【10】離脱
茂みから飛び出してきたカマキリの魔物は、翅で勢いよく跳躍しながら、オリヴァーの首を狙った。
オリヴァーは咄嗟にロミーを後ろに庇い、槍を突き出す。
槍は当たらず、大鎌に似た前足がオリヴァーの二の腕を浅く切り裂いた。
オリヴァーは何度か槍を突き出すが、攻撃は当たらない。カマキリの体が細いせいで、正確に当てづらいのだ。
槍を突くのではなく振って、切り裂くなり叩くなりした方が効果的に見えるが、それをするにはこの辺りは木々が密集しすぎている。
「オリヴァーさん、逃げるぞ! 香のあるとこまで引き返そう!」
レンの叫びに、オリヴァーが「うむ」と頷き、ロミーの手を引いて走る。
ティアとレンも、それに続いた。
ペタペタ走りながら、ティアは声をあげる。
「みんな、ちょっとだけ耳塞いでっ!」
戦闘手段の少ない今のティアにできること。それが、これだ。
ティアはすぅっと息を吸い、声を張り上げる。
「魔物──! 村の外に魔物が出たよー! 大きいカマキリの魔物──!」
ハルピュイアの姿をしている時には劣るが、ティアは人の姿でもそれなりに大きい声が出せる。
ランゲの屋敷まで届いたかは微妙だが、少なくともセビル達には届いたはずだ。
ティアの大声に、カマキリの魔物が一瞬、動きを止めた。カマキリは案外、耳の良い生き物だ。
知能が低いので、精神干渉効果のある歌は効かないが、大きい声で驚かすぐらいはできる。
(ただ、驚かすしか、できない……!)
ポケットの中には、ハルピュイアの姿に戻れるキャンディがある。
最悪の場合ハルピュイアに戻れば、ハルピュイアの武器である歌が使える──ただ、ここにはオリヴァーとロミーがいるから、戻るわけにはいかない。
やがて前方に、村を囲う柵が見えてきた。このまま柵沿いに走れば、村の中に逃げ込める。
あと少しだ、と思ったその時。
「──ぴょふ?」
ティアの喉から、空気の塊が漏れた。少し遅れて首と肩の間あたりに激痛。
背後にいるカマキリの魔物とは、まだ距離があった。だが、すぐ真横の茂みから別の一体が飛び出してきたのだ。
大鎌に似た前足が、その内側についた棘が、ティアの肉を抉りながら切り裂く。
「ティア──!」
レンがティアの名を呼ぶ。その声の合間に、ティアは聞いた。ガサガサと茂みが揺れる音を。あれは、レンの左手側だ。
(三体目!)
茂みから飛び出したカマキリの魔物が、大鎌を振り上げる。
ティアは首から血を流しつつ、地を駆け、レンを突き飛ばした。
棘付きの鎌が、ティアの右肩から腰にかけてをザリザリと切り裂く。切れ味の良い刃物みたいに、スッパリと切れたりはしない。棘が引っかかりながら、肉を裂くのだ。
ティアはギャフッ、とくぐもった声を漏らし、地面に倒れる。
だが、そのまま気絶するほどハルピュイアは柔じゃない。ティアは跳躍用魔導具のレバーを引き、羽を起動。
姿勢を低くし、一番近くにいるカマキリに狙いを定め──跳んだ。跳躍頭突きだ。
そこに別のカマキリが近づき、両足の大鎌を振り下ろしてティアの背中に食い込ませた。まるで、抱きしめるかのように。
鋭い顎がティアの首筋に食らいつく。先ほど切り裂かれた首の傷が広がり、ティアは痙攣した。
「ガヒュッ……アガッ、ア、アアッ……」
「ティアを離せ──!」
レンが叫んで何かを投げつける。村の柵に引っ掛けていた香炉だ。どうやら、走って取りにいってくれたらしい。
香炉から漏れた煙に、カマキリが怯む。
食い込んでいた顎が外れたその隙に、ティアはカマキリの抱擁から抜け出した。
「ルァァァァアアアアアア!!」
ティアはカマキリの首を掴んで、全体重をかける。カマキリが後ろにひっくり返った。
虫の魔物はバランス感覚が良く、すぐにピョンと起き上がってしまう。だから、そうなる前にティアはカマキリの頭部を思い切り踏みつけた。
人間の足は鉤爪がなくて不便だけれど、平たいから踏み潰すのには便利だ。
ティアはブーツの底で念入りに、カマキリの頭部を踏み砕く。
「……ハァッ……ハァッ…………ガヒュッ……ハァッ……」
カマキリが死んだのを確認し、ティアは身を起こす。
首周りと背中、それと右肩から腰にかけてをザックリ切り裂かれ、いたるところから血が吹き出している。酷い有様だ。
駆け寄ったレンは、今にも泣きそうな顔をしていた。
大丈夫だよ、と言おうとして、ティアは失敗する。声のかわりに、カヒューカヒューと変な吐息が漏れた。
村の柵の近くでは、オリヴァーがロミーを背中に庇いながら、カマキリの魔物二体を相手に奮闘している。
この手の魔物は、多少手足がもげたり、体を刺された程度では動きをとめない。下手に槍を使うより、大きい石で頭を砕いた方が確実だ。
丁度良い石を探すため、視線を彷徨わせたティアは、気づいた。
また追加で二匹、カマキリが茂みから出てきたのだ。これは流石に手に余る。
ティアは血泡を吐きながら、叫んだ。
「オリヴァーさ……離脱っ……しよ……ガヒュッ……わだ、しぃ、レン連れでぐっ、がらぁ!」
ゲホゲホとむせながら、ティアは跳躍用魔導具を起動し、レンに駆け寄る。
オリヴァーも意図を察したのだろう。
槍で魔物を牽制しながら詠唱を始めた。飛行魔術だ。
オリヴァーがロミーを、ティアがレンを連れて跳躍し、柵を越えて、村の中に入る。そうすれば、多少は時間が稼げる。
(すぐに離脱するのは駄目。魔物が全部オリヴァーさんの方に行っちゃう。オリヴァーさんの詠唱が終わるまで、時間稼ぎしないと)
ティアの考えを、レンも察したらしい。
レンは先ほど投げつけた香炉に、まだ煙が残っていることを確認すると、大きく振りかぶり、オリヴァーの方に投げた。
「おーい! カマキリども! オレ達はこっちだぞー!」
オリヴァーの足元に香炉が転がり、たちのぼる煙にカマキリが怯む。
その内の数匹は、香炉をなくしたティアとレンが丁度良い獲物だと思ったのか、翅を広げて跳躍し、距離を詰めてきた。
そのタイミングで、ティアは跳躍用魔導具を発動する。
「レン、づがまっで……!」
「おう!」
レンは傷に触れないよう気をつけながら、ティアの首ねっこに正面からしがみつく。それを確認して、ティアは地面を蹴って跳躍した。
一飛びでは柵に届かないから、まずは近くの木の枝の上に着地。
このタイミングでオリヴァーも飛行魔術を発動し、ロミーを抱えて飛び上がった。
オリヴァーはもう柵のすぐそばまで来ていたので、跳躍した勢いで柵を飛び越える。
「オリヴァーさん、三歩分なら前に進めるようになったんだな」
レンが呟きながら、ティアに正面から抱きつく。
実に格好つかないが、跳躍するならこれが一番安定するのだ。長距離飛行なら足にぶら下がってもらう方が良いのだが、跳躍の場合、足が自由に動かないとレンを踏んで大惨事になる。
(柵を越えるなら、もう一回……)
柵を越えるように跳ぼうとしたその時、四匹のカマキリが一斉に翅を広げて跳躍した。ティアの留まる木を目指してだ。
「ペヴヴッ……!」
これだと、柵を越えられない。仕方がないから、ティアは反対方向──村から遠ざかる方へ跳躍する。
その時、クラリと眩暈がした。血を流しすぎたのだ。
ティアは木の枝に着地できず、バランスを崩して地面に着地した。
「ティア!?」
レンが心配そうにティアの顔を覗き込む。
ティアは口に溜まった血を地面に吐き捨て、掠れた声で言う。
「ヴヴ……傷、思ったより、深いみたい。魔力がいっぱいある場所で、回復しないと、まずい、かも」
「魔力がいっぱいある場所……?」
「ヴヴゥー……ヴゥー……」
ここから最も近い、魔力が豊富な場所。そして、レンが安全な場所──ひとつだけ心当たりがある。
ティアは素早く上着とブーツを脱ぎ捨てると、レンに押しつけた。そしてポケットに手を突っ込み、キャンディの小瓶を取り出す。
「レン、足掴んでて」
背後からカマキリが迫ってきている。もう時間はない。
レンがティアの足首を掴む。ティアはキャンディを口に放り込む。
ティアは跳躍用魔導具で、高く、高く跳躍した。そして、すかさずキャンディを噛み砕く。
酩酊感。伸ばした腕から白い翼が広がる。
村から多少離れたが、オリヴァーがこちらに気づいていませんように──こればかりは、もう賭けだ。
「ルゥゥゥァァーアー!」
風の精霊に歌声で呼びかける。力を貸してほしい。風にのせてほしい、と。
そうして、白翼のハルピュイアは、足に美少年をぶら下げて、北の方角へ滑空するように飛んだ。




