5 エレーナ・ホルテナの選択
殿下は簡単に普通に躊躇うことなくテントを出て行った。振り返ることもなかった。残されたソランは、どうしようもなく不安で寂しくて寄る辺ない思いに囚われているというのに。
追いかけていって引き止めたい衝動と戦う。
あの人を失うのが怖い。片時も離れずに守りたい。泣き叫びたいような気持ちで思う。
けれどそれをしてはいけない。ソランは最早一介の軍医ではない。ただただお傍に控えていればいいだけの立場ではなくなってしまった。
あの人に寄り添うということは、こういうことなのだと改めて思い知る。単純に守るだけではいられない。あの人の盾だけでなく、剣にもなると誓ったのだから。
目を瞑り、静かに深く息をする。そうして心を鎮める。波打つ感情は奥底へと押しやる。
ソランは目を開け、改めてホルテナへと意識を向けた。
ソランが考え事をしていたのは、殿下が出て行って一分にも満たない時間だったはずだ。だが、次に目にした彼女の様子は、もうおかしくなっていた。
速い呼吸を繰り返している。見たことのある症状だった。エレイアで盗賊団とやりあった後になった者がいた。強い恐怖を感じた時に、繰り返し出易くなる。
ファティエラが心配して声を掛けているけれど、どうしたらいいのかわからないらしい。ソランは急いで近付き、声をかけた。
『大丈夫。大丈夫。鼻で息をして』
突っ張って必死に体を支えているのだろう手に、手を重ねる。
『すみません。なんでもありません。ご迷惑を……』
苦しい呼吸の合間に呟くように言葉を吐き出してくる。
『迷惑ではない。私はあなたの助けになりたい』
重ねた手で彼女の手を握った。そっと引く。すると支えを失った体が倒れ掛かってきた。それを抱きしめたりせずに肩で抱きとめる。体を束縛されると怖がるかもしれないからだ。
少し体を押すようにしてずらし、体を立てさせるのと同時に、怖がらないのを確認しながら肩口で半分ほど彼女の口を塞ぐようにする。
『鼻で息をして。お腹に息を入れる。楽になる。大丈夫。できる。鼻で息をして。そう。ゆっくり。大丈夫。傍にいる』
自分のエランサ語の拙さを補うために、務めて穏やかに柔らかな声で語りかけた。
この症状で死ぬことは稀だという。でも本人は息ができなくて、とても苦しいのだという。放っておけばもっと強い恐怖に囚われ、体が痺れて動けなくなり、胸の痛みに襲われる。気を失うことさえある。
じっとして、根気強く優しく声を掛け続けているうちに、少しずつ息遣いがゆっくりになってきた。ソランはほっとした。酷い発作ではなかったらしい。
『これは初めて? 前にもあった?』
『前にも、何度か。息が苦しくなって、でも、すぐに良くなって』
『そう。怖かったね』
触れている彼女の体が、ビクリと震えた。ソランはいけないことを言ってしまったかと緊張する。黙って固まっていると、次第に彼女の頬の触れている場所が生暖かく濡れてきた。泣いているらしい。
恐る恐る片手を伸ばして腕に触れる。そこを撫ぜおろす。嫌がらないのを見て取って、頭も撫ぜてみた。彼女の指が動き、ソランの手元でぎこちなく握り締められた。
そうして彼女はしゃくりあげて、ソランに縋って泣きはじめた。
やがてホルテナの手がソランを押し、彼女は体を起こした。
『申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました』
ソランの渡したハンカチで鼻を押さえながら、うなだれて謝罪を口にする。
『迷惑ではない。痛いときに手を貸すのは当たり前。もう痛くない?』
単語がうまく浮かんで来ず、自分でも妙な会話になっている気がしたが、気持ちが伝わればそれでいい。彼女にこれ以上俯いてほしくなかった。
彼女が少し顔を上げ、ソランを窺い見る。
『痛くありません』
『そう。よかった』
ソランは笑んでみせた。すると、彼女もおずおずと笑みを見せる。それがよけいに悲しそうで辛そうで、庇護欲を誘う。
彼女はファティエラより年上なように見える。それでも二十代半ばというところか。そんな娘が百人からの同族の女たちを守るために、恐怖を抑え込んで殿下と会ったのだ。健気さと、その芯の強さに尊敬の念を懐く。そして、これほどに彼女を傷つけた者たちに怒りを抱く。怯えさせないために、絶対に怒りは見せはしなかったが。
ファティエラがテントの隅にあった水差しの水で布を濡らして持ってきた。
『どうぞ目を冷して』
『ありがとうございます。あの、よろしければ、これから一族の者にご紹介します』
受け取って目元に当てながら、そんなことを言う。
『休んでから行く』
ソランがそう答えると、恐縮した様子で、
『でも、これ以上お待たせするわけには』
『急がない。ゆっくりがいい』
『でも』
自分のことで人を待たせるのがどうしても心苦しいのだろう。
『だったら質問して。私とファティエラが答える』
彼女は、はっとしたように目を見開いて、それから目を伏せ、一心に考え始めた。責任感が強く真面目なのだろう。それにたぶん、いろいろなことで頭も体もいっぱいいっぱいなのだ。余裕がなく、なんにでも必死になってしまっているように感じられた。
追い詰めたいわけではなかったのに結果的にそうなってしまって、また先程のようになりはしないかとソランは心配した。
考えて考えて考えて、見ているソランの方が息苦しくなって、助け舟を出そうかとファティエラと目を見交わしつつタイミングを見計らっていたところで、ふっと彼女が顔を上げた。
『私たちはこの国に住むことができるのですか?』
『はい。ファティエラたちのように』
『それは、先程の人のものになるということですか?』
ソランは意味がとれず、助けを求めてファティエラを見た。彼女はウィシュタリア語で説明してくれた。
「エランサでは女性は一族の財産という扱いなのです。例えば結婚は、女性が売り渡される形式を取ります。ですから、時に、親の許しが得られなかったり、女性に夫がいる場合、男の仲間が協力しあって女性を盗むこともあります。たとえ女性の了承がなくても、盗まれた女性は、手にした男のものになります。それは次に盗みだされるか譲り渡されるまで続くのです」
「つまり、あの男たちを追い払った者が、次の所有者になると?」
「そうです」
ウィシュタリアではそうではないと説明しようとして、ソランは迷った。どこがどう違うのかわからなくなったのだ。
ここでも、領民は生まれた時から領主のものだ。領主は国に治める税と、王に従うための私軍さえ整えておけば、領地内の総てのものを如何様にしても良いのだ。エランサではそれが領主ではなく、一族とか族長とかいうことになるだけのことではないのか。
それでも、他の誰でもなく殿下の下でならば、物としては扱われないですむ。人は人として扱われ、自分の主は自分で決められる。ファティエラもイドリックも、そしてソランも、そうして殿下のものとなったのだから。彼女たちにとって悪いことにはならないはずだ。それを、どう説明すればよいのか。
『ファティエラは幸せ。ね?』
ホルテナに語りかけながら、ファティエラに同意を求める。
『はい。幸せです』
ソランを見、ファティエラを見、悲しげにした彼女に、ソランは言葉を重ねた。
『あの人、顔は怖い。でも、優しい。怖くない。守ってくれる。ホルテナはホルテナのもの。許してくれる』
彼女は理解できないのだろう。不安そうにして考え込む。ソランは己の語学力のなさに腹を立てながら、更に説明を試みた。
『ホルテナは好きに主を決められる。どこへも行ける。なんでもできる。あの人、許してくれる』
『好きに? ソラン様でも?』
彼女は思いついたように聞き返してきた。
『私?』
戸惑って確認をとると、彼女は慌てて恐縮して、
『ごめんなさい、ご迷惑なことを』
『迷惑ではない。私がいいなら』
笑んで大きく頷いてみせる。それでも躊躇う彼女に、
『あなたの助けになりたい。私にできる?』
じっと瞳を覗きこむ。彼女は迷いに瞳を揺らせ、長い間逡巡していた。やがて、搾り出すように言葉を口にした。
『もう、男のものにはなりたくないのです。許されるなら、私はソラン様がいい』
それは、彼女の心からの声だった。