【10】夜闇に紛れ、駆けるもの
崖を下る道は、上るよりも疲れる。太ももとふくらはぎがパンパンになっているのを感じながら、レンは黙々と足を動かした。
ティアもセビルも無言だ。
合格証でもある〈楔の証〉を手に入れた帰路だというのに、全員どことなく硬い顔をしているのは、あの異形の大蛇と、リンケ室長の言葉が頭から離れないからだろう。
──魔物はいますよ。今も、まだ。
──そのことを理解してもらうための、試験です。
(どういう意味だろ、あれ……)
魔物。それは旧時代に絶滅したと言われる存在だ。
人に近い姿をして人に近づき、魂を抜いたり、心を操ったり。あるいは、人の生き血を啜ったり、人肉を食らったり。そういう存在を昔は魔族とか悪魔などと呼んだりしたらしい。
中には魔獣と呼ばれる、獣に近い姿をしているものもいる。それら全てをひっくるめて、魔物と呼ぶのだ。
魔物が登場する物語を、レンは幼い頃、母親に読んでもらったことがある。
その手の本は大抵挿絵が不気味で、夜のトイレが恐ろしくなったものだ。そういう時、母は笑いながら、レンを宥めた。
──大丈夫よ、レン。今はもう、魔物なんていないから。
人間の方がよっぽど怖いでしょ。という母の言葉の重みを、レンは何度も噛み締めたものだ。
現代では魔法生物と言えば、竜と精霊が一般的だ。それでも上位種の竜は滅多に見かけるものではないし、精霊は年々数を減らしている。世界から魔力が失われつつあるのが原因だ。
(精霊ですら数を減らしてる現代で、魔物なんて本当にいるのか? いるとしたら、相当魔力濃度の濃い土地でないと……)
「レン、そこ滑りやすくて危ないよ」
不意に声をかけられ、レンはハッと我に返った。
レンの前を行くティアが、足を止めてレンを見ている。先頭のセビルも足を止め、手にしたランタンを掲げた。
「そろそろ暗くなってきたな。丁度良い、この辺りで今夜は休もう」
レン達が今いるのは、崖の丁度中間ぐらいの高さだ。完全に下りきることはできなかったが、それでも半分進めただけ上等だ。これなら、明日の朝早めに出発すれば、正午にはスタート地点に戻れるだろう。
少しひらけた場所で、レンは足を伸ばして座り込んだ。
「あー……疲れたぁぁぁ……オレ、このまま寝ていい?」
「少しで良いから、何か腹に入れておけ。今、湯を沸かす」
三人の中で一番野営の準備が上手いのが、セビルだった。今も道中拾った枝を組んで、火を起こす準備をしている。
ティアはその様子を物珍しげに見ていた。
(変わってるよなぁ、こいつら)
セビルは多分、騎士なのだろう。立ち居振る舞いに品があるから、もしかしたら実家は爵位持ちなのかもしれない。セビルという名前は中央らしくないから、多分南方の出身だ。
ティアはよく分からない。一見普通の少女だけど、何かがズレている。
(世間知らずっていうか、感性が独特っていうか……)
その独特の感性を持つ少女は、能天気にピヨッピヨッと鼻歌を歌っていたが、突然目を大きく見開いて、シュゥッと喉を鳴らした。野生の動物が敵を威嚇するのに似た声だ。
ティアが押し殺した声で呻く。
「何かいる……近づいてくる……下から」
その時、風に乗って嫌なにおいが漂ってきた。
獣のにおい。そして、血のにおいだ。
セビルが剣の柄に手を伸ばす。疲れて足を投げ出していたレンも、咄嗟に足を引き寄せ、すぐに立ち上がれる姿勢をとった。
──ルルォォオオオオオオオオオン!
それは、狼の鳴き声に似ていた。仲間と連絡を取り合うための鳴き声じゃない。獲物を萎縮させるための、威嚇の鳴き声だ。
夜闇の中、黒い毛並みの何かが近づいてくる。セビルの手元にあるランタンに照らされるそのシルエットは、成人男性より二回りは大きい、毛むくじゃらの生き物だった。
その耳はピンと尖っていて、狼のそれに似ている。
二足歩行の狼。レンはそれを本で目にしたことがある。
(人狼……!)
物語の中に登場する人狼は非常に凶暴かつ残忍で、人間の戦士達をその爪と牙で屠ることを至上の喜びとしている──とされていた。
鋭い爪は人の肉を斬り裂き、太い牙は骨すら容易く噛み砕くという。
(こいつも、〈楔の塔〉が仕掛けた試練……?)
先ほどのリンケ室長が、本に封じた魔物をけしかけたように、この人狼も試練なのだろうか? ……なんとなく、違う気がした。
この魔物からは、羽の生えた大蛇と相対した時よりも、ねっとりと濃厚な悪意を感じる。
セビルが剣の柄に手をかけた。
「止まれ。それ以上近づいたら斬る」
人狼が足を止めた──と思った瞬間、それは黒い砲弾のような勢いで突進してきた。
人狼が突進の勢いを殺さず、セビルに爪を振り下ろす。
セビルはそれを剣で受け止めたが、勢いに押されて吹き飛ばされた。決して小柄ではないセビルの体が軽々と吹き飛び、後方にいるレンを巻き込む。
セビルがこちらに吹き飛ばされた時、レンは咄嗟に考えた。
自分が間に入れば、セビルが岩壁に衝突するのは避けられる。絶対痛いだろうけれど、この中で唯一戦えるセビルが戦闘不能になるよりはマシだ、と。
だが、現実はレンの想像を遥かに容易く上回る。
想像以上の勢いで吹き飛ばされてきたセビルと岩壁に潰され、レンの意識は一瞬で吹き飛んだ。
* * *
「セビル! レン!」
咄嗟にティアは声を上げたが、返事はなかった。
岩壁に叩きつけられたセビルも、その間に挟まったレンも、ぐったりとして動かない。
レンの金髪に血の赤が見えた。
剣を握るセビルの手首が、赤黒く腫れていた。
「ルルァァアア……」
漆黒の人狼が大きく口を開けた。その口から見える太い牙は、唾液で濡れてテラテラと輝いている。
ガブリと噛みつけば、人の肉など容易く食いちぎれる。
人狼が動くより早く、ティアはセビルとレンの前に立った。
人狼が大きな口を開けてティアにかぶりつこうとする。
(この人狼……左上の牙が、欠けている)
ならば、とティアは人狼の口に、己の右手を突っ込んだ。丁度、欠けている左の牙の辺りにだ。
「ふんっ!」
そのまま喉を突いてやりたかったが、ティアの手が短くて届かない。
人狼が太い爪でティアの喉を狙う。ならばとティアは人狼の舌に思いっきり爪を立てた。
流石に驚いたのか、人狼は後ろに飛びすさる。
(……人狼は、強い人間に勝ちたがる)
だから、倒れた敗者にトドメを刺すことこそあれど、まだ動いている戦士がいたら、そちらを優先する。
ティアは気絶しているセビルの手から曲刀を抜き取り、両手で持ち上げた。
重い。セビルは片手で軽々と振り回していたけれど、曲刀は見た目よりずっと重かった。
真っ直ぐに構えるには、意外に手首の力を使う。ティアは腕の力は強いけれど、手首から先はそんなに力が強くないのだ。
ティアはブレる切先を人狼に向けて、叫んだ。
「わたしは戦士だぞー! えっと……かかってこーい!」
人狼が、喉から吐息を吐くみたいな声を漏らした。失笑のように。
相手にする価値もない、とその灰色の目が言っている。
(だったら……)
ティアは斜めがけの鞄を、腹の辺りにずらした。申し訳程度だが、腹を守る鎧になると思ったのだ。
そうしてズリズリとすり足で、ゆっくりと移動しながら歌を歌う。
帝国でよく聞く、素朴な童謡を。
「『間抜けなダニエル、靴をなくした。ワンワン泣いて可哀想』」
人狼は見向きもしない。
コロコロと転がるような軽快なメロディで、ティアは二番を替え歌に仕立て上げる。
「『間抜けな狼、牙をなくした。ワンワン鳴いて可哀想!』」
その時、殺意が膨れ上がった。
牙を一本失っている人狼にとって、ティアの歌は許し難い侮辱だったのだろう。
人狼が凄まじい速さでティアに迫り、太く鋭い爪を振り下ろした。
ティアはセビルの曲刀で爪を受ける。凄まじい力に手首が軋んだ。ティアの手から曲刀がすっぽ抜けて、崖の下に落ちていく。
「ぎゃんっ」
勢いに押されたティアは後ろに吹き飛び、そのままコロコロと坂を転がり落ちていった──そうなるように考えて、移動した。
(距離が稼げたっ)
転がり落ちた末に、大きな岩に全身をぶつけたが、構わなかった。ティアは頑丈なのだ。
「ふんっ」
ティアは勢いをつけて体を起こすと、鞄に手を突っ込み、ガラスの小瓶を取り出す。
小瓶の中で、薄紅色の飴がカラリと音を立てた。