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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第十章 バートリエ事変
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6 代償

 夕飯の仕度を始めた竈のそばで、ソランは子供たちと遊んでいた。さっきまでは、まだうまく跳べない小さな子たちを抱えて大縄跳びをやっていた。今度は小さな子たちに合わせてままごとだ。泥団子を作って手渡してくれるので、食べたふりをする。大きな子たちも幼児のお子守を任されて、ソランに寄り添って座っていた。


 バートリエは大陸でも北方に位置し、キエラよりだいぶ寒い。日中は日が照り、それほど寒さを感じなかったが、少し日が傾いてくると、とたんに冷えこんでくる。だから食事も早目に済ませ、後はテントに籠り、何もせずに寝る。

 一団はホルテナを中心に非常によく纏まっていた。特に年長者たちが協力して、子供たちを守ったようだった。彼女たちの姿が、領地の小母さんや姉さんたちと重なって見え、ソランは胸が痛んで仕方がなかった。

 大人たちは深い悲しみと苦しみに疲弊しきっていたが、物事のわからない小さな子たちは別である。突然現れた新しい遊び相手に、きゃあきゃあ笑って纏わりついた。それより大きな子たちは、大人たちと似た表情をしていたが、ソランが笑いかけて頭を撫ぜると、はにかんだ笑みを浮かべた。


 一人の子供がくしゃみをした。風が出てきて、一段と寒くなってきたようだ。ソランは大仰に震えてみせた。


『あー、寒い! テントに入る!』


 子供と話してみてわかったが、ソランのエランサ語は、三、四歳児とそう変わらない感じだ。だから、少し大きい子たちがそれを聞いて笑う。嫌な笑いではない。いい大人が片言で話すので、面白がっているのだ。


『手ーを洗おー、手を洗おー』


 節をつけて即興で歌うと、真似をして手を叩いて歌い出す。ソランは渡されたバケツの水に一人ずつ手を入れて洗ってやりながら、『おー、冷たい!』『ごしごしごし』『さあ、きれい』と出鱈目に歌い続けた。

 そうして一人一人の額にキスをしてからそれぞれの母親に渡して、別れを告げた。またね、と。子供たちはご機嫌でテントの中に入っていった。


 竈の周りには10人の大人が残った。ホルテナが一番若い。ファティエラやスーシャが火にかけられた鍋の様子を見るのを代わり、彼女たちはソランを囲んだ。


『全員、この国に留まることを望みます』


 代表してホルテナが言った。


『帰っても男もおらず、食料も奪われた村では生きていけません。伝手を頼って他へ移り住んでも、こんな目に遭った私たちは、白い目で見られるでしょう。それに移り住むためには、誰かのものにならねばなりません。私たちはそれを望みません』


 ソランが他の者を見回すと、全員がはっきりと頷いてみせた。


『あなたたちは、私のもの。それでいい?』

『はい。お願いいたします』


 彼女たちは揃って深々と頭を下げた。


『わかった。夫に伝える』


 エランサ語で殿下とソランの関係を表す言葉は、夫と妻が一番近いのだとも知った。

 あちらでいう婚約者は婚約予定者とでもいうべきもので、一族や一家同士の契約内容に添っていれば、当初と違う者がさし出されても問題はないのだそうだ。つまり、いずれお互いの血を交わす、という約束の期限内に、適齢期を迎える女性全員が、その候補たりえるのだという。

 それから言えば、最早契りを交わしたであろうと思われているソランたちは、あちらでは夫婦と同じ扱いになるのだった。


『では、伝えに行く。連絡あれば来る。なくても遊びに来る』


 女性たちが微笑ましそうに笑った。どうやらどこか発音か言い回しがおかしかったのだろう。さっき子供たちにも色々指摘された。たとえば大丈夫は『だいじょぶ』と聞こえるらしい。

 スーシャが言うには、全体的に舌足らずで可愛らしく聞こえるのだそうだ。ソランもスーシャの言うことを額面通り受け取ったわけではない。きっと、ソランが気にしないようにそう言ってくれたのだろうと思っている。モノは言いようなのである。


『お待ちしています』


 彼女たちに見送られ、ソランはテントを後にした。




 柵の外には、イアルは当たり前として、それ以外にも、殿下が連れていた護衛が半分も残され、警護に当たっていて、ソランは頭を抱えた。王都を出てからの護衛隊の隊長でもある、セルファスまで残されている。

 あの人は何を考えているのか。今、この地で一番危ないのはご自分だとわかっておられるのだろうか。

 ソランは早足に、殿下の許へと向かった。気が急いてしかたなかった。

 しばらく行ったところで、息せき切って駆けてくるジェナスが見えた。いつも簡単ではあっても結い上げられている髪が、珍しくほつれて肩に落ちており、真っ赤なそれがなびいて踊っていた。ソランは嫌な予感に急かされて、彼女に駆け寄った。


「ジェナス殿、殿下になにか!?」

「主殿ですか? いいえ、ご無事に船に戻られましたよ。今、会ってきたところです」


 あまりの安堵に声も出せず、ソランは胸元を押さえて、思わず長い息をついた。


「主殿は心配ありませんよ。女受けはしませんが、男受けは非常に良い方ですから。閲兵もうまくいったようです。兵たちの傍を通ってきましたが、良い感じで興奮しておりました」

「そうでしたか。よかった」

「ところで、エレーナは大丈夫でしたか。具合が悪くなりませんでしたか?」


 今度はジェナスが急いて聞く。


「呼吸が早くなりましたが、しばらくして治まりました。今まで何度かあったと言っていましたが」

「ああ、やはり。男なら誰でもというわけではありませんが、殿下は無駄に威圧的すぎます。たぶんそうなるだろうと思ったのです。私がいたら、面会の許可はしませんでしたのに」


 心配げに、腹立たしげに言う。


「他の者は大丈夫でしたか? エレーナだけではないのです。何人も同じ症状で苦しんでいるのですが」

「殿下がお会いになられたのはエレーナ・ホルテナだけです。怯えさせないようにお気遣いもなさっておいででした。それに、ホルテナはどうあっても面会しようとしたでしょう。責任感の強い人ですから」

「そうですね。彼女なら止めてもそうしたでしょう」


 ジェナスは力なく頷いた。


「正直に言って、私が彼女たちにしてあげられることは、そうはないのです。体の傷は治療のしようもありますが、心の傷は同じようにはいきません。気分が沈んで仕方のない時に飲む薬と、夕餉と一緒に摂る眠り薬を出すくらいなのです。そうでもしなければ、彼女たちは眠ることさえできないのです。

生きる力を取り戻させるには、長い時間がかかるでしょう。殿下は彼女たちをどうするおつもりなのか、何か聞いていらっしゃいますか」

「保護なさるおつもりでいらっしゃいます。彼女たちもそれを望みました」

「そうですか。キエラに連れて行くのでしょうか」

「わかりません。彼女たちは殿下ではなく、私の保護を望みましたので。それはまた相談してみないことには」

「ソラン様の? ああ、男性の保護を怖がったのですね」

「はい」


 ジェナスは何事か考え込んだいたが、


「エレーナは、もう落ち着いているのですね?」

「ええ。大丈夫だと思います」

「わかりました。私も主殿の許へ参ります。ご一緒してもよろしいですか?」

「はい、喜んで」


 では参りましょうと、ソランが仕草で前を示したところで、あ、とジェナスが声を上げて、突然片膝を地につけた。


「申し訳ございません、ご挨拶が遅れました。ご無事のご到着心よりお喜び申し上げます」


 そしてソランの手を求めて、甲に口付けを落とした。ソランは苦笑して直ぐにその手を握り返して、彼女を立たせ、歩き出す。


「どうか、畏まらないでください。申し訳なくていたたまれないのです」

「それは慣れていただかなければなりません。いずれ、あなたには国中の人間が傅くことになるのですよ」


 ソランはゆるゆると横に首を振った。


「想像もつきません」


 ジェナスはソランの腕に手を掛け、立ち止まった。真剣な顔で瞳をのぞきこむ。


「僭越ながら申し上げます。そのお覚悟がつかないのならば、手を引かれるのは今の内です。今ならば、まだ間に合います」


 イアルにも一度同じことを言われたと思い出す。破談にするか、と。己の不甲斐無さが彼らに心配をかけるのだろうと、ソランは自分の未熟さを痛感した。

 けれど、だったら、いつになったら未熟ではなくなるというのか。そんな、いつになるかわからないことを待ってはいられない。その間に、しなければならないことはどんどん過ぎ去っていってしまう。

 できるとか、できないとか、言い訳している暇などない。するしかないのだ。それしかソランに選択肢はない。

 なぜなら、どうしても、ソランがあの人の傍にいたいのだから。


「いいえ。できません。私の心が、もう戻れないのです」


 切なそうな瞳で言ったソランに、ジェナスは目を見開いた。


「私のできることはなんでもするつもりです。でも、私は足りないところばかりなのです。だからどうかお願いです。私を見捨てずに力を貸してください」

「もちろんでございます。ああ、そんなつもりではなかったのです。ただ、大変な思いをなさるのが心配で。今回のことも」


 そこでジェナスは不意に言葉を切った。ソランの目を確かめるように覗き込んで、そこにあるものを見てとると、溜息ともつかないものを吐きながら瞳を伏せた。


「わかっておいでなのですね」


 ソランは笑って答えた。


「大丈夫ですよ。殿下も、六百五十人にのぼる人間を、私一人で殺せとは仰らないでしょう。何か良い方法を考えてくださいます」


 エランサの慣習に基づいて彼女たちを手に入れるには、相手から奪い取らねばならない。そして、彼らに奪われたことが彼女たちにとって不本意であったことを示すには、新しく手にする者が相手を殺さなければならないのだ。


 ここはウィシュタリアだ。彼らは他国の領土を侵した。この国の法で裁いてかまわない。しかし、おそらく彼女たちの屈辱を晴らすには、彼女たちの慣習に則るしかない。それは法ではなんともしがたい、心の問題であるから。


「ソラン様、相手を殺せば気が晴れるというわけではないのですよ。人とはおかしなもので、憎しみさえ生きる糧になる。それが失われた時、生きる意味さえ失くすこともあるのです」


 ソランを思いとどまらせるためなのか、警告であるのか、懸念を伝えてくる。


「そんな勝手は許しません」


 ソランは喉の奥で、くっと笑った。自嘲でもあり、腹の底から湧いてくる、怒りとも気概ともつかないもののためでもあった。


「彼女たちは私のものになると言いました。私は代償を払って彼女たちを手に入れる。死ぬなど許しません。私のために生きてもらいます」


 憎まれようが、傷つけようが、苦しめようが、どうあっても生かす。この手に飛び込んできたものを、むざむざ死なせはしない。


「だから、どうかお口添えをお願いします、ジェナス殿」


 ソランの中に少し前まであった気弱なところはなくなり、傲慢で婉然とした微笑でジェナスの手を取り、心まで絡め取るようにして両の掌の中に閉じ込める。

 その姿は神々しく、禍々しく、清濁を越えたところにある厳然とした何かを感じさせ、そこに居合わせた人々の心を惹きつけ、魅入らせた。

 ソランには己のしなければならないことが、確かにわかっていたのだった。

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