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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
七章 北へ
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【22】反省会


「オジサンは、雄が偉い場所に生まれて良かったね?」


 ティアがその言葉を発した瞬間、ルキエの体は震えた。まるで、全身の血管に氷水を流されたみたいだ。

 ルキエが無意識に己の腕を摩っていると、ヒュッターが低い声で言った。


「ティア、まずはそこから降りて、ゾルゲさんに謝罪しなさい」


「…………ピヨ」


 ティアは、ルキエの父ドルクの顔を覗き込むように折り曲げていた体をゆっくりと元に戻す。

 そして、猫みたいな軽やかさで、床の上に降りた。

 さっきまで真っ赤な顔をしていたドルクが、今は真っ青な顔で硬直している。あの言葉を口にした時、ティアは、一体どんな表情を見せたのだろう。

 ティアはいつものあどけない態度で、ピョフンと喉を鳴らして頭を下げた。


「オジサン、意地悪言って、ごめんなさい」


「…………」


 ドルクは何も言わない、というより、言えないように感じた。

 ヒュッターは厳しい教師の顔で、食堂の入り口の方を指差す。


「お前は部屋に戻りなさい」


「はぁい」


 ティアはペタペタ歩きで、食堂を出て行く。ただし、扉は閉めない。

 ヒュッターはティアの姿が見えなくなったのを確認して、ルキエの父に頭を下げた。


「私の生徒が失礼しました。後できつく叱っておきます」


「…………」


 ドルクは何かを言いかけて口を閉ざした。

 自分が座る椅子の背もたれに飛び乗られ、後ろから顔を覗き込まれる、なんてそうそうできない経験だ。よほど肝が冷えたのだろう。

 そこにすかさず、ヒュッターが言葉を続けた。


「ルキエさんのご婚約の件ですが、既にお返事した通りです。ルキエさんは現在〈楔の塔〉の所属であり、婚姻に関してもイルセン自治領の法に従うことになる」


 ヒュッターは眼鏡をクイと持ち上げ、意味深に声をひそめる。


「もし、貴方がルキエさんを無理やり連れて帰ったら……〈楔の塔〉側は、ゾルゲさんに申し入れをすることになるでしょう」


 父は最初から、無理やりルキエを連れて帰るつもりだったのだろう、とルキエは確信していた。

 家に連れて帰りさえすれば、後は故郷の法律で強引に結婚まで進めることができる。法務官が何か言ってきても、地元であれば多少のことは金で融通が利かせられる──少なくとも、父はそう考えているのだ。

 ヒュッターは少し背中を丸めると、内緒話をするように口元に手を添えた。


「ところで、ご存知ですか? ……〈楔の塔〉の首座塔主補佐は、ラス・ベルシュ正教関係者なんですよ」


「えっ」


「あまり表沙汰にはなってないんですけどね、〈楔の塔〉とラス・ベルシュ正教は繋がりが強く……婚姻が絡む問題となると、更に話は複雑化するかもしれません」


 ヒュッターは「ラス・ベルシュ正教ではこのような教えがあり……」と教典の内容らしきものを、ボソボソと早口で語る。

 ところで、こういった小難しい話は、聞き取りづらい早口でされると頭に入りづらいものだ。

 話の内容を咀嚼し、自分の中に落とし込むより早く、ヒュッターが次の話を始めるから、なおのこと。


(……多分、意図的にやってるんだわ)


 ヒュッターは授業の解説をする時、聞き手の理解度に応じて簡単な言い回しに変え、理解を待つことがある。

 それをできる人が、今はあえて相手の理解が追いつかない速度で、ベラベラと話しているのだ。「あなたは今、深刻なことになっています。まずい状況です」というニュアンスを滲ませて。

 おそらく、ドルクはこう感じているだろう。


 ──よく分からないが、面倒なことになっているぞ、と。


 そこにダメ押しをするように、ヒュッターは声を潜めて言った。


「私は魔術師組合から派遣された人間なんで、大きな声では言えないんですがね……もしかしたら、ラス・ベルシュ正教が、そちらの地域に干渉してくるかもしれません」


 ルキエの故郷はラス・ベルシュ正教の人間は少ない。元々は帝国に占領されていた土地だからだ。故に、ラス・ベルシュ正教との宗教的な衝突が、時々起こる。

 脂汗を滲ませているドルクに、ヒュッターは一呼吸の間を与えた。

 その一呼吸で、ヒュッターは話し方を切り替える。

 ドルクに対して親身な人間の話し方に、だ。


「ミリアム首座塔主補佐はとにかく行動がお早いんです。ラス・ベルシュ正教に連絡を取られたら、何かと面倒なことになるでしょう」


「それは……」


「安心してください。今日のことは、私の方で上手く報告しておきますよ。ゾルゲさんは娘さんを一目見て、安心して帰られた……と」


 面倒事になっている、と焦る人間に対し、ヒュッターの「安心してください」はそれなりに効果があるらしい。

 ルキエも自分が捲し立てられている側だったら、何も考えずに頷いていたかもしれない。

 それから程なくして、ドルクはヒュッターの言葉に流されるように頷いた。



 * * *



 消沈しながら村を出ていく父の背中に、ルキエは深く頭を下げた。

 父が言いくるめられて良い気味だ、とか。

 自分が故郷に帰らずに済んで安心した、とか。

 ……そういう気持ちが全くないとは言わないが、それよりも強い罪悪感が胸を占めている。

 ルキエの故郷では、娘は父の所有物だ。それでも、馬や家財に向けるのとは違う、家族の情愛があったこともルキエは理解している。

 父はルキエを愛していたし、幸福も願ってくれていた。それは嘘ではないのだ。

 だけどルキエは故郷のルールに従えなかった。だから、家族を裏切るみたいに家出するしかなかった。

 父の姿が見えなくなった頃、一緒に見送りに来ていたヒュッターが、ガリガリと頭をかきながら言う。


「まぁ、なんだ。気持ちの整理ができたら、親父さんに手紙でも書いてやれ」


「……はい」


 ルキエはきちんと姿勢を正して、ヒュッターにも頭を下げた。


「私の事情でご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」


「まぁ、気にすんな。こういうのも指導室の仕事だ」


 ルキエの父に向けていた真摯な男の態度はどこへやら。

 いつもの、「ちょっと適当そうなヒュッター先生」の顔に戻っている。

 ルキエはもう一度頭を下げ、宿の中に戻った。




 宿の部屋は、基本的に一部屋に複数人が詰め込まれる形だ。

 ルキエはティア、セビルと同室になる。三人一部屋は比較的恵まれている方だ。セビルが皇妹なので、優遇されたのだろう。


「ルキエ」


 階段を上る途中で呼び止められた。

 踊り場を曲がったところで、階段にしゃがんで隠れていたのはティアだ。

 ティアは普段、とても能天気な表情をしている。あまり顔に力を入れていないのだ。それが今は、眉を寄せて唇を引き結んで、顔中に力を込めていた。

 ルキエは無言で階段を上ると、ティアの横に座る。

 ティアはペウゥ……と情けない声で鳴きながら呟いた。


「さっきは、ごめんね」


「……なにを謝るのよ」


「ルキエのお父さんに、意地悪言った」


「雄のハルピュイアの話?」


 ティアは白髪頭を上下させて頷く。


「わたし、ルキエのお父さんが嫌な気持ちになればいい、って思いながら、あの話した。意地悪だった」


 ティアの言葉が、ルキエには少し意外だった。

 ティアはいつだって無邪気で、無神経な言葉を無造作に口にする。

 それは、時に人の神経を逆撫でするけれど、ティアに悪意はないのが常だった。

 だけどさっきのティアは、明確な悪意をもって言葉を選んだのだ。ルキエの父に言葉で攻撃するために。


「別に謝らなくていい。ちょっと良い気味って思ったのは、事実だから」


 良い気味。そう口にした瞬間、胸の奥に黒いモノが沈んでいく。

 ルキエは口の端を引きつらせ、自嘲した。


「でも本当は……良い気味って笑える人間じゃないのよ、私は。だって、私は父のおかげで恵まれた娘だった。裕福な家に生まれて、着る物にも食べる物にも困らなかった。趣味だと言えば、工具や材料を融通してもらえた……趣味なだけじゃ我慢できなくなったのは、私のわがままだわ」


 父の態度に不満はあるけれど、ルキエは父を強く否定できない。

 もし、自分が父の立場だったら、自分は娘が独身のまま職人になることを許しただろうか?

 ルキエの故郷はたまたま家長制度で、父の権力が強かったけれど、仮に女が偉い土地に生まれていたら、自分はどうしていただろう?


(きっと私は、その恩恵を手放せない)


 人間は、当たり前に享受していたものを簡単には手放せないのだ。

 やり方を変えろ、在り方を変えろ、と言われたら、どうしたって反発する。

 項垂れるルキエに、ティアが「ペフン……」と喉を鳴らした。


「わたしも、恵まれてる側だったよ。雌が強い集団に雌で生まれた。だから、ルキエのお父さんに、あんなこと言っちゃいけなかった」


 良くも悪くも過ぎたことを気にしないティアが、自分の過去を語るのは珍しい。

 ティアはどういう環境で育ったのだろう。

 走るのは下手なのに身体能力は高くて、魔力放出が下手で、魔法生物に詳しくて、とびきり歌が上手くて。

 もしかしたら、旅芸人の一座で育ったのではないだろうか。それなら、魔物の物語に詳しいのも頷ける。


(……なんて、勝手な想像だけど)


 ルキエは自分が詮索をされるのが嫌いだから、他人にも詮索をしない。

 ただ、初めてティアのことを、もう少し知りたいと思った。


「……あんたにも、姉がいるんだっけ」


「うん。お姉ちゃんは大きくて、温かくて、お歌が素敵」


「大きくて温かいって、アグニオールみたいね」


「ピロロロロ……アグニオールとは、あんまし似てない。どっちかというと、ルキエやセビルの方が似てる」


 ルキエはフッと小さく笑いを零す。


「私は大きくもないし、歌が上手くもないわよ」


「ルキエの歌、好きだよ。また一緒に歌う?」


「今日はそういう気分じゃないから、また今度にして」


「ピヨップ!」


 反省会をして、自分が恵まれていたことを再認識して、他愛もない雑談で少しだけ調子を取り戻したら、次は自分がするべきことを考える。

 今はまだ、できることは少ないけれど。


「私、父に手紙を書くわ。多分、納得してもらえないだろうけれど、何回でも書く」


 ティアが「ピヨッ」と鳴いて、目を丸くした。

 そんなに驚くようなことだろうか?


「そっかぁ……気持ちを伝える手段って、歌だけじゃないんだねぇ」


「歌だけで気持ちを伝えようって方が、おかしいでしょ」


「手紙。わたしも書いてみたい!」


「じゃあ、ゾフィーに書いてやったら? つまらない内容でも、小躍りして喜ぶわよ」


 いつもの調子が出てきたところで、階段から立ち上がる。

 重かった体が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


(……他愛もない雑談なんて、嫌いだったのに)


 今はそれに救われている。それが、良いことか悪いことかは分からないけれど、自分の変化を厭わないようにしよう、とルキエは思った。

 ルキエは、変化を望んでいる。変わりたいと願っている。

 だからこそ、この旅への同行を申し出たのだ。

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