【7】ティアの本質
とても素敵な音がする。それは、とても丁寧で整った音だ、とティアは感じた。
(これ、楽器の演奏だ)
たとえば、若い娘と、しゃがれた声の老父がいたとする。二人の声は当然に別物だ。同じ音に寄せるのはとても難しい。
だけど、楽器なら同じ音が出せる。勿論、奏者ごとに個性は出るが、老若男女問わず同じ音楽ができる。
そうして統一した音で作り出す人間の音楽は、バラバラの歌声を重ねるハルピュイアとはまた違う美しさがあった。
人間が作る音楽は──特に新しい音楽ほど、細かいことをたくさん考えて、何度も何度も調整して、心地良い音になるよう作られている。
今聞こえるのは、そういう音楽だ。
「おい、ティア。どこ行くんだよ!」
「こっち」
ティアは耳をすませながらペタペタ走りで音を追いかける。
やがて辿り着いたのは、第三の塔〈水泡〉──元々の目的地である。
ただ、素敵な音が聞こえてくるのは一階の管理室ではない。二階の窓からだ。
今まで奏でていた曲が終わり、次の曲になった。知っている歌だ。
(これは、ルキエが好きな歌)
心地良い音に、耳と心を傾けていたら、自然とハルピュイアの口は歌い出していた。
そこに音楽があるのなら、ハルピュイアは歌わずにはいられない。
「『草原の風、どこまでも。影を追いかけ、どこまでも』」
歌いながら階段を登る。後ろを追いかけてきたレンが「うわ上手っ」と呟くのが聞こえた。
「『あの白樺は今いずこ、あの白樺は今いずこ』」
階段を上りきったら、音の聞こえる部屋の扉を開ける。
そこには黒くて大きい楽器があった。
あの子の部屋の絵本で見たことがある。あれは、ピアノというものだ。
ピアノを弾いているのは、白髪をこざっぱりと短く切った老婦人だった。
「『砂塵の彼方に待つ人よ、星をすくって風にのせ、私のもとまで届けておくれ』」
ピアノの余韻が聴く者の耳に残る一番良いタイミングで、ティアは喉の震えを止める。
そうして、ピアノの余韻に耳を傾けた。
計算された音楽の最後の余韻──その静かに溶けて消えていく儚い音が、ティアは好きだ。
この音楽が終わることの寂しさと、次の音楽が始まることへのワクワク。その二つの感情を同時に味わうことができるから。
ティアがピアノの余韻にうっとりしていると、ピアノを弾いていた女がティアを見た。
鋭さと、知性と品性、それらが同じバランスで内包された印象の女だ。顔にはくっきりと皺が浮かび、老婦人と言って良い年齢だが、不思議と老いを感じさせない。
女はどこか楽しむような口調で言う。
「何か歌ってみるがいい。適当に合わせよう」
その言葉に、ティアは目を見開き全身を震わせた。
ピョフワァ……と喉から歓喜の吐息が零れる。
「やったぁーーーーーーーーー! やったやったやった、やったぁ──!」
その場を飛び跳ねて歓声を上げるティアに、レンがギョッとする。
「うぉ、驚いた。え、そんなに嬉しいのか、お前……?」
「だって、合わせてくれるって、一緒に音楽してくれるって! ピョフフフフフ……」
〈楔の塔〉は魔術師達の集まり故にか、積極的に音楽に興じる者が少ないのだ。
この〈楔の塔〉でティアが一番よく聴いた音楽は、管理室のカペル老人のデタラメな鼻歌である。
ティアは喜びに胸を震わせ、大きく息を吸った。
普段〈楔の塔〉で歌う時は声量を抑えているけれど、今は遠慮なく喉を開いて歌う。
「花が色づくより早く、春の訪れを告げる香り。
雨のように散らして、雪のように大地を染めて」
ワンフレーズを歌ったところで、ピアノの演奏が始まった。
指の数だけ、音がする。音と音が重なって、綺麗な音楽を作る楽器。
なんて素敵なのだろう。
「それは白い黄金。ひとときだけの甘やかな。
それは赤い魚。ひとときだけ夢見るものよ」
好き。大好き。すごくいっぱい大好き。
そんな気持ちを込めて、ハルピュイアは歌う。高らかに。
「さぁ、枝を振って足踏みを。その輪を抜け出し、駆け出して。
さぁ、枝を振って手拍子を。その輪を抜け出し、手を取って」
自分の歌声とピアノが溶け合う感覚に、ティアは酔いしれた。気持ちいい。すごく、すごく気持ちいい。
歌が終わると、ティアは体を弛緩させてハフゥ……と息を吐く。
「大したものだ。表現力が並外れている」
老婦人が呟く。静かに噛み締めるような、真っ直ぐで力強い声だ。
気になって、ティアは訊ねた。
「ピアノの人は、歌をいっぱい歌ってた人?」
「どうしてそう思う?」
「そういう声だから」
人の体は老いることで、喉の力が弱くなる。必然、声量は落ち、滑舌も悪くなる。
だが、彼女の声からはそういう老いを感じなかった。これは、継続的に喉を鍛えた人間の声だ。
〈楔の塔〉でそういう声の人間を見るのは珍しい。
単純に声の力が強い人は、割といる。セビルやヒュッターがそうだ。
戦場で指揮を執っていたセビルは、遠くまでよく響く声の持ち主だ。単純に声が大きいだけでなく、他者を鼓舞する力強さがある。
ティア達の指導員カスパー・ヒュッターは、滑舌や抑揚の使い分けがとても丁寧だ。とにかく喋るのが──語りが上手い。
セビルにしろヒュッターにしろ、喋ると不思議と耳を傾け聞き入ってしまう魅力がある。
ただ、目の前にいるこの老女はセビルともヒュッターとも違う、とティアは感じた。
これは歌うために、音楽を奏でるために鍛えた喉だ。
「私は第三の塔〈水泡〉塔主アルトだ。見習いのティア・フォーゲルと、レン・バイヤーだな」
ピヨッと声を漏らすティアの横で、レンが大慌てで姿勢を正した。
塔主。つまり、とても偉い人だ。
「見習いで、歌詠魔術に興味のある者がいると耳にした。ティア、お前のことか?」
「ピヨップ!」
元気に返事をしたティアの脇腹をレンが突ついて「はいそうです、って言っとけ」と小声で囁く。
ティアは慌てて言い直した。
「はいそうです!」
「歌詠魔術を学びたいか?」
「はいそうです!」
「歌詠魔術とは、どのようなものだと認識している?」
「はいそうです!」
ちょっぴり勢い余ってしまったティアの脇腹を、レンが「馬鹿!」と突つく。
ティアは慌てて口を塞いだ。アルトは無表情にティアを見ている。これは、怒らせたかもしれない。
ティアがピロロロロ……と鳴いていると、アルトは淡々と言う。
「歌詠魔術は、決して秀でた魔術ではない。元々は儀式的に使われていたものだ。歌詠魔術の特徴は共鳴による増幅。詠唱に歌声を重ねることで、他者の術を強化する……そういう魔術なのだ」
共鳴による増幅──それは、ハルピュイアの歌と同じだ。
ハルピュイアの歌もまた、歌声を重ねることで、より響きを強くする。そうして、歌の持つ力を増すのだ。
「歌詠魔術にできることは、それだけだ。どうだ、使い勝手が悪い魔術だろう?」
「使い勝手? はよく分からないけど、歌詠魔術やりたい! ……です!」
「何故だ?」
問う声が、鋭さを増した。
(この人は、岩みたい)
人の形をした、大きくて硬い岩の壁──それが目の前に立ち塞がったような威圧感を感じる。
「たまたま歌が得意だったから? 歌が好きだから? 歌詠魔術に思い入れがあるから?」
「ピヨ……?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、ティアは気圧されたりはしない。
ただ、純粋に疑問を覚えた。
「アルト塔主はわたしに、『じゃあ、やめる』って言わせたいみたい」
「……そうだな。正直、そう言ってほしいと思っている」
アルト塔主は、何故、歌詠魔術を学びたいのかと問うている。
彼女が納得のいく答えでなければ、教えてもらえないのだろうか。
ティアはピロピロピロ……と唇を震わせ、考えた。
なんで? と疑問に思うことは大事だと、ヒュッターが言っていた。だから、ちゃんと考えよう。
(わたしが、なんで歌詠魔術をやってみたいか……)
新しくできることが欲しいと思った。
歌詠魔術は自分に向いていると思った。
そういう表層的な気持ちの奥の奥に、問いかける。
「えーっと、レン、こういうのって何て言うのかな?」
「おう、美少年ヒントタイムだな。よし訊け」
アルトは少し呆れた顔をしたが、駄目とは言わなかった。
なのでティアは、遠慮なくレンに訊ねることとする。
「あのね、わたしの奥の奥にある、すごく大事なもので、これがないと、わたしじゃない。そういうもの」
レンは「あー……」と腕組みをして唸り、ポツリと言った。
「本質とか?」
ピヨッ、とティアは瞬きをし、アルトに向き直った。
「それ! 歌はわたしの本質だから、魔術を勉強するなら歌詠魔術がいい!」
空を飛ぶこと、歌を歌うこと──それがハルピュイアの全てだ。
だから欲する、だから求める。それ以上の理由が思いつかない。
今までずっと険しい顔をしていたアルト塔主の顔に、初めて苦笑が浮かんだ。
「本質とは、大きく出たな」
「何も大きくないよ? わたしには、すごく当たり前のことだもの」
ティアがそう返すと、突然アルトの手がピアノの上を滑るように動いた。
綺麗に並んだ白と黒の細い板を、皺の浮いた指が叩く。
流れる音は目まぐるしく、けたたましい笑いのようだ。それなのに音楽として完成されている。
「正直に言ってやろう、ティア・フォーゲル。私はお前の歌声に嫉妬したのだ」
あの指の動きには、叩き方には、高度な技術が用いられている。手を使うのが苦手なハルピュイアには決してできない、力加減と指運びだ。
「まったく、歳は取りたくないものだな……さて、若者に脅かされる覚悟はできた。ティア・フォーゲル。お前に歌詠魔術を伝えよう」




