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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十章 バートリエ事変
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8 祈りを

 ソランはマントを脱ぎ、冑は被らずにいた。ここは流れ矢が飛んできたり、乱戦している戦場ではなく、しかも相手は一人ずつである。視界はしっかりとあったほうがいい。そこに、防御力は低いが軽い皮鎧を着けていた。

 左手で剣の柄頭を握り締める。その拵えはソランの剣に酷似させてあったが、中身は殿下の佩剣であった。

 クアッドとの手合わせでも折れてしまったように、一般の鍛冶師が鍛えたものでは、ソランの使用に耐えられない。そこで三本もスペアを用意した上に、名工との呼び声高いクレインを、ここへ密かに招き寄せてあった。だが、彼の業物であっても、この人数を相手するのには足りないかもしれなかった。

 それを心配した殿下が、これを使えと、宝剣を彼女に寄越したのだった。これが欠けようが折れようが、それで国が滅ぶわけでもない、気兼ねなく使え、と。

 鍛冶の神ラエティアが鍛えた剣だ。さすがに人の力で折ることはできないだろう。剣を消耗品として使うソランには、うってつけの剣である。

 しかし、ソランはもちろん固く辞退した。宝剣は加護の証として与えられたものだ。殿下の手元にこれがなかったばかりに、最悪のことが起こるのが怖かった。けれど、殿下は笑って取り合わずに言った。


「持っていても、宝剣の主は死んだぞ。恐らく、彼も私と同じく、そこそこの腕前しか持っていなかったのだろう。あの話を聞いた時に思ったのだ。失われた神がこの剣を手にしていたならば、結果は違ったのではないかとな。

使い切れぬものを持っていても、役には立たない。これはおまえが持て。そしておまえに守ってもらったほうが安全だろう」

「お傍に居れないのですよ。できるわけがありません」

「なに、五十歩ほどしか離れておらん。おまえならできるだろう」

「無茶を言わないでください。どれだけ人を買い被っているんですか」

「買い被ってなどおらん。私は一人ではない。おまえもだ。おまえ以外にも守ってくれる者はいる。おまえが五十歩駆けつける間くらいは、凌いでくれよう」


 な? そう言って御前の者たちを見まわした。

 ソランは、あっと気付いて、羞恥心に俯いた。自分がどれだけ思いあがったことを言っていたか、そんなつもりではなくても、彼らを信用していないと言っているのと同じだったか、あまりの恥ずかしさに震える声で謝罪した。


「申し訳ありません」

「謝らなくてもよい。おまえが私に惚れ抜いていることは、皆が知っている。心配するのは当たり前だ」


 ソランは俯いたまま耳を疑った。今、ぬけぬけとものすごく恥ずかしいことを言わなかったか、この人は?

 頭に血が上り、耳まで赤くなっている自覚があった。ソランは俯けるだけ俯いて、自分の足の爪先を睨みつけているしかできないでいるうちに、言いくるめられてしまったのだった。


 そんなことを思い出しつつ殿下を見遣ると、ソランの心中を読んでいるかのように、にやりとした。そんな場合ではないので、誰にもうろたえたのがわからないうちにと、自然を装って視線を逸らした。見るともなく、立会人のエランサ人たちを眺める。

 ザリッと土を踏みしめる音がした。無意識にそちらに顔を向けると、殿下が立ち上がったところだった。


「ソラン」


 威厳に満ちた声だった。誰の耳にも届き、魂を掴むような。鳥も風さえ息をひそめ、次の言葉に耳を澄ます。そして殿下は短い命令を下した。


「我が剣よ。我が名の下に戦え」


 瞬間、ソランの体中の血が沸き立った。歓喜が血管という血管を巡り、体の隅々にまで広がる。

 ソランは片膝をつき、右手を心臓に当て、優雅に腰を屈めた。


「仰せのままに、我が主よ」


 一幅の絵になりそうな、美しい主従の光景だった。




 そして、殿下は立会人を闘技場へと呼び出した。


『ラショウ・エンレイと申します。あなたの勇気に敬意を表します』


 彼はエランサ語で挨拶し、右の拳で己の左肩を二度叩いた。エランサの相手を敬う挨拶なのだと知っていたが、ソランは知らぬ振りをした。

 殿下に刺客を送った相手だ。彼が攻めてきていたら、いの一番に殺してやっていたはずの男だ。殿下は穏やかに相手をしていたが、ソランは馴れ合う気はなかった。

 作り笑いを浮かべて、ウィシュタリア語で通り一遍の挨拶をする。


「本日はお手数をおかけする。公正な立会いをお願いしたい」


 硬い岩を鑿で刻んだような厳しい顔は、ぴくりとも動かなかった。ウィシュタリア語を理解しているのかどうかすらわからなかった。

 骨と筋肉しか付いていない体は若々しく、イドリックとそう年も変わらないように見受けられたが、どうにも陰気で、瞳の色が実際の年齢の倍も年をとっているかのような印象を与える。

 その目と正面から向き合い、苦しく辛い体験をしてきた人なのだと、ソランは悟らずにはいられなかった。


 それに心を強く揺すられ、習い性でソランは表情を消した。気付きたくなどなかった。彼らも、また、バートリエから出てきた男たちですら、まともな肉のついた体をしている者はいない。エンレイの一団は陰気であったし、バートリエの一団は堕落した雰囲気があったが、それが同じ困難に遭った者の姿なのだと理解できた。

 貧しいのだ。他人を殺して、その取り分を手にしなければ生きていけぬほど。エンレイはウィシュタリアの富を欲し、バートリエの一団は同胞を殺した。相手が違うだけで、しようとしたことは同じだった。


 なのに今、運命を分けようとしている。ただの人であるソランの手によって。ソランを我が剣と呼んだ殿下の意志の下に、という名目で。

 彼らとて、貧しくなければこのようなことにはならなかったのかもしれない。もし、エーランディア聖国が攻めてこなければ、(つま)しくとも平和に暮らし、こんな罪は犯さなかったのかもしれない。

 だが、すべては『もしも』だ。現実の彼らは犯罪に手を染めた。殺し、盗み、犯した。

 そしてソランは、彼らに虐げられた百人の女の命を望んだ。その七倍以上の人間が死ぬとしても。彼らもまた被害者なのだとしても。


「祈りを捧げさせてください」


 彼はかすかに頷いた。少しはウィシュタリア語がわかるのかもしれなかった。いや、わからなくても意味は通じたのかもしれない。こんな時に決闘者の申し出ることなど、幾つもありはしないのだから。

 ソランはここからは見えないハレイ山脈へと向き、両腕を胸の前で交差させて当てて跪いた。頭を垂れる。声には出さず、心の中で唱える。


(女神よ、あなたの慈悲に感謝いたします。生も死も、等しくあなたの祝福であれば。)


 いずれ死によってこの罪は贖われ、魂は浄化される。善き者にも、悪しき者にも、平等に癒しはもたらされる。死して尚苦しまずにすむのなら、どんな重荷も生きている間だけ背負えばよいのなら、誰かを殺すことも、この生を貫くことにも、躊躇いはない。

 殿下と生きるこの命を、ただ誇ればいい。


 しばらくして、ソランは迷いのない穏やかな顔で立ち上がった。薄っすらと微笑んでみえる表情でエンレイに向き直る。


『始めようか』


 そうして、エランサ語でそう語りかけたのだった。

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