2 神を騙る者
皆が出て行く中、ジェナスがハリー・ファング領主代行を呼び止め、殿下の傍に戻ってきた。
「失礼、主殿。先程お話されていた聖国の船について、詳しく説明を聞きたいのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、かまわん。ダニエル、話してくれ」
彼は了解の意を軽く頭を下げることで示し、話しはじめた。
「私も噂に聞いただけで、実際に見たわけではないのです。ただ、両側に何十も櫂を取り付け、鎖で船に繋がれた男たちが漕いでいると。ですから風がなくても動けるし、船体が大きい割りに小回りが利くらしいです。
漕ぎ手は大変な重労働で、二、三年で死んで海に投げ捨てられるとか。聖国と手を結んだエランサ人の人攫い集団があるらしく、それに捕まらないようにと教えてもらったのです」
「うちではとても使えん方法だな。ハリー、それに対抗する策はあるか?」
「さしあたっては、やはり近付かずに大砲で沈めるぐらいしか思いつきませんが。何十もの櫂を付けるとは、よほど大きな船なのでしょう。どちらにしても、ぶつかればうちの船などひとたまりもありませんし、乗り込まれたら人数的に勝てないでしょう」
「ジェナス、何か知恵はないか」
「人力でないなら、地上では馬か牛ですが、船の中となると。……ああ、でも、そんなような研究をしていた者がおります。やらせてみましょう。ただ、その動力を使える形にするまで五年、いえ、十年近くは要ると見て、その上、船の構造に組み込むとなると、少なくともそれ以上かかることになります」
彼女は考え考え、先の長い見込みを披露した。
「十年以内に頼む。それまでは、エランサへの梃入れでなんとしてももたせる」
「それほど聖国の侵攻は、危機的状況なのですか?」
ジェナスはダニエルに尋ねた。
「エランサは荒れてはおりましたが、まだ東部までは聖国に侵攻されてはおりませんでした。なんとか軍は西側で食い止めてはいるようですが、……そうですね、同国人による人攫いが起きているなど、人心もかなり荒れていると考えて良いのでしょう」
「東部の者とて、今回のように己の領地を固めるので精一杯であろう。そんなところに勢いのある軍が侵攻したら、蹴散らされるのは目に見えている。最悪、海洋民らしく南の沿岸部沿いのみ支配でもされたら、もっと早くに我が国まで辿り着くだろう。
それに、たとえ船ができても一隻では足りぬ。それを動かす技に熟練する必要もある。軍隊として動かすには、いくら時間があっても足りるということない。悠長なことは言っていられないのだ」
「主殿は、その聖国とどんな決着をつけるおつもりなのですか。ただ来たものを追い払うだけのおつもりなら、百年に及ぶ戦となりましょう」
ジェナスが鋭く指摘した。
「それはまだわからん。和睦できれば、それに越したことはないが。ダニエル、聖国はどのようにエランサを支配しようとしているか、話を聞いてないか」
「奪った土地の住民は奴隷化し、自国民を入植させているとか」
殿下はとうとう嫌悪感を隠しもせずに顔を顰めた。
ソランも恐ろしさに胸の奥がぎゅっと閉まる感じがした。
化け物じみた欲望だと思わずにはいられない。同国人ではないとはいえ、同じ人間を狩り、生きる場所を奪い、蹂躙する。そんなことを長期に渡って国をあげて行うなど、正気の沙汰ではない。
「なぜ、それほどまでして」
ソランは聞くともなしに呟かずにはいられなかった。
ダニエルはそんなソランに痛ましそうな目を向け、視線を落としながら溜息をついた。
「憶測でしかありませんが、一つ、理由になりそうな昔話を知っています」
躊躇いがちなそれに、殿下がいささか強く促す。
「聞かせてくれ」
「はい。実は今回、エーランディア聖国と名乗っていると聞いて、驚いたのです。エーランディアの血は、最早かの国にはないはずなのです。私の祖先にあたる者が、冥界の門を探しに国を出奔して嵐に巻き込まれ、この国に運良く漂着して、結局は帰れなかったのですから。それにエーランディアは王統ではなく、神官の血統なのです」
ソランは殿下と目を見合わせた。冥界の門は、今も繋がっているのかはわからないが、そう呼ばれるものは、たしかにソランの領地にあるのだ。
「我が一族の悲願は、冥界の門を探し出すことでした。私も死んだ父から申し付けられました。門を探しだし、冥界へと赴き、囚われの神を救い出せ、と」
ソランは目を見開いた。遠方の国の単なる昔話とするには、あまりにも符合する要素の多い話だった。
「父は主神をセルレネレスとは呼んではいませんでした。セレンティーアと呼び、死ぬまで父祖の故国のために、かの神に祈りを捧げていました。どうか、未だ託宣を果たせぬ我等を許し給え、と」
剣の主と乳兄弟だったというラウル・クアッドは、当時、領地が地平まで埋まる大軍に囲まれたと話していた。ソランは相槌を打った。
「セルレネレスは、それほど遠くの地からも人を集め、攻め込ませようとしたのですね」
「そうなのでしょう。ところが、その直後に大津波と火山の噴火に見舞われ、島は壊滅的な打撃を受けたのです。とても馳せ参じることなどできませんでした。生き延びるだけで精一杯だったのです。そしてなんとか壊れた神殿の体裁を整え、神に呼びかけましたが、その時にはもう、返答してくださることはなくなっていたのだと言います。それ以来、二度と神の加護が得られなくなったと」
ダニエルは苦笑した。
「不死人として生まれていなかったら、私もセレンティーアに祈りを捧げていたでしょう。叶うはずもなく、叶える価値もない託宣に縛られて」
「神を求めての戦だというのか?」
殿下が尋ねた。
「私はそう考えます。違うのかもしれません。でも、そうであれば、狂気じみた行動の意味がわかる気がするのです。エーランディアの名を戴いていることも」
殿下はゆっくりと頷いた。
「わかった。心に留め置こう」
ダニエルは少し深めに頭を下げた。殿下はジェナスとハリーに顔を向けた。
「ジェナス、ハリー、船についても、海上の戦の方法についても、軍港についても、連絡を密に取り、進めてくれ。なんなら西側に研究者と技術者を集めた施設を作ってもよい。どうする?」
「そうですね。いっそ軍港の一つに、すべて集めてしまったらどうでしょう。どうせ兵もこれから選抜して訓練するのです。自分が乗る船が出来上がるのを見ながら、基礎訓練を受けたほうが士気も上がるでしょう。
そちらの研究に人手がいるなら、いくらでもお貸しできますしね。できた先から試すこともできる」
ハリーが返答すると、ジェナスも頷いた。
「では、そのようにこちらも検討いたします」
「金や入用の物については、ダニエルに相談してくれ。ダニエル、それらの連絡手段も整えておいてくれ」
「かしこまりました」
「……そんなところか」
彼らに視線を送り、殿下はほんの少し口元をゆるめた。殿下のそんな仕草一つだけで、不思議と緊張に強張った心がほどけ、余裕を持って前を向くことができるようになる。
「頼もしいおまえたちがいてくれて心強い。頼んだぞ」
ジェナスでさえ、それには微笑を浮かべたのだった。
彼らが出て行ってしまうと、殿下は椅子の背もたれに凭れ掛かりながら、傍に立つソランを見上げた。
「ずいぶんおとなしかったな」
揶揄しているというより、疑問に近い雰囲気だった。だが、ソランには何を指してそう言われるのかがわからなかった。
「なにがですか?」
「おまえも先に行くと言いだすかと思ったのだ。望むらなら許してもよいとも思っていた」
心の内を見抜かれていたことに、ソランはバツの悪い思いをする。
「少し、だけです。私が行ったところで、ファティエラたちやジェナス殿以上のことはできません。それより、私は殿下の軍医です。殿下のお傍に控えているべきだと思いました」
とたんに殿下は、おかしそうに口元を歪ませた。くっくっくっくと喉の奥で笑い、体を震わす。人が真面目に話しているのに、失礼にもほどがある。ソランは憤慨して抗議した。
「なんで笑うんですか。いくら殿下でもそれは失礼でしょう!」
「すまん、馬鹿にしているわけでは」
笑いに震えた声で謝り、我慢できなくなったように、声をあげて笑いはじめた。
ソランはすっかりむくれて、部屋を出て行くことにした。なのに、踵を返した彼女の腕を後ろから掴み、手元へと引き寄せようとする。
「怒るな。短い間に、ずいぶん聞き分けがよくなったものだと思ってな」
振り払ったはずの腕はしっかりとソランの腰にまわり、がっちりと捕らえていた。未だ自分の方へと向こうとしないソランにかまわず、話しかける。
「下がっていろと言い聞かせておいたのに、矢面に立ち、剣まで投げ捨てたのは誰だ? 命を狙われているから隠れていろというのに、がんとして受け付けなかったのも同じ者だな?」
「それとこれとは状況が違います。そこまで馬鹿ではありません!」
ソランは振り返って、キッと睨みつけた。
「うん。それから私をこんな風に邪険に扱って睨みつけるのも、おまえくらいだしな?」
「殿下が一々からかわれるからです!」
「ああ。からかいがいがあるから、つい」
ソランは、むうっと口を引き締めた。腰を掴んでいる手を両方とも叩いてやる。ぴしゃん、といういい音がした。そのまま強気に睨みつけていると、殿下の目つきが剣呑に変わっていった。頭からばりばりと喰われてしまいそうだ。顔には出さずとも、なにかがまずいと後悔しはじめたソランから目を離さず、殿下は低い声で命じた。
「ディー、イアル、下がっていろ」
「あ、待て、私も行く」
動いた彼らを思わず目で追って口走ったソランに、
「おまえは、本当に、可愛いな」
殿下は傲慢で色気のある笑みを浮かべて、有無を言わさず自分の膝の上へとソランを抱き上げた。
「殿下、そんな場合では」
少々強引な殿下相手に、下手に暴れて怪我でもさせたらと思うと、弱腰になってしまう。それに、殿下に求められれば、結局は拒絶などできはしないのだ。
「ソラン」
近くなった瞳は思ったよりも穏やかで、慈しみに満ちていた。
「ダニエルの言っていたことが本当だとしても、おまえのせいでも、私のせいでもない」
気付かれないように胸の奥底に沈めていた不安を、不意打ちで指摘されて、ソランは息を止めた。
「失われた神のせいでも、宝剣の主のせいでもない」
ゆっくりと言い聞かせるように話す殿下を凝視する。
「遠い昔に神々はいなくなり、それでも我々はこうして生きている。最早地上には人しかいない。だから、どのような行いも、それはすべて人が行っているのだ。神の名の下に正当を主張するのなら、それは己の非道を誤魔化すために、騙っているにすぎない」
ソランは泣きたいような気持ちになって声を出せず、こくりと頷いた。
「私たちは、償いをしようとしているのではない。私たちの信じることを行おうとしているだけだ。そうだろう、ソラン?」
もう一度従順に頷けば、殿下は優しく微笑んだ。
「口付けてもいいか?」
少しだけからかうように言う。ソランの気持ちが少しでも上向くように気遣ってくれているのがわかるから、今度は怒ったりしなかった。ただ三度頷いて、静かに瞼を閉じたのだった。