【14】ハルピュイアとは違うから
レンには腹違いの兄が三人いる。父の正妻の息子達だ。
上の二人はレンを目の敵にしていて、正妻と一緒になってレンを苛めたが、三番目の兄ケヴィンだけは親の目を盗んで、何かとレンの世話を焼いてくれた。
レンとレンの母が暮らしている離れに、お古の服や本を持ってきてくれたり、筆記用具を融通してくれたり。
レンが今着ている服も、ケヴィンのお古を母が仕立て直した物だ。
ケヴィンは時に、余り物の菓子を持ってきてくれることもあった。
「僕はあるだけ食べてしまうから、ちょっとレンが食べておくれよ」
まったく、仕方ねーな、ケヴィン兄ちゃんは! ──そんな可愛げのないことを言っても、ケヴィンはレンをぶったりはしない。気弱そうにニコニコ笑っている。
父の正妻は、レンが知恵をつけることを酷く嫌がった。レンが賢くなって、自分達に報復しにくることが恐ろしかったのだろう。
だからレンは家庭教師をつけてもらえなかったけれど、ケヴィンが読み書きや計算を教えてくれた。
〈楔の塔〉のことを教えてくれたのもケヴィンだ。
──帝国最東部の自治領に、帝国中のあらゆる魔術を集めた〈楔の塔〉があるんだって。ここでは、三年に一回、見習い魔術師達を募集するんだ。
じゃあ、オレでも魔術師になれる? と訊いたら、ケヴィンは目を丸くした後、「どうだろうね」と曖昧に笑った。
ケヴィンはいつも、断定的なことをあまり言わない。
それはケヴィン自身の気の弱さも理由だろうけれど、レンに期待を抱かせてガッカリさせないように、という気遣いも感じた。
やはり魔術師になるのは簡単なことではないのだ。
だけど、入門試験に合格すれば、授業料を払わなくて良いというのは魅力的だった。魔法学校は一般学校よりも学費が高いのだ。だが、〈楔の塔〉なら学費はタダだ。
レンが〈楔の塔〉に関する本をじっと見ていると、繕い物をしていた母が言った。
「あら、良いじゃない」
それは、母にしては珍しく明るい声だった。
母はレンによく似た美しい顔を、半分ぐらい包帯で巻いて隠している。かつて、正妻の企みで煮えたぎった油をかけられたせいだ。
それだけでなく、左の足と手の指を数本痛めている。正妻が事故に見せかけ、母を狙った時の怪我だ。
そんな境遇にあったせいで、母はいつもどこか暗い影があった。笑っていても、自嘲混じりの、全てを諦めたような笑い方をしている。
そんな母の明るく肯定的な声に、レンはドキドキした。初めて背中を押してもらった気がしたのだ。
「あのさ、母さん、〈楔の塔〉って、魔術師以外にも下働きを募集してるんだって。だったら、この家を抜け出して、母さんも……」
「私はいいの。この足じゃ、遠出は無理だから」
諦めたような笑顔──それをすぐにかき消して、母はサイズを直した上着をレンに渡す。
「〈楔の塔〉に行ってみなさいな。魔術師でも、下働きでも、ここにいるよりずっといいわ」
「母さんも、一緒に……」
そう口にしたけれど、本当は分かっていた。
母は本当に体のあちこちを悪くしていて、遠出が難しいことを。
やっぱり諦めるべきだ。母を一人、この家に残しておけない。
だが、レンが諦めを口にするより早く、母は言った。
「私は、ケヴィン君がいるから大丈夫よ。いってらっしゃい、レン」
こうしてレンは、母がこっそり貯めていた金と、ケヴィンが工面してくれた荷物を持って、家を出た。
今なら分かる。
あれは、母の精一杯の強がりだったのだと。
* * *
第三の塔〈水泡〉近くの木の枝に腰掛けたティアは、空を見上げて歌を歌う。
「『ララルゥア・ララルゥア・メーテア……』」
途中まで歌い、口を閉ざす。「晴れた日で気持ちいいから、みんなおいでよ!」の歌は、なんだか今は違うと思ったのだ。
(そういえばこの歌、前にレンの前でも歌ったっけ)
個別授業初日のヒュッター教室。自分が何をしたいか語る場で、レンは言った。
『魔術で金儲けして、大富豪になって、バスタブで金貨風呂やって、毎日豪華な飯食って、ハーレムを作って、最高ハッピー愛され美少年になる!』
セビルに浅薄と言われたその目標の裏側には、レンが育った境遇に対する反発があった。
レンの母親は裕福な商人の妾で、正妻達から冷遇されていたらしい。
正妻の企みで、レンの母親は顔に熱い油を被り、その美しい顔は爛れてしまった。
以降、レンの父親の心は離れていき、レンとその母は、離れで暮らしていたという。
殊に、母親譲りの美しい顔をもつレンは、正妻から目をつけられ、酷く苛められた。
『……母さんがさ、オレを見て泣くんだよ。そっくりに産んでごめんねって。私に似てるから、お前も酷い嫌がらせをされるんだ、ごめんね、ごめんね。って』
だからレンは美少年を強調する。
母が自分そっくりの美貌に産んでくれたから、自分は良いことがいっぱいあったのだ。何も悪いことなんてなかったのだ──そう、母に伝えたくて。
(……それなのに)
レンの異母兄ケヴィンがもたらした、レンの母の訃報。
それを聞いたレンの表情が忘れられない。
レンは泣き崩れたりはしなかった。
ただ、顔の筋肉の使い方を忘れたみたいな、力を失くした無表情で茫然と立ち尽くしていて、見かねたヒュッターが、レンとケヴィンを塔内に誘導した。
ティアとセビルは、いつも通り個別授業を受けてこいとヒュッターから言われている。
だから、セビルは第二の塔〈金の針〉で魔法剣の訓練をしているし、ティアもついさっきまで、第三の塔〈水泡〉でアルト塔主から歌詠魔術の指導を受けていた。
ダーウォック奪還作戦まであと五日しかない以上、覚えられることは少しでも詰め込まなくてはいけない。
(……でも、レンをダーウォックに連れていっていいのかな)
ダーウォック奪還作戦に参加するのは、ティアが姉に会うためだ。
セビルは「塔の上層部とイクセル殿下に貸しを作れる」と言っていたが、レンがダーウォックに行く理由は本当に何もない。
レンはただ、「仕方ねーなぁ」と付き合ってくれているだけなのだ。
「…………ペゥ」
「ティア、ここにいたか」
木の下からセビルの声が聞こえた。
どうやら自分はセビルの足音も聞こえないぐらい、意識の内側に潜っていたらしい。
ティアは身軽に木から飛び降り、着地する。
「セビル、あのね……」
言いかけて、ティアは口を閉ざした。
いつもなら、頭に浮かんだことをそのまま口にするのに、今は何を言えば良いのか分からなかったのだ。
ピロロ……という声すら出さず、ただ黙り込むティアを、セビルは静かに見つめていた。
「難しいな、ティア」
「……うん」
ハルピュイアは悲しい時は、悲しいの歌を歌う。
悲しい、悲しい、と歌っている内に、だんだんと悲しいが薄くなってくるから。
でも、レンはハルピュイアじゃないのだ。
きっとティアと同じやり方では、レンの心は晴れないだろう。
「人間は、悲しくて悲しくて心がグチャグチャの時、どうするの?」
「…………」
セビルは第一の塔〈白煙〉の方をチラッと見る。
「実は訓練が終わった後、ヒュッター先生に声をかけられてな」
「ピヨッ?」
* * *
訓練を終えたセビルは第一の塔〈白煙〉を目指していた。
レンと異母兄のケヴィンがどこに行ったかは知らないが、おそらくヒュッター教室だろうと思ったのだ。
ところが、第一の塔〈白煙〉に着く手前のところで、ヒュッターに声をかけられた。
ヒュッターは特に動揺しているでも、何かを堪えるでもなく、いつもの自然体な態度だ。
「お前って、落ち込んでる時って一人になりたい派? なりたくない派?」
第一声がそれだった。
ヒュッターの言葉に、セビルは少し考える。
セビルとて、何かを悲しむことはある。それが親しい人の死なら尚のこと。
ただ、セビルの置かれた環境はいつだって、セビルに立ち止まることを許さなかった。
母が死んだ時、泣いている時間も惜しんで犯人探しに奔走した。そうして母の死が半ば自死であったと知り、悲しむよりも絶望した。
戦場で部下が死んだ時、嘆く暇も惜しんで次の一手を模索した。嘆いている暇があったら戦わなくては、もっと沢山の仲間を失ってしまうから。
戦場で友人の死を聞いた時、セビルはそれを悲しむことすら許されなかった。友人は敵対部族の娘だったからだ。
「わたくしは、落ち込む時間が短いのだ。だから、一人でいることの方が多いやもしれぬ」
「あー、お前もまぁ、色々大変だもんな」
セビルの立場を理解しているヒュッターは、うんうんと相槌を打った後でボソリと付け足す。
「レンは多分、人恋しいタイプだろ。行ってやれ」
「今は教室に?」
「ちょっと外の空気吸ってくる、だとさ」
そう言ってヒュッターは城壁の方を指差す。そっちに行ったぞ、ということらしい。
「ヒュッター先生は行かないのか?」
「俺は、部外者であるレンのお兄さんを見てないといけないんだよ。本当は、今教室で一人待たせてるのも、ちとまずいんだ」
なるほど、部外者に見張りがつくのは道理。
この場合、レンの指導員であるヒュッターが、ケヴィン・バイヤーの見張りなのだろう。
「分かった。ティアに声をかけて、行ってくる」
ヒュッターは「任せた」と短く言い、第一の塔〈白煙〉に戻っていった。
* * *
「……というわけだ」
セビルの説明に、ティアはピョフーと息を吐く。
ヒュッター先生はよく見てるなぁ、という感心の吐息だ。
人間は落ち込んでる時、一人になりたかったり、一人になりたくなかったりするらしい。
自分はどうだろう? よく分からない。
ただ、ヒュッターの言うとおり、レンは一人にしない方が良い気がした。
「レンのところに行こう、セビル」
「うむ。移動しながら、フォーメーションを決めるぞ」
「ふぉーめーしょん」
「万事において大事なものと心得よ」
「ピヨップ!」




