3 予感
イドリックたちから遅れること三日、ソランたちは王都から連れてきた騎兵と共に、バートリエにほど近い入り江に到着した。
船を降り、桟橋から続く小高い丘に登ると、北東の方角にバートリエの防壁が見え、その周りにウィシュタリア軍が野営しているのが見て取れた。
目の前にも、幾つもテントが張られている。奥の大きなものは軍人が警護しているために軍のものだとすぐにわかったが、他は民間のものらしかった。
食料、衣料、鍛冶はもとより、大道芸人までいる。妙に婀娜っぽい女性は娼婦かもしれなかった。さながら一つの町が即席で出来上がった様相だ。王宮前の広場にも負けない活気があった。
軍隊は何一つとして生み出しはしないが、物資を非常に喰う存在である。豊かでなければ養えない。
今回の戦費は、新王太子領から徴収されたもので賄っていた。キエラに行く途中でそういった領地の収支を見せてもらったが、見たこともないような金額に、ソランには初めは意味を飲み込むことすらできなかった。
だが、それほど潤沢な資金があるからこそ、王は国内である限り、補給線の心配なく軍事行動を起こせるのだった。領主たちには、いつ起こるかわからない戦の費用も見越して収入を与えている。金さえ積めば、一時的に大量に消費される物資類は、ウィシュクレアが必ず融通してくれた。
処罰された領主たちは、最悪の場合、覇権を握るために内乱も辞さないつもりだったのだろう。騎士を養い兵を育成し、食料を含む物資を大量に溜め込んでいた。
戦にならなかったのは、ひとえに王妃の指示の早さのおかげだった。首謀者及び協力者を捕縛し、また、それが領地に伝わる前に、領主代行者だけでなく、彼らの親族まで罪の有無に関わらず拘束した。
それと同時に特命を受けた近隣領主が、王妃の名の下に領主館を制圧し、軍を起こすことさえ許さなかった。
それらを可能にしたのは、殿下が整備した伝令のシステムと、それまでに収集した情報。
そうして今、彼らが殿下を殺すために用意したものは、総てその下に組み入れられようとしている。溜め込んだ兵も武器も金も。殿下のものとならないのは、彼ら自身ぐらいであった。
ソランはそれを頼もしくも、時にいてもたってもいられないほど恐ろしくも思う。殿下の為すことに自分はついていけるのか。理解を超えたところで起こる事々から、殿下を守りきれるのか。それを考えはじめると、百騎長をはじめとした手練れによる護衛に囲まれての移動でも、周囲の人々の動向に神経が尖るのが自分でもわかった。
民間のテント群を抜け、少し離れた軍のテントへと辿り着いた。一つのテントの前で、懐かしい顔ぶれが並んで待っていた。キーツをはじめ、局の人員達である。皆、処罰された領地の制圧に出向いた人々であった。殿下が近付くと右手を胸に当て、深く礼をした。
「ご無事のご到着、祝着至極に存じます。お待ち申し上げておりました」
「おまえたちこそ大儀だった」
殿下は足を止めて頬をゆるめた。笑顔になるには足りず、凄みが増しただけだったが。
「それにしても、ずいぶん大仰だな。おまえたちのそんな畏まった姿は、今まで片手で数えるほどしか見たことがないが」
「は。人目がございますので、直属の部下として、一応見栄を張ってみました」
「なんだ、失敗の一つでもやらかしたのかと思ったのだが」
「は。実はそちらもございます」
殿下はやれやれといった具合に肩を竦めた。
「では、いつまでもこんな所で私を立たせていないで、早く案内しろ」
「失礼致しました。こちらでございます」
キーツは長い腕を優雅に振って、テントの中へと導いた。
殿下は中央に用意されたクッションの上に早々に陣取ったが、そのほかの面々は久しぶりに会うこともあって、まずは挨拶を交わさずにはいられなかった。元気そうでなにより、というような短い言葉と共に、肩を叩き合う。だがそれに時間を費やすことはせず、すぐに殿下を中心に円を描いて座った。
「ご報告の前に、皆を代表してお祝いを申し上げたいと思います。殿下、ソラン様、ご婚約おめでとうございます」
キーツが口上を述べると、他の者も合わせて頭を下げた。殿下も鷹揚に頷く。ソランも黙ったまま頭を下げた。顔を上げたらしい彼らの視線が自分に注がれているのがわかって、ソランはそのまま伏目がちに俯いたままでいた。気まずい。そして、どうしても恥ずかしい。
ソランはいつも戸惑う。どうにも慣れない。なにも恥ずかしいことなどしていないはずなのに、なぜ、殿下を好きだと意識すると、こんなに羞恥心でいっぱいになってしまうのか。
「今日のソラン様の姿を見て、心配も霧散いたしました。我ら一同、心よりお喜び申し上げます。また、身命を賭してソラン様をお守り申し上げることをお誓いいたします」
その申し出を受けて、ソランは急速に熱が冷めるのを感じた。殿下の婚約者という立場の権利と義務の大きさを噛み締め、冷静に彼らを見返す。それから殿下と目を合わせ意向を確認すると、彼らに向き直り、緊張を隠して喜びを表現するために口の端を引きあげた。
「ありがとうございます。皆様の志にお応えできるよう、私も精進いたします」
美しくも毅然として、それでいて憂いを秘めた姿に、一同が瞠目し沈黙する。
数ヶ月前、ここにいる彼女は確かに少年だった。人懐っこい笑顔で誰からも可愛がられ、無茶ばかりする悪戯盛りの子犬のような子供。それが、一足飛びに大人の匂いさえ感じさせる女性へと変貌してしまっている。艶やかで鮮やかで瑞々しい、もう少しで食べごろを迎える果実のような。それは目を奪うほどの変化だった。
ああ、来るべき時がきたのだ、と誰もが予感めいたものを感じた。不死人である者はよけいに。
彼女を得て、殿下はきっと世界の主に相応しき王へと変わる。そして、王は行き詰って澱んでいるこの世界を変えるだろう。我らもそこに居合わせ、その偉業に名を連ねるのだ。
彼らはその予感に身震いするような興奮を感じた。けれどまだ表すにはそれは不確かで、だからその思いを体の中に押し込めるために、彼らは深く深く身を屈め礼をしたのだった。
その後、現在の状況について詳しい報告書が渡され、殿下がそれを読みながら口頭で確認をとっていった。
大雑把に言えば、徴兵者のうち反乱や蜂起を企てていそうな者を密かに監視し、繋がっている者を調べあげていること、女性たちは犯罪被害者であること、身柄預かりの男たちは司令官への面会を求めており、今のところおとなしいということ、だった。
最後に、バートリエ内の者たちのところで、殿下が呆れた声をあげた。
「奴らを五十殺して、百も生け捕りにしてあるのか」
「は。殺すなというご命令でしたが、無謀な突撃が多く、已む無く。申し訳ございません」
「この人数を炙り出すためにあれを使うのか。ますます馬鹿馬鹿しくなってきたな。しかも相手はろくでなしの盗賊どもときた」
殿下は書類の束をディーへと押し付けた。彼はざっと内容に目を通し、ソランに渡してくる。ソランも同じく大急ぎで読み、殿下が言っていた以上の疑問がないのを確認し、また彼に戻した。
「忌々しいにもほどがある。ディー、もう少し格好のつく理由を捻り出しておけ。私がやる気になるようなのをな」
「いつまでに」
「明日」
横暴なまでの要求に、ディーは顔色一つ変えることなく頷いた。
「承知いたしました」
ディーは簡単に書類を整え、袋にしまいこんだ。それが済んだのを見計らって、キーツが声を掛ける。
「では、兵の許へご案内いたします」
「いや、その前にジェナスやイドリックたちと会いたい」
「かしこまりました。彼らは女性たちのテントの方におります。そちらへご案内いたします」
キーツを先頭に、一同は目的のテントへと向かった。