【1】北の国の王子様
〈楔の塔〉の見習い、呪術師ゾフィー・シュヴァルツェンベルクは、朝の教室に飛び込み、ピンク色の目をキラキラと輝かせて言った。
「みんな、大変だよぅ! 王子様が来たって! 王子様が!」
両手をバタバタ振って大はしゃぎのゾフィーに、ティアとレンはこっそり目配せをする。
昨晩、〈楔の塔〉の調査のために宿舎を抜け出したティア達は、ユリウスと遭遇し、〈楔の塔〉の秘密を探るため、情報を共有する協力関係になった。
その矢先に〈楔の塔〉を訪れたのが、ゾフィーの言う王子様。
北方連合ダーウォック王国の第六王子イクセル・オロフ・ダールベック。セビルが兄の命令で嫁ぐ予定だった人物だ。
イクセル王子の訪問で、深夜でありながら〈楔の塔〉は大混乱。
そのタイミングで、ティア達が宿舎を抜け出していたことがバレるのはまずい。
そこで、庭園の調査は一度中止し、騒ぎのどさくさに紛れて宿舎に戻ったのである。
宿舎に戻ったティアは、窓を開けて聞き耳を立てていたが、くだんの王子様はすぐ塔の中に入ってしまったらしく、詳しい話は聞けなかった。
(結局分かったのは、ダーウォックって国のお城に魔物が出たらしい、ってことぐらいだけど……)
ダーウォックには城と呼ばれる建築物が幾つかあるという。だが、第六王子イクセルが助けを求めに来たのなら、王城から来たと見て間違いないだろう、というのがセビルの見立てだった。
王城。つまりは国の中枢、王様のいるお城だ。
(でも、ダーウォックって、帝国の北だよね? 北には険しい山脈があって、ハルピュイアだって飛び越えるのは簡単じゃないのに……)
その険しい山脈を越えても、魔力濃度の濃い土地がなければ、あとは弱って死ぬだけだ。
それともティアが知らないだけで、ダーウォックには魔力濃度の濃い土地が豊富なのだろうか? それなら、東の海上を迂回すれば行けなくもないが。
ペフン、ペフン、とティアが喉を鳴らしていると、ゾフィーがウキウキを隠せない態度で言った。
「ねぇねぇ、ティアは聞いた? 王子様のは・な・し」
既に第六王子イクセルの件は、噂となって〈楔の塔〉中に広まっている。
ただ、その訪問の目的──城に魔物が現れた件はまだ出回っていない。なので、うっかり口走らないように、とレンに言われていた。
だから、ティアは慎重に口を開く。
「うん、聞いたよ」
「ね、ね、ね、ティア、王子様ってどんな人だと思う? 金髪碧眼の煌びやかな感じ? それとも黒髪でスマートで知的な感じ? ティアはどんな感じが好き?」
「……ピヨ。ゾフィー、嬉しそう」
「だって、王子様だよ王子様。誰だって見てみたいに決まってるじゃん〜。あっ、勿論、セビルの婚約者だってのは知ってるしぃ、横恋慕なんてしないよ? ただ、王子様への憧れは別というかぁ〜? ほら、分かるでしょぉ?」
ゾフィーは指を組んで、体を左右にくねらせ、キャッキャと盛り上がっている。絶好調だ。
ティアは頑張って考えた。
ゾフィーは王子様という生き物が好きだけど、ダーウォックの王子様はセビルの獲物だから、ゾフィーは横取りしない。でも、美味しそうと思うだけなら良いよね! ……という感じだろうか。
ヴヴヴと唸るティアに、ルキエが冷めた声でボソリと言う。
「つまりは王子様を見て、キャーキャー騒ぎたいのよ」
「だってだってぇ、王子様だよぉ? 一生見る機会ないかもしれないじゃん〜!」
「皇妹殿下のクラスメイトが、それ言う?」
ルキエが冷静に突っ込んだその時、教室の扉が開いて、ヒュッターが入ってきた。
ヒュッターは「席に着けー」と言いながら、教室を見回す。
「あー、既に噂で聞いているかもしれないが、この〈楔の塔〉に高貴なお客様が訪れている。すれ違ったら、くれぐれも失礼のないように……」
教室を見回していたヒュッターの目が、空席を凝視する。
その頬がヒクリと引きつった。
「……ティア、セビルはどこ行った?」
「『会議に乗り込んでくる』だって」
ヒュッターは目を閉じ、安らかで穏やかな笑みを浮かべる。
その笑みが意味するところを、ティアは知らない。
──現実の全てを忘却の彼方に置き去りにする、大人の笑みである。つまりは束の間の現実逃避だ。
三秒後、ヒュッターはカッと目を見開き、手を叩く。
「はい、今から自習! ヒュッター先生の楽しい帝国史『クレヴィングとラス・ベルシュ正教の素敵な関係♡』を各自予習しておくように! 以上!」
それだけ言って、ヒュッターは風のように教室を飛び出していく。
ティアはペフフンと喉を鳴らして、レンを見た。レンがティアにだけ聞こえる声で、「行くぞ」と呟いたので、二人は静かに立ち上がる。
そのままソロリソロリと廊下に向かおうとしたところで、見習い代表のエラが笑顔で言った。
「二人とも、駄目ですよ?」
優しげだがズシリと重みを感じる声に、二人は無言で着席した。
エラが「駄目」だと断言したなら、本当に駄目なのだと、ティアは学習したのである。
ペフフン、と悲しげな声を漏らしながら教本を開いたティアはふと気づく。
ヒュッターが自習の課題にしたのは、『クレヴィングとラス・ベルシュ正教の素敵な関係♡』について。
(クレヴィングって、確か……)
* * *
第一の塔〈白煙〉最上階にある会議室には、遠征中の首座塔主メビウスを除く塔主、室長達が集合していた。
首座塔主補佐ミリアム、三塔主のエーベル、ローヴァイン、アルト。そして、分室長を除く各室長達だ。
末席に座る指導室室長ヘーゲリヒは、緊張に唇を引き結び、昨晩訪れた訪問者を横目にチラリと見る。不躾にジロジロと見るわけにはいかない身分の相手だからだ。
その訪問者は、質素な服を着た二十代半ばの大柄な男だった。
肩を超える長さの淡い金髪を首の後ろで束ねており、眼鏡をかけている。
背後には中年の護衛が二人。
彼こそが、北方連合ダーウォック王国の第六王子イクセル・オロフ・ダールベックその人であった。
「昨晩は非常識な時間の訪問、誠に申し訳ありません」
そう言ってイクセルは、深々と頭を下げる。
王族が軽々しく謝罪することを、良しとしない者もいるだろう。それでもこの王子は頭を下げることを躊躇わなかった。
それだけ、彼が置かれた状況は危ういものだからだ。
不在の首座塔主に代わり、修道服の女──首座塔主補佐ミリアムが口を開く。
「問題ありません。救済の門は、いついかなる時も開かれているべきです」
ミリアムの美しい顔はニコリともしないし、響く声は淡々として、ともすれば冷たくも聞こえる。
それでも彼女はいつだって、口先だけではない救済を行動に移す人間だ。だからこそ、ヘーゲリヒも畏怖しつつ、尊敬している。
こういう時、進行役は主に第一の塔〈白煙〉塔主エーベルになる。
穏やかな老婦人エーベルは、ミリアムとは真逆の親しみやすさで、イクセルに訊ねた。
「貴方様の事情は、昨晩部下から報告を受けております。今ここで、わたくしからこの場の皆様にお伝えしてもよろしいでしょうか?」
イクセルはゆるゆると首を横に振る。
「……いえ。ここは今一度、私自身の口から伝えさせていただきたい。ダーウォック王城で起こった出来事を……」
そこで言葉を切り、イクセルは己の眉間に指を添えた。
その顔色は青白く、目にはくっきりと隈が浮いている。元々は精悍な男だったのだろう。
だが、およそ二週間に渡る強行軍で彼はすっかり疲弊し、頬が痩けていた。
昨晩〈楔の塔〉を訪ねてきた時は、服も体も汚れ、髭は伸び、どこから見ても王族とは思えない様相だったという。
彼らは自分達が置かれた状況を〈楔の塔〉に伝えた後、少しだけ仮眠を取り、〈楔の塔〉が用意した服に着替えて、今に至るのだ。
「……それは、日没直前のことでした。陛下がおわす玉座に……窓から何かが飛び込んできたのです。それは……」
「その話、わたくしにも聞かせてもらおうか」
扉から響いた声に、ヘーゲリヒは胃がひっくり返るんじゃないかと思った。
よりにもよって、どうしてこの人物がここにいるのか。
扉を開けたのは、腰に曲刀を下げた男装の麗人──セビルだ。
(ヒュッター君は何をやっているのかね!?)
一方その頃ヒュッターが必死の形相で、「うぉぉぉぉ、このままだと俺の責任問題ぃぃぃぃ」と焦りながら廊下を走っているとはつゆ知らず、ヘーゲリヒは頭を抱える。
室内は緊迫した空気に包まれており、イクセルは警戒が半分、怪訝に思う気持ちが半分の顔でセビルを見ていた。
その精悍な顔が、「なんだこの女は」と雄弁に語っている。
セビルは軍靴のヒールを軽やかに鳴らしてイクセルの前に立つと、腰に手を当て、大変偉そうにふんぞり返って告げた。
「初めましてだな、イクセル殿下。わたくしがアデルハイト・セビル・ラメア・クレヴィング──貴方に嫁ぐ予定だった、草原の国トルガイの民を母に持つ蛮剣姫だ」




