【1】美少年ヘルプ
「あいつが……わたしの羽根を切った人間だっ」
ティアがそう口にした瞬間、レンの頭は真っ白になった。
そんな馬鹿な、なんで、どうして──沢山の疑問が頭に浮かぶ。だが、今最優先で考えるべきはそこじゃない。
頭を占める「なんで、どうして」を一旦横に置き、レンは今この時、何をするのが最善かを必死で考えた。
(とにかく、ティアをメビウス首座塔主に会わせちゃ駄目だ!)
このままだと、ティアがメビウス首座塔主に襲いかかるかもしれない。
そうしたら、正体がバレるだけではすまない。きっとティアは殺されてしまう。メビウス首座塔主は元討伐室所属の強者なのだ。
(すぐにここから離れないと……!)
メビウスは他の者と一緒に、見習いの教室から出てきたところだ。
距離はまだだいぶある。向こうはこちらに気づいていない。
このまま走って引き返せばいい。だが、ティアはどう動くだろう。
ティアのあどけない顔に浮かぶのは、強い憎悪だ。
怒りに満ちた琥珀の目はギラギラと輝き、喉はシュウシュウと不気味な音を立てている。
全身に殺意を漲らせ、今にも飛びかからんばかりの様子だ──が、それはつまり、ティアにはまだ飛びかかることを躊躇するだけの理性が残っているのだ。
本当に理性が消し飛んでいたら、とっくにティアは飛びかかっている。
(何が切っ掛けで、首座塔主に襲いかかるか分かんねぇし、そもそも繊細な美少年のオレじゃ、ティアを止められない……!)
ティアを落ち着かせて、速やかにこの場を離れる──自分には無理だ。
だからレンは、メビウス首座塔主からティアの姿を隠すように、ティアの正面に立った。
そうして助けを求める。ティアの正体を知る、唯一の仲間に。
「セビル──!!」
ただ呼びつけるのではない。心の底から、「助けてくれ」の気持ちを込めて叫ぶ。
その僅かな声音の違いを、美少年がなりふり構わず助けを求める必死さを、セビルはきっと汲み取ってくれると思ったのだ。
(助けてくれ、助けてくれ、ティアがやばいんだ、頼む、頼む!)
レンの心の声に応えるように、教師達を押し退けてセビルが飛び出してきた。三秒もしなかった。
セビルは決して走らず、スタスタと早足でレンに近づき、黒髪をかき上げてふんぞりかえる。
惚れ惚れするほど、いつものセビルだ。
「わたくしを呼びつけるとは出世したな、レン! さぁ、何があったか言うが良い!」
レンはバクバクとうるさい心臓を宥め、教室の方を見た。
メビウス首座塔主と、そのそばにいるヘーゲリヒ室長がこちらを気にしている。
彼らは、レンの背後にいるティアの様子がおかしいことにも気づいたのだろう。ヘーゲリヒの「何事かね」という声が聞こえた。
(……助けて)
その言葉をレンは咄嗟に飲み込んだ。
情報伝達は簡潔に。大丈夫だ。セビルなら、きっとこちらの考えを汲んでくれる。
落ち着け、上手くやれ、と自分に言い聞かせ、レンはセビルにだけ聞こえる小声で言う。
「……ティアの羽を切ったの、メビウス首座塔主だった」
セビルが眉を片方持ち上げ、小声で返す。
「なるほど分からん……が、何をするべきかは分かる」
セビルは、俯いて喉をシュウシュウ鳴らしているティアを正面から抱きしめた。その顔を隠すように。
そこに、近づいてきたヘーゲリヒが声をかける。
「一体、何事かね?」
「具合の悪い者がいるのか」
ヘーゲリヒに続いて、メビウス首座塔主が声を発した。それだけで、ティアの肩がビクンと震える。
(ここはどう切り返すのが正解だ? 唸れ、輝け、美少年の頭脳……!)
レンが焦っていると、セビルが落ち着き払った態度でティアを抱っこした。
ティアと正面から抱き合うような、そういう抱っこだ。そうしてクルリとヘーゲリヒの方を向く。これなら、ヘーゲリヒ達にはティアの後頭部しか見えない。
「レン、ティアの具合が急変したのだな?」
「そう……そうなんだっ。だから、もう一回医務室で見てもらおうぜ!」
「酷い顔色だな。医務室に行く前に、一度外の空気を吸いに行くか」
流石皇妹なだけあって、こういう時のセビルの演技は自然だった。なにせ変に取り繕わずとも、ただ堂々としているだけでセビルはセビルなのだ。
セビルは片腕でティアの体をしっかり支え、反対の手でティアの後頭部を軽く抑えた。ティアはセビルの肩に顔を埋め、ヴヴヴ……と低い声を発している。
普段のピヨピヨした鳴き声とは違う。不満や怒りを押し殺す、鬱屈した鳴き声だ。
それをかき消す声量でセビルが言う。
「わたくしは外の空気を吸えば、大抵元気になる!」
「医者泣かせなお姫様だなぁ!」
ティアを抱っこして歩き出すセビルに、レンもなるべくいつもの態度を装ってツッコミを入れる。大丈夫だ、セビルはいつも声がデカいから、何も不自然じゃない。
「それでは、失礼する。メビウス首座塔主、ヘーゲリヒ室長」
セビルはそう言って歩き出した。レンもペコっと一礼だけして、セビルに続く。
廊下の角を曲がり、ヘーゲリヒ達から離れたところで、セビルは覇気控えめの優しい声でレンに言った。
「よくぞ、わたくしを呼んだな、レン。褒めてつかわす」
その言葉に、安心してちょっと泣きそうになったのは、美少年の秘密だ。
* * *
外に出たレンは、ティアを抱えたセビルと共に庭園に向かった。
〈楔の塔〉の敷地内には研究用の薬草等を植えている者もいるが、庭園はそういった場所とは明確に区別されていて、一定間隔で木が植えられ、花壇には季節の花が控えめに咲いている。
そんな花々を、野良着姿の老人が黙々と手入れしていた。
〈楔の塔〉には魔術師以外にも、塔の雑務をする一般人がいて、その中には庭仕事を専門にしている者もいる。それがあの老人だ。
あの老人に話を聞かれると都合が悪い。それならばと、レン達は庭園奥にあるガゼボに向かった。
〈楔の塔〉のガゼボは、石造りの柱と屋根があるだけの簡素な代物だ。そこに丈夫そうなベンチが固定されている。
ガゼボの周囲は少しひらけているので、誰かが近づいてきてもすぐに気づけるだろう。
レンがベンチに座ろうとすると、セビルが有無を言わさず中央に座り、右にティア、左にレンを座らせた。
セビルは腕を伸ばして、ティアとレンの肩を抱き寄せる。
「少し冷えるな。近う寄れ」
顔を寄せて内緒の話をするための配慮なのだろう。
それにレンは、あえて軽口を返した。
「美少年で暖を取るなんて、すげー贅沢」
「わたくしを誰だと思っている?」
「はいはい、お姫様お姫様」
いつもの軽口を返すと、少しだけ気持ちが楽になった。
頭の中で「どうしよう、どうにかしなきゃ」と騒ぐ自分が少し静かになる。
(そういやこのやりとり、雪猪に追い回された時もしたな)
洞窟に逃げ込み、氷を操る魔物に追い詰められた時のことを思い出す。
あの日、レンはティアの正体を知ったのだ。
「…………」
レンはグルリとガゼボの周囲を見回す。当然だが、ここはあの時の洞窟ではない。
背中側には敷地を囲う城壁が見える。ここは敷地のだいぶ外側にあるらしい。敷地中央に〈金の針〉〈白煙〉〈水泡〉の順で並ぶ三つの塔を挟み、宿舎と反対側にあるのがこの庭園だ。
木々の奥には小さな小屋が見える。おそらく、庭師が使っている小屋だろう。ただ、ガゼボからだいぶ離れているので声が届く心配はなさそうだ。
「ティア」
セビルが名を呼ぶと、ティアがピクンと肩を震わせた。
シュウシュウという声は止んでいた。今は怖いぐらいの静かさで、ティアはジッと俯いている。
「お前の風切り羽根を切ったのが、メビウス首座塔主だというのは真か」
ティアはコクンと頷き、ゆっくりと顔を上げる。
その横顔を、レンはセビル越しに見た。
今は憎悪より、困惑と動揺が勝る顔だ。多分、ティアも困惑している。何故、自分がここにいるのか、疑問に思っている。
(ティアは、カイって奴が助けてくれたって言ってた。〈楔の塔〉で学ぶことを勧めたのも、そいつだって話だけど……)
カイという人物が何者かは分からない。ティアもよく分からないと言っていた。
もし、そいつがティアの羽を奪った人間の正体を知っていたのだとしたら……
──カイという人物は明確な悪意をもって、ティアを〈楔の塔〉に送り込んだことになる。
恐ろしい予感に体を震わせるレンの肩を、セビルが強く抱いた。




