閑話 地上の星
空気のいいとは言えない船内から甲板に出て、イアルは夜空を見上げていた。慣れたと思った潮の匂いが鼻をつき、なんだか随分遠くに来た気がした。領地があるはずの方へと視線を下ろせば、長い桟橋の向こう、陸地には篝火がいくつも見え、これほど人がいることにも違和感を覚える。
北方のど僻地の小さな領地。領民はハレイ山脈の手前にある小さな台地にしがみつくようにして暮らしている。住民全員が知り合いで、家族のようなものだ。貧しく厳しい暮らしだが、平凡な日常を幸せだと思える、そんな所だ。
領民は日々、女神マイラの恩寵に感謝し、女神と世界を救い給うた神に報いんがため、ジェナスの後裔たる神官を守り、祈りを捧げる。代々の神官もまた、領地と領民を愛し、善政を布いてきた。
十数年前までその存在さえ知られていなかった人々。
ソランは、そう信じている。先祖が本当に盗賊をしていたと思っている。
けれどそれは事実ではあっても真実ではない。それをソランは知らない。
前御領主は、言っても言わなくてもイアルの好きにしていいと仰った。今更である、と。確かに今となってはどうでもいいことである。聞いたところで何も変わらない真実など、覚えているだけでも鬱陶しい。そんな思いをソランにさせる必要はないと思っていた。
王都アティアナが築かれた時から、ジェナシス領の人間が女神の神託に従い、英雄の君の血筋たるウィシュタリア王家の敵となりうる者を陰で屠ってきたなど、ジェナスとウィシュタリアの血が一つとなろうとしている今では。
「寒いねえ」
ディーの声がしてイアルはそちらへ顔を向けた。
「飲む?」
酒瓶を振られるが、いいえ、と答える。
「ありがとうございます。でも、任務中なので」
「そう言うと思った。腕が立つ人は大変だよね」
気にした風もなく、ディーは一人で酒に口を付けた。
イアルは領地を出てから酒は一滴たりとも飲んでいない。飲む気になれない。何かがあった時に、酔っていたからでは悔やんでも悔やみきれないからだ。
マリーと約束したからだけではない。イアル自身がそうせずにはいられないのだ。マリーと出会えなかったら、これが恋だと勘違いしていたに違いないだろうくらいには、ソランに対して愛情も執着もある。不毛なことにならなくてよかったと、心底思う。
他に運命の相手がいるとわかっている女になど、恋などしたいわけがない。
「ねえ、どうしてごねなかったの? 一言もなかったよね?」
手すりに寄りかかってイアルとは反対側を向き、気楽に尋ねてきた。これがこの人のスタイルだ。冗談から深刻な話まで、全部がこの調子だ。
これはどういうつもりなのだろう。純粋な好奇心か、黙って別の手を打つなという牽制か、それとも探りを入れているのか。なんにしても、今回は気楽だった。ない腹など探られようもないのだから。
彼は味方である。腹の探り合いなどしても仕方ないので、他意のないことをわかってもらうのは、こちらの務めだろう。イアルはしばらく考えて、口を開いた。
「領地で地滑りが起きたことがあって、領民が生き埋めになりました」
「ん? うん、それで?」
突然変えた話題にも、聞き上手の彼は、ソツなく相槌を打ってくる。イアルはちらちらと瞬く篝火を見ながら、当時のことを思い出す。
「現場に駆けつけ、皆で土を取り除いているうちに、ぽっかりと穴が現れたんです。土の雪崩れ込んだ所は木や下生えの多いところで、そういうのが覆いになって、その下に空間ができていました。それで呼び掛けると、奥の方から声が聞こえて、生存者がいるのがわかったんです」
「うん」
「ところがその穴は小さく、とても大人が入れる大きさではありませんでした。その上、それ以上掘り進めようとすると、雪崩れた土だから崩れ落ちてくるんです。そうかといって土を全部取り除いていればどのくらいかかるかわからない。中の者は足が挟まれて動けないし感覚もないという。時間がかかれば命は助かっても、足を失う覚悟をしなければなりませんでした。
実際、父は、ああ、当時、私の父は領主代行をしていたのですが、周囲から慎重に取り除いていくように指示しました。けれどソランは」
うっかり思い出の中の通りに呼び捨ててしまったの気づき、思わず口を噤む。それにディーは無言で肩を竦めてみせた。堅苦しい話をしているわけではない。まあいいか、と思い直し、続きを話す。
「自分なら中に入れると言いだしました。まだ十一歳でしたし、背が伸びはじめる前で小さかったんです。皆は外から掘り進めてくれ、と、自分は中で彼の足を掘り出してみようと言いました」
「止めたんでしょ?」
「いいえ」
ディーは目の高さに酒瓶を持ち上げ、ちゃぷちゃぷと音を立てて振った。ははっと笑う。
「ソラン様に甘いとは聞いていたけど、それほどとは! 呆れたね!」
皮肉なのか、本当に面白がっているだけなのか、イアルには見当がつかなかった。どちらでもかまわなかった。そこにいたイアルですらそう思うのだから。それでも、
「止められなかったんです。私たちには逆らえなかった」
「十一歳の子供に?」
「ええ」
「次期領主なのに? 危険な目にあわせるとわかっていて?」
「そうです」
あはははは。
星が無数に瞬く夜空に、ディーの笑い声が吸いこまれていく。
「今回も同じなんだ?」
どこか実感のこもった声で聞いてくる。
そう、同じ目をしている。イアルたちには見えない何かを見据えて、確信を持っている目。行くべき道が、やるべきことが見えているかのような。いや、ような、ではなく見えているのだろう。だから、本当はそれほど心配もしていない。
ソランが囮としてバートリエ内の男たちに一人で決闘を申し込むのだと決まっても。
たぶん、それがあるべき道なのだ。
「あー、やだやだ。心臓に悪い主なんぞ、持ちたくないよねえ」
胃に穴があくのが先か、禿げるのが先か、まったく、嫌になっちゃうよねえ。
それほど深刻そうでもなく、ぼやいている。それが嫌なら、臣従などしなければいいだけの話だからだ。ディーもイアルも、己の好きで彼らを主と仰いでいる。それどころか、出会えたことに感謝すらしている。誰にも文句は言えないのだ。
「まあ、わかったよ。ソラン様がああなったときは、逆らうべきじゃないわけね。覚えとくよ」
そして右手をさし出してくる。
「これから長い付き合いになるから。改めて、よろしく」
殿下の副官とその妃の副官。たしかにこの人とは、巻き込まれ度合いが同じになるだろう。
イアルは素直にディーの手を握った。お互いにどちらからともなく軽く振りあう。
「こちらこそよろしくお願いします」
ふと、俺たちはあの人たちに巻き込まれて、いったいどこまで行くのだろうと思う。もしかして、エランサを越え、いつかエーランディアまで行くのだろうか。それもいいか、と思う自分の在りように、苦笑が零れた。
ソランの行くところにイアルも行く。それだけの話だ。愛しているマリーと離れているのは我慢できるのに、どうしてソランの傍を離れることは考えられないのか、自分でも全然理解できないのだが。
「いや、まいった、酒ごときじゃこの寒さは凌げないよ。俺はもう中に入るよ」
ディーが身を縮めて寒そうにして言った。
「私はもう少しここにいます」
「そう? じゃ、お先に」
ディーを見送り、再び星空を見上げる。領地でも王都でもここでも、同じ星々を掲げる夜空を。
どこに行こうと、同じ空の下。きっと、彼女の傍に居さえすれば。
星々もそうだと笑っているみたいだった。数え切れないほどたくさんの星が、どれもきれいに瞬いている。あたかも天上が地上を祝福しているように。
イアルは空に向かって白い息を吐き出し、星と一緒になって静かに笑った。