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【1】小さなヘレナ


 ヘレナは両親の顔を知らない。物心ついた頃にはラス・ベルシュ正教が運営する施設で、同年代の子ども達と暮らしていた。

 施設の子ども達は全員、ヘレナという名前が与えられる。

 だから少女達は「エクボのヘレナ」「金髪のヘレナ」などと互いのことを呼び合った。

 彼女の呼び名は「小さなヘレナ」だ。施設の中で一番小さかったのである。



 ヘレナ達は皆、修道女見習いのような暮らしをしつつ、魔術の勉強をする。

 施設の訓練は過酷だった。

 魔力量を高めるために、魔力濃度の高い土地に連れていかれ、そこで魔力が尽きるまで魔術の練習をする日もある。

 それが原因で体を壊し、施設を去っていく子どもも少なくはなかった。


 ──全ては、聖女ヘレナになるために。


 沢山のヘレナ達の中から、古代魔導具〈嗤う泡沫エウリュディケ〉に認められた者だけが、聖女ヘレナになることができる。

 そのためにヘレナ達はここに集められたのだ。

〈嗤う泡沫エウリュディケ〉の使い手は、昔から聖女ヘレナと決まっている。

 大人達が言うには、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は、敬虔で貞淑で心の清らかな人間でないと使い手として認めてくれないのだという。

 だからヘレナ達は、訓練や日課の時間以外のほぼ全てを祈りにあてる。

 神に感謝し、人の幸福を祈り、常に美しい心であるように。


 ……実際のところ、古代魔導具がどのような人間を選ぶかなど、誰にも分からないのだ。


 ただ、教会が民衆の支持を集めるには、古代魔導具の使い手である聖女は、優秀で見目の良い人格者の方が都合が良い。

 だからそういう子ども達を沢山育てて、その中から古代魔導具〈嗤う泡沫エウリュディケ〉に使用者を選ばせたのだ。

 そんな大人達の事情を知らない少女達は、聖女になるための過酷な修行を続けた。



 同じ目的で集められた、同じ名前の子ども達の群れにおいて、私生活も厳しく制限されると、成績の良し悪しだけが個と錯覚しがちになる。

 とはいえ、集められた少女達は皆優秀だ。魔力量が多く、魔術の才能があり、歴史も語学も素晴らしい成績の者ばかり。

 優秀なヘレナ達の中で、小さなヘレナは個と言えるような才能がなかったから、せめて良い子でいて、素行優秀と評価されることで、己の個を獲得しようとした。

 率先して面倒な仕事を引き受けたし、絶対に他人の悪口も言わない。常に問題を起こさない優しい良い子、それが小さなヘレナだ。

 言い換えればそれは、良い子であることだけが、小さなヘレナの個性だった。

 それでも仕方がない。自分には特別な才能なんてなかったのだから。


(だったらせめて、良い子でいなければ。そうでないと自分は無価値なのだと、世界中から責められている気持ちになってしまう……)


 そうして月日は流れ、小さなヘレナが十三歳になる年、先代ヘレナが逝去した。

 古代魔導具は使い手が死ぬまで次の使い手が選べない物と、そうでない物とがある。〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は前者だ。

 だから、契約者である聖女ヘレナが死んだ時、初めて次の聖女ヘレナを選ぶ。

 古代魔導具は厳密に言うと、古代に作られた魔導具ではない。古代の技術を用いて作られた魔導具を指す。

 ただその技術は現代では失われており、もう再現することはできない。

 古代魔導具と現代魔導具の大きな違いは、古代魔導具は威力が桁違いに強いこと、そして古代魔導具は例外なく意思を持つということだ。

 当然に〈嗤う泡沫エウリュディケ〉も意思を持っている──が、その意思は極めて薄く、歴代の聖女ヘレナ達は〈嗤う泡沫エウリュディケ〉の微かな声を聞くのみだったという。

 選定の儀において、小さなヘレナは〈嗤う泡沫エウリュディケ〉に触れた時、微かな声を聞いた。

 水の膜の向こう側から聞こえるような、くぐもった声だ。

 ハッキリとは聞こえないけれど、なんとなく笑っているように聞こえた。

 それと同時に、指先に触れた首飾りの宝石が輝きだす。

 おぉ、と大人達が声をあげた。


「おめでとう、聖女ヘレナ。〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は貴女を認めました」


 偉い大人がそう言って、水色の宝石を幾つも連ねた綺麗な首飾りを、小さなヘレナの首にかける。

 その時、ヘレナの胸元に小さな印が浮き上がった。水色のその紋様は、古代魔導具との契約印だ。


「新たな聖女の誕生を神も祝福されています。これからも驕ることなく、その力で人々のために尽力なさい」


 聖女の肩書を貰ったその時、小さなヘレナは初めて、良い子であること以外の個を得たような気持ちになった。

 自分はこれからラス・ベルシュ正教の聖女ヘレナとして、人々のために尽くして生きてく。

 心清らかに、貞淑に、敬虔に。

 聖女ヘレナの心は喜びと誇らしさに満ちていた。



 * * *



(……あぁ、どうしてこんなことになったのでしょう)


 聖女に任命された数週間後、ヘレナは薄汚い路地に引き摺り込まれ、口を塞がれていた。

 大司教様がお越しになるから花を飾らなくてはと、誰かが言ったのだ。

 聖女様が選んだ花なら、きっと大司教様も喜ばれるわ、と別の誰かも言っていた。

 聖女様、おでかけになるならこちらの道が良いですよ、と言ったのは、外出のお供をして、いつのまにかいなくなった別の誰かで……。


 ──あぁ、あれは聖女になれなかったヘレナ達だ。


 そうして彼女達の口車に乗せられて、のこのこと外に出て、こうして裏路地に連れて行かれた。

 薄汚れた男達がヘレナを地べたに押さえつけて、下卑た笑いを浮かべている。

 この男達に汚されれば、自分は聖女として不適格だと言われるだろう。

 聖女になれなかったヘレナ達は、それを知っているのだ。


 ……そう、彼女達は()()()()()()()()()()


 古代魔導具〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は、一度契約を交わしたら、契約者が死なないと次の人間と契約をしないことも。

 不適格扱いになった聖女ヘレナは、殺処分するしかないということも。

 知っていて、彼女達はこの暴漢をけしかけた。


(あぁ……駄目……憎んでは駄目……隣人を愛しなさい。憎むべきは人を堕落させる魔物である、と神は仰ったのだから)


 自分は聖女ヘレナなのだ。心清らかでいなくては。

 憎しみに心を染めるなどあってはならない……あってはならないのに。


(この男達が憎い。わたくしを陥れたあの子達が憎い)


 良い子の顔の奥で抑圧してきた本音が、蛇のように鎌首をもたげる。

 聖女になれなかったヘレナ達の陰口が、耳の奥でこだました。


 ──どうして小さなヘレナなんかが。


 ──ただ良い子なだけなのに。


 ──聖女に相応しくないわ。


 腹を立ててはいけない。そう自分に言い聞かせつつ、本当は思っていた。

 そんな陰口を叩いているから、貴女達は聖女になれなかったのよ、と。


(憎い憎い憎い憎い駄目憎んでは駄目駄目なのに)


 男達がヘレナの服を破る。下品な笑い声が降り注ぐ。

 不意に、教典の一節が頭をよぎった。


『悪意とは、最も身近な劇薬である』


 胸から染み出した劇薬が、悪意が、瞬く間に体の内側を黒く染めていく。

 これはいけないことだ。優しい良い子でないと。

 それだけが、小さなヘレナの個だったのに。


(憎い憎い憎い憎い──裁きを受けろ)


 薄汚れた手が肌を撫でたその時、耳の奥でパチンと何かが爆ぜる音がした。


『キャハハハハ、キャーッハハハハ!!』


 けたたましい嗤い声が、首元で響く。

 この声は、ずっとずっと聞こえていたのだ。ただ、水の膜を隔てたようにくぐもっていて、よく聞こえなかっただけで。

 今はよく聞こえる。笑い声──否、嗤い声。嘲笑。


『シネシネシネシネシネ! ミンナシネ! バカドモ! クソドモ! ゴミドモ!』


 金切り声にも似た、耳障りな声の嘲笑だ。なんて下品で聞き苦しいのだろう。

 それなのに、あぁそれなのに……。


「……ふふっ」


 思わずヘレナは笑ってしまった。

 だって、その声があまりにも彼女の心を代弁してくれたものだから。


『キャハハハハハ!』


「……ふふふ、あは」


『キャーッハッハッハッ!! ハゼロ! ハゼロ!!』


 プクリ、プクリと浮かんだ泡が、男達の体を包み込む。

 男達の悲鳴も命ごいも、くぐもった声しか聞こえない。


 小さなヘレナは、本当は良い子なんかじゃなかったのだ。

 ただ、個性が欲しかったから、お手軽に手に入る個性を──良い子であることを選んだだけで。

 それでももう、ヘレナは変われない。

 抑圧された世界で良い子であることを己に課して、聖女になるために、それだけのために生きてきたのだ。己の醜い本性を知ったところで、今更どうして全てを変えることができるだろう。

 ヘレナはゆっくりと立ち上がると、その顔に悲しげな笑みを貼りつけた。だって、自分は聖女なのだから。これから起こる惨劇に悲しまなくては。

 聖女であることだけが、今の己の個であり、価値なのだから。


「悲しいです……わたくし、とっても悲しいの」


『シネシネシネシネ! ミンナシネ!!』


 聖女はポロリと涙を零し、祈るように指を組む。


 ──そして、泡は爆ぜた。



 * * *



〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は泡で包んだものの魔力が多いほど威力を増す。

 ヘレナを襲った男達は皆、魔力量の少ない一般人で、そのおかげで命拾いをした。

 ……それでも全身骨折だ。二度と歩けなくなった者もいる。

 聖女ヘレナの身柄は拘束され、大教会側はその扱いについて審議をすることになった。

 彼女から聖女の称号を剥奪し、別の聖女ヘレナを立てるべきだ。それが一番丸く収まる……が、問題を起こした聖女ヘレナは、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉を覚醒させてしまった。


「これは、今までになかったことですよ」


 聖女ヘレナの教育を管轄している司祭が、深刻な顔で言い、周囲がそれに頷く。


「本来、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は古代魔導具の中では、それほど強力なものではないと言われていました……それでも現存する古代魔導具というだけで、充分に価値はあったのです」


 古代魔導具に儀礼的な価値さえあれば、教会の威厳は保たれる。

 歴代の聖女ヘレナが、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉で生み出せる泡の数は一度に五、六個。多くても十に届かないし、飛距離も精々目の届く範囲ぐらい。だが、儀礼的な価値さえあれば、それで充分だったのだ。

 ところが、今の聖女の力で覚醒した〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は、一度に百近い数の泡を操るのだ。しかも、飛距離は凡そ三倍以上。


「これは兵器たりえる力です」


「ですが、市街地では使えません。強力すぎて一般人を巻き込んでしまう」


「……仮に、敵対組織に使うとしても、あれはあまりに印象が悪すぎる」


 そう、最も上層部の頭を抱えさせたのは、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉の人格だ。

 金切り声の嘲笑と罵詈雑言を撒き散らす古代魔導具。

 あれを兵器として運用する聖女を、信者達が信奉するだろうか。どうせなら、聖句の一つでも唱えてくれれば良いものを。

 今の聖女ヘレナを抹殺するのも簡単ではない。〈嗤う泡沫エウリュディケ〉を使われたら、被害は甚大だ。

 かくして、大教会上層部の意見は割れた。

 聖女ヘレナも、目覚めた〈嗤う泡沫エウリュディケ〉も、その人格に問題がある。

 だが、この強大な力を利用しないのは惜しい。

 そこで彼らは考えた。

〈嗤う泡沫エウリュディケ〉は市街地では使えない、主に対魔物戦闘で特に猛威を振るう古代魔導具だ。ならば、魔物と戦う〈楔の塔〉に貸し出して、恩を売れば良い。

 あの耳障りな嘲笑と悪態も、辺境の地で魔物を相手にするなら問題ないだろう。



 ラス・ベルシュ正教は、古代魔導具の使い手を聖女とすることで、政治に介入してきた過去がある。

 五十年以上前の戦争における、〈ベルンの鏡〉と銀の聖女もそうだ。

 大教会は、帝国を勝利に導いたのは、ラス・ベルシュ正教の聖女の力であると民衆に訴え、信奉を集めた。

 そして今回もまた、〈嗤う泡沫エウリュディケ〉と聖女ヘレナを〈楔の塔〉に送り込むことで、〈楔の塔〉における影響力を高めようとしたのである。



 それが、聖女ヘレナが〈楔の塔〉に送られた理由だ。

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