【8】実践、歌詠魔術
ピアノ部屋に呼び出されたロスヴィータ・オーレンドルフは、とんがり帽子の縁をつまみながら、困惑顔でレンを見た。
「ねぇ……なんで、アタシが呼び出されたの?」
「アルト塔主が歌詠魔術を披露してくれるんだってさ。で、それには、詠唱をする古典魔術師が必要らしいんだ」
古典魔術の名家出身であるロスヴィータは、歌詠魔術と言われただけでピンときたらしい。
あー、なるほど……と納得顔で呟き、それからもう一度レンを見る。
「……で、あんたも歌詠魔術やるの? 魔力量少ない奴には向いてないわよ」
「分かってるよ。オレは後学のための見学…………ってのは、建前で」
レンはニヤリと笑い、ティアとアルト塔主を見た。
「すげー良いモン聴けそうだから、聴かなきゃ勿体ないなーって思ってさ」
ティアは今、アルト塔主からピアノの仕組みについて教わっている。
ハルピュイアのティアは知識としてピアノの存在自体は知っていたが、見るのは初めてらしい。
ちなみにレンはピアノの演奏を聞いたことがある。兄達が習っていたからだ──アルト塔主の技術とは比べるべくもないが。
「ピロロ……この白と黒の細い板……」
「鍵盤だ。これを押すと音が出る」
そう言ってアルト塔主が鍵盤を端から順番に叩いていく。その滑らかな音階にティアが難しい顔をした。
「ピヨ? …………音が少ない」
レンは思わず口を挟んだ。
「音が少ないって、調律ができてないってことか?」
「ピョフ。えっとね、この隣り合ってる鍵盤があるでしょ。この間にも、すごくたくさん音があるよね?」
「はぁ?」
レンは音楽の知識こそないが、ピアノの鍵盤は左側の音が低くて、右に行くほど音が高くなる……ということぐらいは分かる。
そうやって低い音から高い音が順番に並んでいるのがピアノだと思っていたのだが、ティアが言うには、それでは全然まったく音が足りないらしい。
レンが困惑していると、アルト塔主がキッパリと言った。
「ティアの言葉は間違ってはいない。ピアノの鍵盤は、音階を一定の間隔で分割しているのだ。当然、その間にある音は出せない」
帝国では一オクターブを十二分割しているが、国によっては分割数が違うこともあるのだと、アルトは補足する。
「調律を弄れば間の音も出せるが、ピアノを弾きながら調律をするのは現実的ではないだろう」
「ピロロ……それで、歌詠魔術ってできるの?」
「できない。だから、楽器で出せない音を声で出し、楽器は歌声を補うために使う。人間は一度に複数の声を出すことはできないからな」
レンはドキッとしたが、アルト塔主はティアの正体に気づいたわけではないらしい。
「歌詠魔術は、他の魔術師の詠唱に歌声を重ねることで、その魔術を増幅させるものだ。これは、古典魔術の方がやりやすい。何故なら、古典魔術の詠唱は歌に近い性質を持つからだ」
それで練習役に選ばれたのが、古典魔術の使い手であるロスヴィータというわけだ。
ロスヴィータは突然呼び出されたことを疑問にこそ思えど、怒ったりはしていない。
彼女は、勤勉な人間には基本的に親切だ。
「ロスヴィータ、まずはいつも通り詠唱をして、魔術を発動してくれるか?」
「分かりました、アルト塔主。『不合理な献身、宿る雨、腕を失くした魚達……穿ちて施せ』」
歌うような詠唱を口ずさみ、ロスヴィータが小枝を三本投げると、その小枝を中心に水の魚が生まれた。ロスヴィータお得意の攻撃魔術だ。
アルト塔主は「見事だ」と短く褒め、次の指示を出した。
「では次は、私が歌詠魔術を同時に使う。今と同じように詠唱してみなさい」
「はい……『不合理な献身、宿る雨、腕を失くした魚達……穿ちて施せ』」
ロスヴィータの詠唱に、ピアノの音とアルトの声が重なる。
その瞬間、音が膨らんだような錯覚を覚えた。
ただ、大きい音というわけじゃない。そこには計算された幾重もの層があり、厚みがある。そういう音楽だ。
(なんだこれ、めちゃくちゃ高度な伴奏とコーラスみたいな……)
ロスヴィータが新しい小枝を三本放り投げる。すると、先ほどとは明らかに違うことが起こった。
先ほどまでは、こぷりこぷりと空中から水が湧き出て、小枝を包み込んだのだが、今は一瞬で大量の水が膨れ上がり、小枝を包み込む。
数は先ほどと同じ三匹だが、大きさが全然違うのだ。いつもの魚が肘から指先ぐらいの長さなら、今はざっとその二倍だ。
ロスヴィータは驚き顔のまま、手にした杖を一振りした。すると魚がスルスルと室内を泳ぎ出す。
「すごい、威力と速さがいつもの二倍ぐらい出てる。アタシの消費魔力は、いつもと変わらないのに……」
驚いているロスヴィータに、アルトが淡々と説明する。
「ロスヴィータの魔力に、歌い手の魔力が上乗せされるんだ。だから、歌詠魔術の恩恵を受ける者が、余計に魔力を消費することはない」
アルトの説明を、ティアは真剣な顔で聞いていた。琥珀色の目がピアノとロスヴィータの魚を交互に見ている。
レンは後学のために話を聞いているだけの身だが、ただ聞いて満足して終わるのは勿体無いと思った。
こんな珍しい技術、そうそう見られるものじゃない。
「はい、質問! この歌詠魔術って、指向性は持たせられんの? えーっと……つまりさ、歌が聞こえる範囲にいる別の魔術師の魔術を強化しちまう、みたいなことはない?」
「理論上ゼロではないが、まずないだろうな。先ほどもやってみせたが、歌詠魔術はかなり高い精度で元の詠唱と共鳴しなくてはならない」
「あくまで、詠唱を重ねた相手とでないと駄目ってこと?」
「その通りだ」
なるほど、これは筆記魔術以上に使い勝手の悪い魔術だ。
恐ろしく高度な技術がいるのに、できることは仲間の魔術の強化だけ。
(すごいっちゃ、すごいけど……仲間の魔術を強化するより、普通に攻撃魔術を使って加勢した方が効率良いもんな)
筆記魔術然り、歌詠魔術然り、廃れていく技術には、相応の理由がある。
悲しきかな、使い勝手が悪かったり、効率が悪いものは、どんどん時代に取り残されていくのだ。
レンが納得していると、ティアが「ピヨップ!」と挙手をした。
「この歌詠魔術って、沢山の仲間と一緒に歌ったら、もっともっと強くなる?」
「その通りだ」
ティアとアルト塔主のやりとりにレンは閃き、パチンと指を鳴らした。
「そうか! 歌詠魔術って、元々は合唱団みたいな……複数人での運用を想定した魔術なのか。大規模結界を張る儀式とかで行われる魔術を補強しつつ、祭事を盛り上げるみたいな」
岩のように硬い雰囲気のアルト塔主が、少しだけ目尻の皺を深くして笑った。
「お前は頭の回転が速いな、レン・バイヤー。その通りだ。お前の言う役割を、かつてはラス・ベルシュ正教の聖歌隊が担っていた」
レンは想像してみる。例えば、魔物から国を守るため、魔術師が大きな結界を張る儀式をする時。魔術師のそばにはラス・ベルシュ正教の聖歌隊がいて、歌詠魔術を使う。
それは神聖で、感動的で、人の心を震わす光景だろう。
重なる歌声は結界を強化し、同時に人々の結束も強くする……ついでに、ラス・ベルシュ正教の権威も。
ただ、歌詠魔術は時の流れとともに廃れていき、現代ではラス・ベルシュ正教でも使い手は殆どいないらしい。
レンはふと気になって訊ねた。
「じゃあ、アルト塔主はラス・ベルシュ正教の人?」
「いいや、私は南方の出身で精霊神教だ。歌詠魔術は魔術と音楽の融合を独自研究していく過程で会得した」
アルト塔主はピアノを弾きながら、歌詠魔術の発声方法をティアに説明する。
それを真似てティアが発声する。流石に上手い。
その時、レンの頭に一つの考えがよぎった。
(ハルピュイアって、一度に複数の声を同時に発することができるんだよな……? それって、重ねるほど強くなる歌詠魔術と、かなり相性良いんじゃ……)
魔物は魔術を使わない。
魔術という技術に頼らずとも、魔力を自在に操ることができるからだ。
なら、そんな魔物が魔術という技術を身につけた時、何が起こるのだろう。
「なんか険しい顔してるけど、どうしたの?」
手持ち無沙汰のロスヴィータが、とんがり帽子を弄りながら訊ねる。
レンは椅子に座ったまま足を組み替え、美少年的に髪をかき上げた。
「美少年シンキングタイムだ。見惚れていいぜ」
「悪いけど、アタシはメビウス様一筋だから」
「えっ、メビウス様って……首座塔主? オッサンじゃん! ……あ痛ぁっ!」
ロスヴィータにスネを蹴られたレンは、悲鳴をあげた。