【17】仮に豚になったとして
ティアとセビルの前で、存分に泣き言を言ったレンは、その後顔を洗ってから、兄の見送りのため、正門に向かった。
ティアとセビルは、レンを一人にしないぞ、と引っついてきたが(実はちょっと嬉しかった)、兄の見送りは一人ですると断った。
兄に甘えているところを見られるのが、恥ずかしかったからだ。それぐらいの見栄は張らせてほしい。
兄は近くの村に宿をとっていて、そこで一泊してから家に帰るのだという。
「兄ちゃん、もう帰っちゃうのか?」
本当は、兄に話したいことが沢山あるのだ。
この〈楔の塔〉に来てからできた仲間達のこと、できるようになったこと、自分が美少年的に活躍したこと、話したいことは尽きない。
だが、ケヴィンは気弱に眉を下げて言った。
「うん。お母様達には内緒で来たからね」
やっぱりケヴィン兄ちゃんは優しいなぁ、と思う。
父と継母は、カトリナの死をレンに伝える必要はないと考えていたのだろう。
それは意図的にレンに隠すのではなく、必要のない無駄なことだからしない、という判断だ。あの連中なら、そう考える。
「……あいつら、オレが〈楔の塔〉にいること、気づいてる?」
「うん」
ケヴィンがあっさり頷いたので、レンは少し不安になった。
継母はレンが教育を受けることを酷く嫌がる。あの女は、レンが何かを得ることが気に入らないのだ。それが服でも食べ物でも、誰かの関心や寵愛、或いは知識でも。
だから家を飛び出したレンがどこかの学校に入学したら、妨害してくるのではないか、というのは密かな懸念だった。
それが容易にできるだけのコネと金が、継母にはある。
「お母様はレンが逃げた先が〈楔の塔〉だと突き止めて、〈楔の塔〉側に交渉したらしいよ。金なら幾らでも払うから、レンを追い出してくれって」
「え」
「でも、〈楔の塔〉側がキッパリ断ったんだって」
〈楔の塔〉はあらゆる魔術が集う塔。自ら門を叩き、入門試験に合格した者を追い出す理由はない。
外部からの干渉で塔の魔術師を追い出すのは、〈楔の塔〉の理念に反する。
交渉の場では、ヘーゲリヒ室長だけでなく、留守を預かっていたミリアム首座塔主補佐も対応したらしい。
そしてミリアム首座塔主補佐は、大金を持参したバイヤー家の遣いを冷ややかに追い返したという。
(ミリアム首座塔主補佐って、ティアを閉じ込めてた奴の一人なんだよな……)
それに関して思うところはあるが、〈楔の塔〉の塔主補佐としての仕事ぶりは誠実で、なんだか複雑な心境だ。
「〈楔の塔〉を選んで良かったね、レン」
「……うん」
これが他の教育機関だったら、バイヤー家の財力で懐柔され、レンは家に戻るか、路頭を彷徨うしかなかっただろう。
閉鎖的で独立した組織である〈楔の塔〉だからこそ、バイヤー家の要求を跳ね除けることができたのだ。
ひとまず今はそう納得しておこう。自分にそう言い聞かせるレンに、ケヴィンが折りたたんだ紙を差し出す。
「これ、僕の連絡先。この宛先なら、お母様にも見つからないから」
レンが紙を受け取ったのを確認し、ケヴィンは何かを押し殺したような苦笑をした。
「本当は、あの家の人間である僕は、もうレンに関わらない方が良いんじゃないかって思ってたんだ」
「はぁ!? そんなこと……っ!」
「……うん。でも、ヒュッター先生のおかげで、考えが変わったんだ」
自分がいない間、ケヴィンとヒュッターは何を話したのだろう。
いつも自信なげなケヴィンが、今はいつもより兄らしい顔をしていた。
「僕はレンのお兄さんだから、困った時は頼ってほしい。僕は……今度こそ、僕にできることを必死でするから」
「なんだよ、急に改まって。いつだって、ケヴィン兄ちゃんは色々良くしてくれたよ」
レンの言葉に、ケヴィンは顔をクシャリと歪めた。
そうして、泣き笑いみたいな顔で、「ありがとう」と呟く。
(変なケヴィン兄ちゃん)
お礼を言うのは、良くしてもらったレンの方なのに。
* * *
時刻は夕方で、そろそろ午後の活動が終わる時間だ。
冬が近づいてきたこの季節は日没も早いので、外で活動をしていた者達は既に移動や片付けを始めている。
まだ夕食には早い時間だ。とは言え、勉強を始めるには少し半端な時間である。ローズやゲラルトが土いじりをしているなら手伝おうか。或いは第三の塔〈水泡〉の管理室にでも顔を出そうか。あそこはいつ行っても手伝いの人間は歓迎される。
特に目的地も決めず、ブラブラと歩いていたレンは、第二の塔〈金の針〉の近くで、セビルを見つけた。魔法剣の訓練をしていたのだろう。
「レンか。兄の見送りは済んだのか?」
「あぁ」
頷き、レンはちょっとだけ目を逸らす。
あれだけ大泣きして、後ろから抱きしめられ慰められたのだ。多少の気恥ずかしさはある。
「さっきは……その、ありがとな」
「うむ。わたくしに感謝するのは良いことだな!」
こういう時、セビルは変に謙遜しないから気が楽でいい。
セビルは身を屈めると、レンの前髪のあたりをクシャクシャと撫でた。
「また、わたくしを頼りたくなったら言うがいい。フォーメーション縦・横、どちらでも応じよう」
「ティアにも礼を言いたいんだけど、今どこかな?」
「管理室だろうな。新型飛行用魔導具の調整があるとかで、カペル室長に連れて行かれた」
二人は管理室を目指し、並んで歩き出す。
少し風が出てきた。レンは上着の襟を寄せたが、セビルは気にする風もない。運動をしていたから、体が温まっているのだろう。
歩きながら、セビルは独り言のように呟いた。
「なぁ、レン。ティアは変わったな」
「……そうだな。さっき慰められた時、ちょっとビックリした」
ヒュッター教室の所属になったばかりの頃を思い出す。
セビルと衝突したレンが教室を飛び出した時、ティアは良くも悪くもマイペースだった。
レンが落ち込んでいようが能天気に歌を歌い、レンが悩みを吐露してもピンとこない顔で、ティアはこう言ったのだ。
『……人って、何かになりたがるんだ?』
あれはあれで、ティアのマイペースさが気楽だったし、レンなりに気づかされることがあったので、嫌な思い出ではない。
ティアはハルピュイアだ。人間とは物事の捉え方が違う。
そんなティアが、今日は落ち込むレンにこう言った。
『レンは、望む何かになれる生き物だよ。だから、いっぱい幸せな生き物になって』
この言葉が、レンにはなんだか酷く衝撃だったのだ。
それを上手く言語化できずにいるレンに、セビルがポツリと言う。
「初めて会った頃と比べて、ティアは人の心に寄り添えるようになったな」
「あぁ、うん……そだな」
「そのことを、わたくしは不安にも思っている」
一瞬、ドキッとした。
多分それは、レンも頭のどこかで同じことを考えていたからだ。
「たとえばだ、お前が呪いをかけられ、豚になったとする」
「ちょっと待った。そのたとえは美少年じゃない」
「まぁ、聞け。豚になったお前は人の言葉を話せない。代わりに、他の豚と交流ができるようになる」
脳内に豚の群れが現れ、ブヒブヒ鳴きながらレンを囲む。
やめろ、オレは豚じゃない。美少年だ──レンは渋面で唸る。
「そして、仲間の豚とそれなりに仲間意識ができた頃、お前の呪いは解け、人の姿に戻る……お前は、今まで通り豚の肉を食えるか?」
多分無理、と思った。
だが、レンはあえて答えず、セビルをジロリと睨む。
「……たとえ話にしてはグロテスクだろ」
「ティアが置かれた状況は、これと同じだ」
レンは唇を噛み、セビルから目を逸らす。
セビルがこのたとえ話を始めた時から、なんとなく着地点は見えていたのだ。
「今のティアが姉と再会し、同族が人を襲うところを見て……ティアは、今まで通りでいられるのか?」
「…………」
ティアは「友達」という存在を嫌悪しているが、少なくともレンやセビルに対して仲間意識は持っている。これは自惚れではないはずだ。
ハルピュイアの群れに戻ったティアは、葛藤するだろうか? 豚が食えなくなった美少年のように。
今更気づく。豚が食えないは、まだマシなたとえだ。だって豚が食べられないのなら、他の物を食べればいい。
(だけど、ハルピュイアは……)
ハルピュイアは人間の男を攫い、犯して繁殖する。繁殖の相手は人間の男で、代替が効かない。
だから、そうしないと滅びてしまう。
(いや、そもそも、ハルピュイアに雄っていないのか?)
二人はしばし無言で歩いた。
やがて、第三の塔〈水泡〉が近づいてきたところで、セビルがボソリと言う。
「ティアをこの状況に導いた、カイという男の行動に、わたくしは根深い悪意を感じる」
「……うん」
それだけは、間違いないとレンも確信している。
行き倒れていたティアを拾い、人の姿を与えて、〈楔の塔〉に送り出した男。
彼は、ティアの羽を切ったのがメビウス首座塔主であると知りながら、ティアを〈楔の塔〉に送り出した。
ティアが人の中で暮らし、変化していくことも含めて、悪意ある罠なのではないか、とレンは密かに考えている。おそらく、セビルもだ。
(でも、オレは……人に寄り添うようになったティアの変化を、喜んでる)
それは、ティアが人に寄り添ってくれた方が、人であるレンにとって都合が良いからではないか?
自分は、本当にティアの変化を喜んで良いのか?
そんな疑問がレンの脳裏をチラつく。
「もしもこの先、カイと会ったら……心を許すな」
「……おう」
ティアが置かれた状況は、残酷だ。
メビウス首座塔主に正体がバレれば、殺されるか、再び飼い殺される。
仮にバレずに、空を飛ぶ方法を手に入れて、ハルピュイアの群れに戻ったとして……人と触れ合ったティアは、果たして今まで通りハルピュイアとして暮らせるだろうか。
どうやって生きていくのが、ティアにとっての幸福なのだろう。
グルグルと悩んでいる内に丸くなったレンの背中を、セビルがポンと叩く。
「全ては憶測だ。ティアの心はティアにしか分からない」
「うん、でもさ……」
これはティアの問題だ。
それでも、自分に全く関係のない問題ではない、とレンは思うのだ。
だって、ティアはティアなりのやり方で、落ち込むレンの心に寄り添ってくれたから。
あの時のティアは、人の心の在り方について、きっと沢山考えたはずだ。ただ、レンを励ますために。
「ティアの心はティアにしか分からないから、オレが悩むのを投げ出していい、ってわけじゃないと思ってさ……まだ、答えは出ないけど」
「そうか。お前は良い男になるぞ、レン」
そう言ってセビルがニヤリと笑ったので、レンも同じように笑って「当たり前じゃん」と返した。