【2】信用されている男
ヒュッターはなりふり構わず走っていた。
この状況はまずい。まずすぎる。どう考えても「指導員である君の監督不行届きなのだよ、君ぃ?(byヘーゲリヒ室長)」案件である。
こういう時はもう、何はなくとも謝罪だ。先手を取って謝って、自分は教師として誠意のある行動をしてますアピールをするしかない。
(うぉぉぉぉ、頑張れ俺の足ぃぃぃ)
階段を二段飛ばしで駆け上がる。中年の足腰にピキピキときた。辛い。
やがて見えてきた会議室の扉は既に開いていて、黒髪をなびかせた男装の麗人の背中が見える。
覇気に満ちたセビルの声は、廊下まで響いた。
「初めましてだな、イクセル殿下。わたくしがアデルハイト・セビル・ラメア・クレヴィング──貴方に嫁ぐ予定だった、草原の国トルガイの民を母に持つ蛮剣姫だ」
間に合わなかった、いや、まだだ。諦めるな俺! 頑張れ頑張れ〈煙狐〉!
ヒュッターは会議室に飛びこみ、セビルの前に飛び出して、彼女を背中に隠すように立った。
「はーい、はいはいはいはい、いやーすみませんねうちの生徒が!」
ヒュッターの大声に、刺すような視線が集中した。特にヘーゲリヒ室長の視線が怖い。こめかみに青筋が浮いている。
まずはこの場にいる人間の顔ぶれを確認、瞬時に力関係を把握。
その上で、客人であるイクセル殿下と、この場の最高責任者であるミリアム首座塔主補佐に頭を下げる。
「いやもうほんと! 自分の監督不行届きで、大変申し訳ありませんでしたっ!!」
きっちり三秒頭を下げた後は、勢いよくセビルを振り返る。
そして、厳しい教師の顔を取り繕って告げた。
「セビル、今のお前は見習い魔術師だ。お前が何者であろうと、俺の生徒であるからには、指示に従ってもらう。授業に戻れ」
……と、きちんと教師の顔をしておいた方が、この場では受けが良いだろうな〜、と思ったのである。ついでにセビルも、こういう時は厳しく言った方が案外すんなり受け入れる。
予想通り、セビルは感心した様子でヒュッターを見ていた。
「今のはなかなか良かったぞ、ヒュッター先生。媚びへつらうだけの宮中教師どもに見習わせたい。わたくしの教師として合格だ」
「……そうやって教師を値踏みするの、やめような? ほら、教室に戻れって」
ヒュッターが手をパタパタ振って、戻れのジェスチャーをすると、セビルは首を横に振る。
「すまないが、わたくしはイクセル殿下に話がある。そちらも、わたくしに言いたいことがあるのであろう?」
そちら、と言ってセビルが視線を向けた先では、淡い金髪の男が眼鏡越しに鋭い目でこちらを見ていた。
……否、正確にはヒュッターではなく、セビルを睨んでいる。
ヒュッターは素早く頭を回転させた。
(あれが、セビルが嫁ぐ予定だったイクセル殿下か……セビルがクーデター未遂やらかして家出した原因だな)
気になるのは、先ほどのセビルの口上だ。セビルは「初めましてだな、イクセル殿下」と言った。つまり、セビルとイクセルは面識がないのだ。
面識がない者同士で婚約をするのは、上流階級では珍しいことではない。ただ、気になるのはイクセルの反応だ。
(どう見ても、好意的じゃねぇよな、これ……というか、なんとなく読めてきたぞ、結婚騒動の裏事情……)
問題はイクセルが〈楔の塔〉に来たことと、ヒュッターの任務が関係あるかどうか、だ。
(今朝の指導員会議で聞いた話じゃ、ダーウォック王城が魔物に占領されたってことだが……)
ヒュッターの任務は、「先帝と〈楔の塔〉の断絶理由の調査」である。
おそらく、このイクセルの件とあまり関係はない……が、本題の調査が進んでいない今、首の皮を繋ぐための情報がほしい。
つまりは「任務が進んでないけど、ダーウォックとイクセル殿下の情報を差し出すから、もうちょっと待ってね♡」という、黒獅子皇へのご機嫌取りだ。
(できれば、ここで話を聞きたいが……〈楔の塔〉上層部のご機嫌取りをするなら、セビルを連れて退室した方が心象が良い。さぁて、どうすっかな……)
ヒュッターが迷っていると、ミリアム首座塔主補佐が静かに告げた。
「構いません、見習い魔術師セビルの着席を許可します。ヒュッター指導員。貴方も彼女の指導員として同席してください」
(やった、ついてる!)
ヒュッターは密かに拳を握りしめたが、それにイクセル王子が渋い顔をする。
まぁ、当然と言えば当然だ。向こうにしてみれば、「なんだこいつ」といったところだろう。
イクセルが疑念に満ちた声で問う。
「……この者は、信用に足る人物なのですか?」
大正解。だって詐欺師だし……などとヒュッターが胸の内で呟いていると、ミリアム首座塔主補佐が静かに断言した。
「〈夢幻の魔術師〉カスパー・ヒュッターは、信用に足る人物です」
ミリアム首座塔主補佐の言葉に、室内の空気が変わる。他の塔主や室長達が、一斉に驚愕の目でヒュッターを見た。
なお、ヒュッターを知る守護室のベル室長は「流石ヒュッター先生ね」と言いたげな顔をしており、管理室のカペル老人は口笛を吹こうとし、アルト塔主に肘で脇腹を突つかれている。
ヒュッターの表向きの立場は、「魔術師組合から出向してきた近代派魔術師」だ。そんな人間が何故、ミリアムに信用されているのか不思議なのだろう。
一番驚いているのはヘーゲリヒ室長で、目玉が溢れ落ちそうなほど目を見開いていた。真っ当な反応で、逆に安心する。
驚愕の目で見られながら、ヒュッターは考えた。
(ミリアム首座塔主補佐、そんなに気に入ったのか……蜂蜜飴)
ちょっと高いけど美味いと評判の店で買って良かった。ありがとう、蜂蜜飴。
今後もあの飴は常備しよう、と心に決めつつ、ヒュッターはセビルと共に会議机の端に着席する。
まだ会議室はざわめきと動揺に支配されていて、仕切り直しという空気にはなっていない。
それでもイクセルは、すかさず口を開いた。
「……何故、貴女が〈楔の塔〉におられる、アデルハイト殿下。よもや、我が城への魔物の襲撃を予見していたとは言うまいな?」
低く絞り出すようなイクセルの言葉に、セビルは余裕たっぷりの態度で黒髪をかきあげる。
美しい顔に浮かんだ笑みは冷笑だ。
「北の方は、なにやら誤解をしておられるらしい。わたくしは魔術を学ぶためにここにいるのだ」
(あー、良かった……「お前との結婚が嫌で家出したんだよ」とか言わないだけの常識はあるんだな)
そう思った矢先に、セビルが肩を竦めて言う。
「なにせ、兄に見合いを強要されてな。つまらぬことになりそうだから、自ら家を出たのだ」
空気が一層張り詰める。
覇気を隠さないセビルと、鋭い眼光のイクセル。
どちらも、互いに好意がないことだけは一目瞭然である。
イクセルがブルブルと拳を震わせていた。疲弊しやつれた顔には、明確な怒りが浮かんでいる。
「よくも、そのような口を利けたものだ……貴女が結婚から逃げたせいで、父は道を踏み外したというのに!」
セビルの形の良い眉がピクリとはね上がる。
(……今のは、「逃げた」発言にイラッとしたんだな)
セビルが何か言い返すより先に、場の空気を読むエーベル塔主が穏やかに訊ねた。
「ヴァルデマル陛下に何があったのですか?」
「我が父……ダーウォック国王ヴァルデマル陛下は乱心された……」
イクセルが両手で頭を抱え、血を吐くように悲痛の声で叫んだ。
「クレヴィングを迎え入れることに失敗した陛下は、新しい国教を作るため、魔物に魂を売ったのです!」




