特別
あの子は、学校の裏の沼に住んでいるらしい。
こんな奇妙な話を聞いたのは、夏休みを目前に控えた七月のことだった。
教室で向かい合って弁当を食べていた美咲が、噂話を教えてくれたのだ。
「百子に面白いこと教えてあげる」
いたずらな笑みを浮かべた美咲は、ずいっと百子の方に身を乗り出すと、口の横に手を当て、いかにも内緒話をする格好で耳打ちしてきた。突拍子のない内容に、百子は思わず弁当を食べる箸を止めて聞き返した。
「あの子って?」
今まさにナゲットを食べようと大きく開いた口を惜しむように閉じ、百子は訝しげに問いかけた。
「ほら、あの子よ」
美咲は名前は言わず、百子の視線を誘導するように、自分の顎をしゃくった。百子がその先に視線を投げると、窓際で一人読書にふける女生徒が見えた。
厚い眼鏡をかけ、手入れの行き届いていない髪は顔を覆う程に長く、ほとんどうつ向くような姿勢で本に目を落とす姿は、どこか異様な雰囲気を放っている。時折怯えたように小さく体を震わせ、周りをキョロキョロと確認する姿が、よりその異様さに拍車をかけていた。
「穂波さんが?なんでよ」
再び視線を戻した百子に、美咲は悪戯な笑みを浮かべると、持っていた箸を空中で躍らせながら説明しだした。
「部活で遅くまで残ってた子が、学校裏の沼に腰まで入ってる穂波さんを見たんだってさ!」
「ふぅん」
得意そうに話す美咲の話を、あきれた様子で百子は聞いていた。
インパクトのある噂話だったが、興奮気味な様子の美咲とは対照的に、百子はあまり興味をそそられなかった。あんな汚い沼に入るなんて、ましてや住んでいるなんて。常識的に考えてありえないことだ。きっと、よくあるオブラートに包んだいじめのような噂話の類なのだろうと、百子は鼻を鳴らした。
穂波は少し変わった所があるので、きっとからかわれているのだ。
そもそも学校裏の沼とは、体育館裏にある、人工的に作られた小さく浅い池のことだ。昔はそこで鯉を飼っていたらしいのだが、今では見る影もない程に厚いヘドロに侵されている。その上池の周辺は日当たりが悪く、晴れた昼間でも大変に暗い。
自然と人が寄り付かないことから、その周辺は学校で飼育しているウサギやチャボの墓地にもなっている始末だ。畏怖を込めて、生徒はみな「学校の裏の沼」と呼んでいる。
「百子覚えてない? 穂波さんってさ、二年の一学期は普通だったじゃない」
相変わらず箸を躍らせながら話す美咲の話を聞きながら、百子は昨年のことを思い返していた。
そうだ。昨年初めて同じクラスになった穂波は、確かに普通だった。静かな女の子というのがぴったりな、普通のクラスメイトだった。
特定の誰かと一緒にいるというよりは、一人で席に座り、よく本を読んでいたのを覚えている。人と接するのが苦手なのかというとそういう訳でもないようで、美咲を含むクラスメイトと、楽しそうに会話する姿は何度も目にしたことがある。
もちろん、百子も何度か話したことがあった。手入れされた長い栗毛を耳にかけながら、人懐こい笑顔ではにかむ穂波を思い浮かべ、百子は小さく「うん」とだけ答えた。
彼女が今のようになってしまったのは、本当に突然の事だった。夏休みが明けて一週間程した頃、彼女は突然おかしくなってしまったのだ。
その日は、朝から土砂降りの雨が降っていた。
まだ夏休みが明けたばかりの気怠さの残る体を机に預け、百子は暗い中庭を窓越しにぼんやりと眺めていた。朝だというのに、外は夕方のように薄暗い。窓ガラスには教室の明かりが反射して、殆ど教室の中が鏡のように見えていた。
しばらくぼんやりと窓を眺めていると、突然教室中の空気がざわりと揺れた。百子は驚いて原因を探ろうとしたが、その必要はなかった。
見えたからだ。
教室の中が反射した窓に、ボサボサの長い髪をした女生徒が、ぼんやりと立っているのを。
一瞬、幽霊を見たのかと思い、百子は息を飲んだ。それ程までに、異常な光景だった。
「ほ、穂波ちゃん?」
誰かの小さな声で、教室中に一気に動揺が走った。
「穂波さん?」
「どうした、大丈夫か穂波」
「どうしたの?どこか痛いの?」
先程まで数歩離れて様子を伺っていたクラスメイト達が、わっと彼女に駆け寄って口々に声をかけ、肩を揺さぶったり手を握って彼女の安否を確認した。
教室は軽いパニック状態になっていた。
ここに来てようやく、百子は教室の方へと向き直った。そこには、人だかりの中で、穂波のような人が、されるがままにフラフラと動いているのが見えた。酷く猫背気味に俯いており、痛んで膨れ上がった髪が、重そうに顔の横で揺れている。その際、ちらりと見えた穂波の顔には、彼女がしていなかったはずの眼鏡が光って見えた。牛乳瓶の底という例えがまさにぴったりな厚いレンズが、異様な存在感を放っていた。
しばらくはみんな穂波を心配し、頻繁に話しかけたり、一緒に行動したりとしていたのだが、穂波の一向に改善しない挙動不審な様子や独り言、何を言っても一切反応を返さない態度に、取り巻きは一人、また一人と、日に日に姿を消していき、今では一人もいなくなってしまった。
百子は他のクラスメイトのように、彼女に駆け寄ることも、世話を焼くことも出来なかった。特別仲が良かったわけではないというのもあるのだが、なんだか、近づいたら引っ張られてしまいそうな、漠然とした不安感を感じてしまったからだ。
「一体どうしたんだろうね。家で何かあったのかな」
相変らずの調子で噂話を楽しむ美咲に反して、百子は弁当を無意味につつきながら、身を固めていた。すっかりと忘れていたあの言い知れぬ不安感を思い出し、思わずぶるりと体が震えてしまった。
期末テストが無事に終わり、夏休みが始まった。
やっと休みに入ったと喜ぶ暇もなく、夏休みに入って一週間もしないうちに、制服に身を包んだ百子は学校への道を歩いていた。
今年受験生である百子は、早々に家での勉強に限界を感じてしまっていた。
家には誘惑が多すぎる。
幸いにも、学校が夏休みの期間中、図書館や自習室を開放していたため、百子は急いで準備をして、家を飛び出してきたのだ。
時刻は午後二時。一日で一番気温が高くなる時間だ。ジワジワと忙しなく鳴く蝉の声が、ねちっこい暑さに拍車をかけている。陽子は頬に流れる汗を手の甲で拭いながら、目の前を続くアスファルトをにらみ続けていた。歩くたびに、日差しの照り返しが目をギラギラと刺激する。目を細めてなんとかやり過ごしながら、百子は学校までの道を急いだ。
自習室を覗くと、席は満席になっていた。仕方なく図書室へ行き、大机の空いた席に滑り込むと、周りの生徒と同様に、静かに勉強に没頭していった。
どれくらい時間が経っただろうか。
小さな物音が気になって、百子は視線を上げた。目の前には、木製書架がこちらに側板を向けてずらりと並んでいる。
いつの間にか、随分と陽が傾いた図書室内は、もう殆ど人は残っていなかった。窓から差し込む夕日が、帯状になって室内を茜色に染め上げている。それに伴って、書架や机の影は濃く、黒く長く伸びていた。百子は閑散とした図書室の中をぐるりと確認してみたものの、音の鳴りそうなものは見当たらず、小首を傾げた。
しかし、音は確かに聞こえ続けているのだ。何かが擦れるような、小さな音だ。人気の少ない図書室で、その音は不気味な色味を持って百子の耳に届いた。
しばらく耳を澄ませて注意深く周りを見ていると、どうやら、音は目の前の書架の方から聞こえてくるようだと気が付いた。
百子は不安と好奇心に胸をドキドキとさせながらも、音の正体が気になって、目の前の書架を睨みつけるように注意深く見た。徐々に闇に慣れてきた目で音の正体を確認し、陽子は思わず息を飲んだ。
そこにいたのは、穂波だった。
穂波は、書架と書架の間の闇の中で、何をするでもなく立っていた。時折何かに怯えたように体を震わせ、周りをキョロキョロと確認しており、その度に膨れ上がった髪が書架を掠め、小さな音を立てていた。
しばらくの間、百子は驚きで動くことが出来なかった。一定のリズムで同じ動きを繰り返す穂波に恐怖を感じ、目を離すことが出来ない。
やけに大きく聞こえる自分の心臓の音を聞きながら、ただただ見つめ続けていた。認識したことで、先程よりも音が大きく聞こえるように感じる。
カサカサ、カサカサ、カサカサ。
「もう閉めますよ」
ハッとして百子が振り向くと、朗らかな笑顔の司書の女性と目が合った。
すっかりと日は暮れてしまっており、まばらだった図書室内には、もう百子一人しか残っていなかった。慌てて書架の方へと目を向けるが、そこに穂波の姿はなかった。
「勉強熱心ですねぇ」と笑う司書に愛想笑いを返すと、百子は急いで勉強道具をカバンに仕舞い込み、図書室を飛び出した。
すっかり暗くなった道を、百子は走った。先程の穂波に感じた恐怖を振り切るように、全力でだ。
穂波はあそこで何をしていたのだろう。いつから居たのだろう。どこに行ってしまったのだろう。答えの出ない問いを何度も頭の中で繰り返す。
息が切れて足が重くなるが、背中からじわじわと忍び寄る恐怖から逃げるように、懸命に走り続けた。
家に辿り着くと、百子は急いでカギをかけ、玄関に座り込んだ。ゼコゼコと聞いたこともない音を喉で鳴らしながら、空気を求めて懸命に喘いだ。
「おかえり。今日はハンバーグよ!」
場違いな程に穏やかな顔と声で現れた母親の顔が、玄関に座り込む百子を捉えるや否や一瞬で強張った。ものすごい勢いで百子の側まで移動すると、強い力で抱きしめた。
「どうしたの?大丈夫?警察?警察に連絡しようか?」
早口でまくし立てる母親の声に、百子はあっけにとられた。そしてすぐに、安堵と共に腹の底から笑いがこみ上げてきた。
一転して肩を震わせて笑い出した百子に、母親は余計に心配になった様子で、百子の肩を揺さぶりながら、もう一度同じことを繰り返した。
「違うの。大丈夫よ、お母さん」
百子は何とかそれだけを言うと、しばらくの間、母親の腕の中で笑い続けた。
先程まで、自分はなんであんなに怖がっていたのだろう。図書室へ行ったら、個性的な行動をとっている同級生がいて、自分が気が付かないうちに帰って居なくなっていた。それだけではないか。
安心した気持ちと、こんなことに怖がっていた自分の滑稽さが、百子は可笑しくて仕方なかった。
あれから一週間が経ったが、その間も百子は学校の図書室へと通っていた。幾度となく通ううちに、あの時の言い知れぬ恐怖はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
むしろ、百子はあえて自習室は確認せず、図書室へとまっすぐに行くと、あの、初めて穂波を見つけた書架の前の席に陣取って、勉強をするようになっていた。
一種の吊り橋効果だろうか。すっかりと恐怖が好奇心に塗り変えられてしまった百子は、穂波が今日も図書室にいるかどうか、確認するのが日課となっていた。
図書室内が茜色に染まり出した頃。お馴染みの物音に気が付いて、百子は視線を上げた。穂波の髪が、書架に掠める音だ。
「・・・ひっ」
瞬間、百子は息を飲んだ。穂波が、長机を挟んだすぐそこに立っていたのだ。酷い猫背気味のために顔の横から垂れた髪が、書架ではなく、百子の使用している机の端を掠めていた。
しばらく、百子は息をするのも忘れて、穂波を見ていた。髪が掠める音が、近く、大きく聞こえる。
「・・・るの?」
小さな、掠れたような声が聞こえた気がした。
「え?」
思わず、間抜けな声が出た。厚く覆われた髪からは時折眼鏡の厚いレンズが覗くのみで、穂波の表情は全く伺えない。
「・・・あなたも・・・聞こえるの?」
か細い、消え入りそうな声で、確かに穂波はこう言った。
百子は、驚きで思考の鈍った頭で、聞こえた言葉を何度も反芻したが、全く意味が分からなかった。
何が、聞こえるというのだろう。
百子が何も答えられないでいると、穂波は残念そうにも、ただ興味を失ったようにも見える緩慢な動作で、ゆっくりとこちらに背を向けるように動き出した。
穂波が、行ってしまう。
これを逃したら、もう穂波と直接話すことなどないかもしれない。これは、チャンスだ。そんな自分勝手な欲望に突き動かされ、百子は乾いた唇を舐めると、なんとか口を動かした。
「き・・・聞こえる、よ」
もちろん嘘だ。しかも、これはただの嘘ではなく、百子の醜いエゴでもある。
百子は、嘘をついてでも穂波と距離を詰め、自分の好奇心を満たしたいと思ってしまったのだ。
「・・・本当?」
ほぼ背中を向けるようにして立っている穂波から、またか細い声がした。
「う・・・ん」
百子が曖昧に返事をするや否や、穂波は今まで見せたことのない速さで百子の方へと向き直ると、長机によじ登り、四つん這いで百子の方へと迫ってきた。
「本当に本当に本当に?」
何度も同じ言葉を繰り返しながら、穂波は手足をバタバタと動かして、真っすぐに進んでくる。
百子は、動けなかった。ただ座って、迫ってくる穂波を見つめることしかできない。
厚く広がった髪を左右に振り乱し、厚いレンズの眼鏡越しにこちらを一心に見つめながら、四つん這いで迫りくる穂波は、もう百子の知っている穂波ではなかった。
軽率に嘘をついた事を、百子は早くも後悔していた。鬼気迫る穂波の様子に、百子は真剣に死を覚悟して、祈るように体の前で手を握ると、目を強くつぶった。
しばらくしても何も起きず、百子は戸惑った。
先程の穂波が脳裏に焼き付いており、どうしても目を開けることが出来ない。しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。
ふいに体の前で握っていた手に、誰かの手が重なった感触がした。
驚いた百子は、弾かれたように目を開け、そして見た。机の上に座り込んだ穂波が、百子の両手に自分の両手を包むように重ねていた。
先程の激しい動きで厚いレンズの眼鏡はズレており、久しぶりに見た穂波の目は、心底嬉しそうに弧を描いていた。
まるで、二年生の頃に見た、愛らしくはにかむ穂波のようだった。窓から差し込んだ夕日が、上気した穂波の顔を、さらに赤く染め上げている。
これは、私しか知らない穂波さんだ。
穂波の様子がおかしくなってから、奇行を繰り返す穂波しか、みんなは知らないのだ。こんな、以前と変わらない、むしろそれ以上の笑顔で微笑む穂波を見ているのは、自分だけだ。
今、自分だけが、特別なのだ。
そう思った瞬間、百子は何とも言えない高揚感に包まれた。それと同時に、満たされていく好奇心の心地よさに酔いしれた。
一緒に探してほしいのだと、穂波は言った。百子が「何を」と聞く前に、穂波はゆっくりと長机から降りると、百子の手を引いて歩き出した。
ぐいぐいと力強く引っ張る穂波は、相変わらず酷い猫背気味である事を除けば、先程までの挙動不審な様子は一切感じられない。最初に穂波が居た、書架と書架の間の暗闇に百子を引っ張り込むと、百子を奥に押しやりながら、指をさした。
指の先には、暗がりの中、何色なのか分からなくなったカーテンがかかった窓があった。穂波は、さした指で厚いカーテンを少しだけ開けた。そしてもう一度小さな声で、一緒に探してほしいと百子に言った。
図書室の窓からは、学校の裏の沼がよく見えた。
下校時間を告げるチャイムが鳴って、じっと外を見ていた百子は、はっと我に返った。
図書室を閉めるためにやって来た司書の女性に促され、穂波と百子は廊下へと出た。
靴箱へと向かう階段を下りていく最中も、穂波はずっと百子の手を握ったままだ。
先程よりも幾分背筋を伸ばし、挙動不審な態度も取らずに、百子の腕を引いて歩いている。
「穂波さん、ビクビクしてない」
心で思った事が、無意識に口から出てきて、百子は慌てて訂正した。
「違うの、悪い意味じゃなくって、良い意味っていうか、ちょっと雰囲気が変わったかなーっていうかさ・・・」
早口で言い訳をする百子に背を向けたまま、穂波がふふっと笑ったのが聞こえた。
「だってさ」
穂波は足を止めると、くるりと百子の方を振り向いた。背が小さい穂波を一段高い所から見下ろす形になった百子は、厚いレンズの内側の、少し上目遣いになった目と目が合った。
「桜木さんと、一緒だから」
怖くない、と、小さな声で穂波は言った。百子はドキリとした。本当に穂波の特別になった気がして、無性に胸が高鳴った。
「一緒だよ、一緒に探すから!大丈夫だからね!」
穂波と繋いだ手をブンブンと振りながら、百子は前のめりになって言った。それに対して控えめに肩を揺らして笑う穂波に、百子はまた心が満たされるのを感じた。
私が、あのみんなに遠巻きにされていた穂波を正気に戻したのだ。私が、彼女を支えていかなければならないのだ。穂波にも、私が必要なのだ、と。
元々たいして仲良くもなく、様子が変わってからは世話を焼くことなく、関わらないようにしていたくせに。
自分の力で彼女を真っ当にしたのだと、この時百子は本気で思い、誇りにさえ思っていた。それと同時に、友情や純粋な優しさに加え、独善的で利己的な思いが入り混じった、どす黒い感情が芽生え始めたことも、百子は確かに自覚していた。
それから、穂波と百子は、毎日のように学校で会うようになった。日中は変わらず図書室へ行き、百子は勉強を、穂波は窓から学校の裏の沼を眺めている。
一度、百子は一緒に勉強しようと誘ったのだが、穂波は頑なに断った。「見てないと。誰かに取られちゃったら困るから」と。
その時、表情が一瞬で、以前の何を考えているのか分からない穂波になったのを見て、百子は早々に話を切り上げた。
穂波はすぐにはにかんだ笑顔に戻り、「ごめんね」と謝罪してきたが、百子はあの生気が抜け落ちた表情でフラフラと揺れる穂波の顔が忘れられず、それ以降穂波を勉強に誘うことはなかった。
見慣れていたはずなのに、以前より感情が豊かになった分、振り幅があるとでもいうのだろうか。どうにも怖くて仕方なかったのだ。
図書室が閉まる時間になると、二人で廊下へと飛び出し、学校の裏の沼へと駆けて行った。そこで毎日、2人で穂波の探し物をしていたのだ。
躊躇なく沼に腰まで入り、沼の底を素手でさらう穂波は、最初こそ驚いて引き留めたが、今ではもう見慣れた光景だった。
まじまじと見ながら、噂は本当だったのだなぁと、百子はぼんやりと思っていた。
流石に沼に入る勇気のない百子は、沼の周りに転がる小石をひっくり返したり、草をかき分けて、懸命に探している「フリ」に徹した。
だって、未だに穂波が何を探しているのか、百子は知らなかったからだ。
穂波に聞いても、またそんな冗談言って、と笑われる始末だ。「桜木さんも、聞こえるんだから分ってるでしょう?」と。
彼女への好奇心を満たすために、自分で付いた嘘だ。今更正直に言って、せっかく築いたこの関係を壊すことが、今の百子にとっては何より恐ろしかった。その為、百子は今日も、せっせと探すフリに勤しんだ。
穂波と初めて探し物をしだしてから、早くも数週間が経っていた。
図書室で勉強をして、夕方は穂波と学校裏の沼で過ごす。
新学期まであと一週間と迫った今日まで、ほぼ毎日このルーティンをこなしていた。代わり映えのない繰り返しの毎日だったが、百子は飽きることなく、むしろこの日々に満足していた。
百子にとって、穂波の探し物などどうでもよく、むしろ見つからなければいいとさえ思っていた。
探し物が見つからなければ、これからもずっと穂波と時間を共有できるのだ。
彼女の特別として。
そんな歪んだ悦に浸りながら、百子は今日も探すフリをし、頃合いを見て、いつものように穂波に声をかけた。
「ないねぇ。穂波さん、今日はもう・・・」
帰ろっか。そう言おうとして、百子は言葉を飲み込んだ。
穂波が、泥まみれの手のひらを、恍惚の表情で見つめていたのだ。
「あった、あったよぉ」
穂波は心底嬉しそうに、汚れるのも構わずに手のひらの中の物に頬ずりをし、全身で喜びをあらわにしている。
沼の中で踊るようにクルクルと回る穂波は、初めて図書館で話した時と同様、深く茂った木々の間から差し込む茜色の夕日を浴びて、とても美しく見えた。
髪や顔、制服にまで付いた汚泥でさえ、夕日を受けてキラキラと光り、穂波の美しさに拍車をかけていた。
百子は、穂波を振り返ったままの姿勢で動けないでいた。穂波に釘付けになり、目が離せなくなっていたのだ。
なんて美しいのだろう。この子の特別である、私だけの穂波さんだ。
ジワジワと心が熱くなり、興奮しているのが自分でも分かった。正直、穂波が見つけた探し物の正体など、百子はどうでも良かった。ただ、この美しく魅惑的な穂波と喜びを共有し、この二人だけの世界をもっと深く味わいたかった。
「穂波さん!」
ようやく体が動いた百子は、躊躇うことなく沼に入ると、穂波のすぐ側まで歩み寄った。
「良かった、もう見つからないかと思った、ごめんなさい、ごめんなさい」
「良いんだよ。見つかって良かった」
相変わらず泥まみれの手のひらに頬ずりをしながら泣き出した穂波を、百子は力強く抱きしめた。腕の中で小刻みに震える温かなぬくもりを感じ、百子は愛おしくなってその背中を優しく撫でた。
「穂波さん。ほら、もう帰ろう?」
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
しゃっくりを上げて、穂波は謝罪を続ける。
「もういいってば。もう上がらなきゃ風邪引いちゃう・・・」
「ごめんなさい、先輩」
急に、頭を殴られたような衝撃が走った。
「え・・・?」
「ごめんなさい先輩、ずっと一人にして。ごめんなさい」
「ねぇ、穂波さん?」
「ごめんなさい、痛かったですよね、先輩ごめんなさい」
「ねぇ!穂波さんってば!」
「ずっと謝りたかったんです、先輩」
全く話が通じず、百子は狼狽えた。穂波は一体何を言っているのだろう。先輩とは誰なのだ。あんなに愛おしそうにして。
特別は、私のはずなのに。
一歩、二歩と穂波から離れた。その間も、穂波は手のひらの中の「何か」に嬉しそうに話し続けている。先程までとは比べ物にならないような大きな声で、目を見開いて、心底幸せそうに。
「ごめんなさいごめんなさい先輩!一人にしてごめんなさい!」
突然、百子は自分の視界が揺らいだ気がした。
それと同時に、目の前の世界から、興味や興奮、美しさなどが一瞬で消え去ってしまった。まるで、美しく煌めいて見えるフィルターを、誰かに取られてしまったような気分だ。
目の前には、ボサボサ髪で酷く猫背気味の少女が、腰まで沼に浸かって何かを叫んでいる。全身泥塗れである事には嫌悪感さえ感じ、自分も同じ沼に腰まで浸かっていることに、全身に怖気が走った。
しかしそれ以上に、百子の心を占めていたのは、目の前の少女に対する憎悪だった。
自分以外の誰かが彼女の特別だなんて、許せなかった。
百子は沼の中から腕を伸ばし、辺りに転がっていた拳大程の石を引き寄せると、両手で抱え、勢いよく振り上げた。
この両手をどうしたのか、百子は覚えていない。
新学期が始まって、一週間が経った頃、百子はようやく学校に登校した。
長い間休んでいた百子を心配して、美咲やクラスメイトが出迎えてくれたが、百子の姿に皆一様に息を飲んだ。
膨らんだボサボサの髪に、酷い猫背気味の姿勢。今までかけていなかった分厚いレンズの眼鏡をかけ、時折何かに怯えたように体を震わせ、周りをキョロキョロと確認するような、挙動不審な態度。
まるで、穂波だ。
全員がそう思ったが、口には出さなかった。
穂波は、新学期になってまだ一度も登校していなかったのだ。穂波が来なくなって、次は百子がああなった。クラスメイトは皆様々な噂話をし、百子を遠巻きに見るようになった。
ピチャン。ポチャン。
ビクリと体を震わせて、百子はキョロキョロと周りを確認した。
何もない。
百子は背中を丸めるようにして前屈みになり、膨らんだ髪で顔を覆うと、度の合っていないレンズを一心に見つめた。
穂波を、見てしまわないように。
穂波と最後に会った日。百子は気が付いたら自分の部屋の床に座り込んでいた。どうやって帰って来たのかは全く覚えていない。
しかしその日から、百子は常に沼の泥が跳ねる音が聞こえ、穂波の姿が視界を掠めるようになった。
沼から、穂波が呼んでいるのだ。探さないと。探して、謝らないと。
誰かに見つからないうちに。
私の、特別なあの子を。