【2】ライバルの誠意
魔法戦当日の朝、討伐室の魔術師フレデリク・ランゲは飛行魔術でフワリフワリと〈楔の塔〉周辺を飛んでいた。
どうにも寝つきが悪い時、彼はこうしてよく飛行魔術で空を飛ぶ。槍を握りしめて空を飛んでいる間は、夜も魔物も怖くないから。
彼はその気になれば、誰よりも速く飛ぶことができるが、こういう時はあえて速度を落とす。
風に逆らわず流されるような飛び方をしていると、自分が風に舞うシーツにでもなったような気分だ。その時間がフレデリクは嫌いじゃない。
魔物と敵対している時は誰よりも苛烈な男だが、彼は本来、風に飛ばされるシーツのようにフワフワした男であった。
『そういうのを、地に足がついていないと言うのですよ……あぁ、堅実と無縁の脳みそゆるふわ男が同期なんて、悲しいです……悲しいです……地に足を着けて、お生きなさい……』
とは、同期のヘレナの言葉である。失礼すぎる。
思い出してムッとしていたら、すぐ近くで人の声がした。
「やぁ、どうも」
振り向くと、鳶色の髪の男が飛行魔術でフレデリクの近くに浮いていた。
管理室の魔術師、ウィンストン・バレットだ。
バレットは〈楔の塔〉に来てから日が浅い魔術師で、フレデリクと交流が深いわけではない。こうして飛行魔術で空を飛んでいる時に、挨拶を交わす程度の関係だ。
「おはようございます」
フワフワと風に流されながら、のんびりと言葉を返すフレデリクに、バレットは感心した様子で言う。
「上手いもんだ。脱力。案外、そういう飛び方をできる人は少ない」
「槍を振るのに必要ですから」
全身の筋肉をガチガチに強張らせて槍を振り下ろしても、威力はでない。
槍を振るのに必要のない部分を脱力する。その技術を極めて飛行魔術と併用すれば、地上戦ではできない動きが可能となる。
しなやかな動きと俊敏さの使い分けこそ、ランゲ一族の槍の特徴なのだ。
ひたすら高く飛んで真下に槍を振り下ろすだけのオリヴァーは論外である。ランゲを名乗るのをやめて、遠い地で他人として生きてほしい。
「空の散歩なんてしてて良いのかい。今日は、見習いの子達と魔法戦なんだろう?」
バレットの言葉にふと思い出す。
そういえば、あの小さなライバルさん──ティア・フォーゲルは、バレットの所属する管理室に出入りして、飛行用魔導具の練習をしているのだ。
ティアにとって、バレットは飛行魔術の師匠のようなものなのかもしれない。
そんなことをボンヤリ考えていると、バレットが少しだけ困ったような顔で、風に揺れる鳶色の髪をかきあげた。
「魔力を温存しなくて良いのかい? 飛行魔術は割と消耗がデカいだろ」
「多少魔力が減っていたところで、負けたりしませんよ」
「若い子は、ライバルさんに勝ちたいって必死なんだ。あまり手を抜かないでやってくれ」
フレデリクは少し反省した。
彼は大体寝不足だし、食事もしょっちゅう抜くし、飛行魔術でフワフワしているから、魔力量は常に六、七分目程度だ。
それが当たり前だったから、今朝も気にせず飛行魔術で散歩をしていたが、小さなライバルさんに対して、些か不誠実だったかもしれない。
……勿論、寝不足だろうが、食事を抜いていようが、魔力が減っていようが、負ける気はないのだけど。
「そうですね。そろそろ討伐室に戻ります」
それでは、と短く告げて背を向けるフレデリクに、バレットは言う。
「あのおチビさん、風を読む才能だけなら、あんた以上だよ」
ふと、あの少女の声が頭に蘇った。
『わたし、今はまだ上手に飛べないけど……すぐに、フレデリクさんより上手に飛ぶよ。きっと飛ぶ』
なんだか不思議と心がフワフワする心地で、フレデリクは小さく笑った。
「それは、楽しみだ」
* * *
フレデリクが討伐室に戻ると、既にリカルドとヘレナが着席していた。
部屋の奥では金髪の大柄な男──討伐室室長ハイドンが、やけにソワソワしている。
フレデリクは槍を壁に立てかけ、ハイドンを見た。
「どうして室長がソワソワするんです。魔法戦をするのは僕達なのに」
自分達が負けるとでも思っているのだろうか。
見習い魔術師と、討伐室の精鋭の実力差が分からぬハイドンでもないだろうに。
ふと、フレデリクは小耳に挟んだ話を思い出した。今日の魔法戦は見物客が多いのだ。
「もしかして、メビウス首座塔主がお見えになるから、緊張を?」
「いや、リーゼと会うのが久しぶりだから、少し緊張してな」
「…………」
指導室のレームことアンネリーゼ・レームは、討伐室時代はハイドンと並ぶ優秀な魔術師だった。
ハイドンとレームは長年のライバルであり、共に切磋琢磨した仲間でもあるのだ。
そしてハイドンがレームに想いを寄せていることは、周囲には割とバレバレの事実であった。
噂話に疎いフレデリクでも知っている。あまり興味はないが。
「普通に話しかければいいじゃないですか」
フレデリクがそう呟くと、ハイドンは精悍な顔に苦悶の表情を浮かべ、組んだ手を上げたり下ろしたりした。
「そりゃ、ライバルだった頃はそうしてたさ。泊まり込みで作戦会議もしたし、待ち合わせなんてしなくても、当たり前に顔を合わせて訓練してた。でも、今のあいつは魔力器官が損傷しているから訓練には誘えないし……」
早口の言葉はどんどん尻すぼみになっていく。
ハイドンはいつも堂々としていて、魔物の群れと遭遇しても怯まない勇敢な戦士だ。
そんな男が、レームが絡むとこれである。
「今では所属塔が違うから、飯に誘うのだって一苦労だ。誘ったら誘ったで、『じゃあ、ヘーゲリヒ室長に声をかけておくわね』とか言うんだぞ、あいつは」
食事に誘われたレームは、それが食事という名の打ち合わせであると考えたらしい。
かつてのライバルと言えど、今のハイドンは出世をして討伐室の室長、レームは指導員の一魔術師でしかない。
だから、レームは己の上司であるヘーゲリヒに声をかけ、討伐室と指導室とで出席者の格を揃えようと考えたのだろう。
(或いは……)
チラリとよぎった考えを、これは別に言わなくていいか。と飲み込む。
フレデリクは他人の事情に興味がないし、首を突っ込む気もないのだ。
ハイドンは深々とため息をついてボヤく。
「せめて塔が同じなら、一緒に飯が食えるんだがなぁ……」
〈楔の塔〉は三つの塔に分かれていて、それぞれの塔に食堂があるのだ。
なので所属塔が違うと、一緒に食事をする機会は殆どないと言っていい。
その時、黙って話を聞いていたヘレナがボソリと呟いた。
「そういえば、レーム様は、ベル室長とよくお茶をしていらっしゃいますね……女性宿舎でも、よく一緒にいるところを見かけます」
「羨ましい!!」
ハイドンが自分の腿を拳でドンと叩いた。