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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
七章 北へ
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【26】ピアニストの恋人、竜と魔物の昔話


 雨が降り出す前の、空気の湿りを感じた。

 ピアノの前に座っていた男──盲目のピアニスト、カミル・ヒンケルは立ち上がり、窓に近づく。杖がなくとも、このぐらいの距離なら問題はない。

 まだ、雨は降っていない。

 彼は窓を閉めるかどうか、少し迷った。できることなら、少しでも長く窓を開けていたいのだ。

 いつ、彼女が来ても良いように。


 ──その時、彼の耳が微かな音を捉えた。


 あぁ、この音は彼女だ。彼女が来たのだ。

 嬉しくなった彼は、ピアノに戻るか、窓辺で彼女を待つか、少し迷う。


「カミル」


 彼女の声がした。

 見えない世界にパッと光が差し込むような、耳に心地良い、明るく美しい声。

 彼女の声は音楽だ。話す声も、歌う声も素晴らしい。

 彼女はこの町の住人ではないらしい。近くの村に住んでいて、時々この町を訪れる。

 彼女はカミルのピアノをとても気に入っていて、よく歌を披露してくれた。

 その歌声がカミルは好きだ──歌声だけじゃない。ちょっと勝気な性格も、フワフワした髪も、頬の温もりも、全てが好きだ。愛してる。


「今日は何を弾こうか?」


 カミルがピアノを弾く仕草をすると、彼女は少しシュンとした寂しげな声で言った。


「ごめん。今日はあんまりゆっくりできないんだ」


「……そうなのかい。それは残念だ」


「あのねっ、これ、お土産! 北の方に咲いている花。甘い香りがするでしょ」


「本当だ。良い香りだ」


 窓辺に置かれた花を手探りで摘まみ上げると、彼女が嬉しそうに笑う声が聞こえた。

 彼女は、直接カミルに花を手渡さない。腕が不自由なのだという。だから、カミルを抱きしめることもできない。

 二人はいつも窓枠越しに、歌声とピアノの音色で愛を語らう。


「一曲だけ、許してくれる?」


「うん。カミルが好きな曲でいいよ」


「なら、君が好きな曲がいい」


 カミルはピアノの前に戻ると、鍵盤の上に指を走らせる。

 流れ出すメロディに合わせて、彼女が歌う。彼女が一番好きな歌を。




 あなたがあまりに綺麗だから、空の色を教えたかったの。

 羽を膨らます春の風を、あなたにも感じてほしかった。

 窓の外、世界を見に行こう。

 薔薇よ、薔薇よ、あなたとなら、どこまでも。

 薔薇よ、薔薇よ、あなたとなら、いつまでも。


 ──あなたを盗んで、どこまでも。




 歌声が少しずつ遠ざかっていく。

 彼女はもう、行かねばならないのだ。だから、この場を立ち去りながら彼女は歌う。

 たとえこの場にとどまれずとも、少しでも長く一緒にいられるように。

 だから、カミルもピアノを弾き続ける。彼女の歌声が聴こえなくなるまで。

 触れられずとも、歌がピアノが届いているのなら、一緒にいることと同じだから。


(でも本当は、君を招き入れて、抱きしめたいんだ)


 やがて、歌声が聴こえなくなった頃、彼はピアノを弾く手を止めた。

 しとしとと雨の音がする。窓を閉めなくては。


(彼女は……ララは、寒い思いをしていないだろうか)


 胸を痛めながら、カミルはそっと窓を閉じる。

 窓辺では彼女が摘んできてくれた花がしっとりと濡れ、それでも良い香りを残していた。



 * * *



 しとしとと雨が振る草原を、一人の若者が歩いていた。

 真っ白な髪と銀色の目をしたその若者は、フードを目深にかぶり、左手首には赤い飾り紐を結んでいる。

 そんな若者の真上で羽音が響いた。


「我が王」


 雨の中、ゆっくりと下降してきたのは、炎のように鮮やかなオレンジ色の羽と髪のハルピュイアだ。


「カロンララか」


 炎のように美しいハルピュイアは、目を伏せた。彼女は白髪の人物を直視できないのだ。

 今は色々と抑えているから、直視しても問題ないのだが、普段から恐怖を撒き散らしすぎているせいだろうか。


「宰相からの伝言。『ヴァルデマル陛下は、我らの神になってくださる』……だって」


「そうか。ならば、行こう」


「はい」


 白髪の人物は左手を持ち上げようとして、やめた。左手首に結んだ飾り紐が切れるのが嫌だったのだ。

 改めて右手を持ち上げると、カロンララは飛び上がり、大きな鉤爪で右腕を掴んだ。

 バサリ、バサリと羽を広げて彼女は飛び立つ。雨で濡れるのも構わずに。

 白髪の人物は顔を上に向けた。カロンララの髪と羽は、灰色の空の中、燃え上がる炎のようだ。白髪の人物は、手首に巻いた飾り紐を見つめる。

 人と話をするのは随分と久しぶりだった。特に殺意や敵意のない人間との会話は、あれが初めてかもしれない。

 白髪の人物──魔物の王は、常に恐怖を撒き散らす存在だからだ。


「〈水晶鋲〉は良いな。恐怖が漏れ出さずに済む」


 魔物の王は身につけたローブの襟元を緩める。

 白い喉の先、鎖骨の下には水晶でできた鋲が幾つも刺さっている。

〈水晶鋲〉は魔物の力を弱める代わりに、活動範囲を広げてくれる道具だ。

 これを幾つも体に刺すことで、魔物の王は〈水晶領域〉を出ることができた。

 今ここにいるカロンララもまた、〈水晶鋲〉を刺しているからこそ、人の領域を飛び回れている。


「……我が王。これのおかげで、外に出られるのは事実。だけど、わたしはこれを作った宰相は嫌い」


「そうか」


〈水晶鋲〉を完成させるための実験に、最も協力的だったのが、他でもないカロンララだ。

 カロンララは行方不明の妹を探している。

 彼女は捜索範囲を広げるために、〈水晶鋲〉の実験に協力したのだ。それは間違いなく苦痛を伴うものだっただろう。

 ふと気まぐれに、魔物の王は口を開いた。


「一つ、昔話をしよう。水晶竜という竜がいた。今はもう滅びた竜だ」


 水晶竜はその名の通り、水晶でできた美しい鱗を持つ竜だ。

 竜の鱗は強い魔力を帯びていて、魔導具の材料としては最上級の物である。中でも水晶竜の鱗は、どの竜の鱗よりも強い力を秘めていて、故に人間によく狙われた。


「魔物と竜は、基本的に互いの領域には踏み入らぬであろう? だが、とある魔物が、人間に追われていた水晶竜を気まぐれに匿ったのだ」


 言葉を交わす内に、魔物と水晶竜は親しくなった。二人はいつしか、共に行動するようになった。

 やがて、世界から魔力が失われていくと、魔物も水晶竜も棲処がなくなる。


「魔物が弱っていくのを見かねた水晶竜は、自らの命と引き換えに〈水晶領域〉を作り出した。それは魔物のための領域だ。水晶竜の最期の贈り物だ」


 魔物の王は、己の体に穿たれた〈水晶鋲〉を服の上から撫でる。愛しいものに触れるように。


「この〈水晶鋲〉は、そんな〈水晶領域〉の水晶と、わたしの魔力を混ぜて作ったものだ。そのためか、愛着に似たものを感じる」


「我が王の髪が真っ白になったのも、宰相の仕業?」


色と魔力を代償に(、、、、、、、、)、〈水晶鋲〉を作る契約だったのだ。宰相は契約通りの仕事をした」


 かつて、魔物の王の髪は漆黒だった。

 混じりけのない闇を紡いだような、光を反射しない純粋な黒。

 その色と、膨大な魔力の一部を王は宰相に与え、そして宰相は王の願いを叶えた。

 宰相は、己の目的をこう語る。


『わたくしは矮小な生き物なので、自分の居場所を得るために必死なのです。ただ、それだけなのですよ、王』


 宰相の作る〈水晶鋲〉があれば、魔物の王は探しに行けるのだ。

 己が執着するものを。


「長かった。だが、苦労と苦難が長いほど、それは説得力を増す」


 魔物は人間に、或いは人間が作り出したものに執着する。

 魔物の王もまた、同様に。


「ついに、届く。わたしの望みに」



 * * *



 魔物の王をぶら下げて飛びながら、ハルピュイアのカロンララは考える。

 水晶竜と自分の魔力を掛け合わせて作った物だから、魔物の王は〈水晶鋲〉を気に入っているのだという。


 ──宰相はそんな王の気持ちを知った上で、〈水晶鋲〉を作ったのではないか?


 カロンララは宰相が嫌いだ。

 魔物にすり寄るくせに、魔物じゃない。だけど人の中にもいられない。

 あれは首折り渓谷の崖に落とす、忌むべき存在だ。


(〈水晶鋲〉は嫌い。だけど……)


 カロンララは思い出す。

 愛しい人のことを。彼が奏でる美しいピアノを。


(これのおかげでカミルに会えた)


 窓辺で微笑む人を想い、カロンララはキュッと唇を噛み締めた。

 彼は、恋人の「ララ」がハルピュイアであることを知らない。


(……この羽がなければ、窓枠を乗り換えて、彼に抱きしめてもらえるのに)


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