛び降り、蜘蛛女の顔面を強かに踏みつける。鉤爪があったら引き裂いてやるのに。
それができないのが、もどかしい。
「キシャァアアッ!」
姉の蜘蛛女が、ティアに向かって糸を放った。
ティアは妹の蜘蛛女を踏み台にして跳躍し、それをかわす。妹の蜘蛛女は哀れ、白い糸まみれになった。
「ちょっと姉様、よく見ておくれよぅ、アタシが糸まみれじゃん」
「ほ、ほ、鈍臭いお前が悪いのです。そんなことでは姉様に笑われてよ」
「大姉様には言わないでおくれよぅ」
ティアは跳躍を続けながら、蹴りで蜘蛛女達を狙った。だが、蜘蛛女達もティアの攻撃パターンが見えてきたらしい。
ティアは足技しか使えないのだ。それだけで魔物を殺すのは難しい。
(大きな石があれば、顔面に叩きつけてやるのに……)
辺りを見回したが、丁度良い大きさの石がない。
「ティア!」
レンが小声でティアを呼んだ。ティアは迷わずレンのもとに駆け寄り、レンを抱えて跳躍する。魔物のティアは、筆記魔術の発動役になれないのだ。
「ほ、ほ、逃がさなくてよ」
ティアとレンに向かって、姉の蜘蛛女が糸を吐く。その糸にレンが書き終えた紙を投げつけた。
魔力を込めた紙が、ぼぅっと燃え上がる。
人の頭ほどの大きさの炎だ。それほど威力はないし、敵に向かって飛んでいく強い指向性もない──が、炎は糸の束を伝って燃えていく。
その火に蜘蛛姉妹が怯んだ隙に、ティアはランゲの里の方角に向かって跳んだ。
(聞こえた。風の音)
背後から蜘蛛姉妹が追いかけてくる。図体が大きい割に素早く、木々の間を飛び移りながら。
ティアは抱き抱えたレンに訊ねる。
「レン、人間の悲鳴って『キャー』であってる?」
「おう、合ってる合ってる」
「じゃ、耳塞いでてね」
ティアは大きく息を吸い込み、叫んだ。
「キャーーーーーアァーーーーアーーーー!!」
それは、人に化けたハルピュイア渾身の大声だ。レンは耳を塞いでもなお、顔をしかめている。
追いかけてくる蜘蛛女達は、キャラキャラと笑った。
「あらまぁ、なんて声だろう、うるさいったら」
「ほ、ほ、どうせなら、もっと無様にお泣きなさい。美味しく食べてさしあげます……よ!」
跳躍したティアの体が傾く。足に蜘蛛の糸が貼りついているのだ。
ティアはレンを押し潰さないよう、地面に転がすよう優しく投げ、自身はベシャリと顔から落ちた。
「ぺブッ……」
口に入った土を吐き、立ちあがろうとしたところで、蜘蛛の糸が勢いよくティアの体に絡みつく。
ベッタリとした糸は、ティアの跳躍用魔導具の羽にも絡みついていた。
風の噴き出し口にも糸が詰まっている──これでは、跳べない。
地面から身を起こしたレンが起き上がって、声をあげた。
「ティア!」
「大丈夫だよ、レン」
蜘蛛女達がティアに殺到する。
ティアは空を見上げて呟いた。
「間に合ったみたい」
ゴゥッ、と音がして、頭上から風が降り注ぐ。
繰り出される風の刃は渦を巻き、蜘蛛女達の胴体をズタズタに切り裂いた。
人の鮮血とは違う青緑の体液が、ビチャビチャと辺りに飛び散る。蜘蛛の足は幾つかもげて、小枝のように地面に転がった。
「……うちの見習いに手を出したな」
その声は頭上で響いた。
怒りと憎悪と殺意を煮詰めたような、低く重い声の主──ランゲ兄弟の兄、フレデリク・ランゲは槍を片手に、蜘蛛女達を睥睨すると、詠唱をしながら飛行魔術で一気に距離を詰める。
先に狙われたのは、茶褐色の蜘蛛女だ。
蜘蛛女は大量の糸を吐き出して、フレデリクをからめとろうとした。だが、フレデリクは飛行魔術で素早くそれを回避し、風を纏う槍で突きを放つ。
──女の顔をした頭、胸、そして蜘蛛の下半身に合計三発。
渦巻く風を纏ったその突きは、魔法戦の時にも見た、フレデリクの切り札だ。
その一撃は、魔物の肉を捻りながら抉った。
グチャグチャになった肉片と体液と女の髪が、辺りに飛び散り、姉の蜘蛛女は断末魔をあげることすら許されぬまま、穴の空いた肉塊になる。
それでも、蜘蛛の体はビクビク痙攣していた。
フレデリクが槍を一振りする。風の刃が蜘蛛の足と女の首を切り落とした。
ゴトリ、ボトリと魔物の部位が地面に落ちる。その凄惨な光景に、レンが白目を剥いてひっくり返った。
「ピョエェ……」
ティアの知るフレデリク・ランゲは、いつも穏やかに微笑んで、フワフワと宙に漂っている、ニコニコノッポさんである。
そんな彼が、今は魔物が怯むほどの苛烈な殺意を撒き散らして、妹の蜘蛛女に問う。
「お前は、この子達を『食べた』?」
「ま、まだ、食べてない……っ、爪の先っぽほどだって、肉も心も食っちゃいないよぅ」
そう、とフレデリクが呟くのと、彼が動くのはほぼ同時だった。
槍が蜘蛛女の首を抉る。捩じ切れた女の頭はクルクルと宙を舞って、地面にボトリと落ちた。
「あ……あぁ……」
地面に落ちた首は、女の頭は、まだパクパクと口を動かし声を発していた。
フレデリクはそこに槍を振り下ろす。
「人を真似るな。気持ち悪い」
嫌悪を隠さぬ声で呟き、フレデリクはまだ痙攣している蜘蛛の胴体を槍で抉る。
何度も、何度も、執拗に。
人間が魔物を恐れ、憎んでいることを、ティアは知っている。
ただ、最近はレンやセビルとずっと一緒だったから、どこか感覚が麻痺していたのかもしれない。
フレデリクの殺意が、ティアに現実を突きつける。
人間は魔物を恐れ、憎み、嫌悪しているのだと。
やがて魔物が完全に動かなくなった頃、フレデリクはティアを振り返った。
「大丈夫?」
おっとりした表情はティアのよく知るフレデリク・ランゲだった。
フレデリクは背が高いので、自然とティアは首を傾け見上げる形になる。
フレデリクは心配そうにティアを見ていた。もし、ティアが魔物だと知ったら、きっとこの優しげな表情は、嫌悪に歪むのだろう。
ティアが何も言わないから、フレデリクは不安そうに眉根を寄せる。
「怖かった?」
何かを確かめようとする口調だった。フレデリクの目は、ティアの表情の変化を観察している。
(どうしたんだろ……)
フレデリクの声からは、ティアを案じる気持ちと、何かを懸念している焦りの二つを感じた。
ただ、ティアの正体に気づいている風ではない。
あれだけ魔物を憎んでいる人なのだ。ティアの正体に勘づいたら、もっとティアに警戒するはずである。
だが、フレデリクからティアに対する警戒は感じない。
フレデリクは膝を折り、ティアと目の高さを合わせて訊ねた。
「……答えて。ちゃんと怖い? 怖かった?」
ティアはピロロと喉を鳴らし、短く答えた。
「うん、怖かった」
フレデリクさんが、というのは勿論内緒だ。
ティアの返事に、フレデリクは心底ホッとした様子で胸を撫で下ろした。
「そう、良かった……君達が食われてなくて」




