1 一報
執務室に入ってきたその人と、殿下は固く握手をしてから軽く抱き合った。殿下が他人にそんなに親しげで敬意を表した態度を取るのを、ソランはリングリッド将軍以外で初めて見た。
殿下と挨拶をすますと、その人は真っ直ぐにソランを見て、人懐こい笑顔で会釈した。
「ソラン、ウィシュクレア代表ダニエル・エーランディアだ。ダニエル、彼女は私の婚約者のソラン・ファレノ・エレ・ジェナシスだ」
「お初にお目にかかります。ダニエル・エーランディアと申します。姫にお会いできるとは光栄の至り。夢のようです」
「お噂を聞いて、ぜひお会いしたいと思っていました。私もお会いできてとても嬉しく思います」
彼が、さっと手をさし出してきた。それに合わせて右手を出すと、温かく乾いた大きな両手でしっかりと握られ、振られた。
緊張の色もなく合わせる目は明るく楽しそうで、堅苦しくはないが誠実そうな顔をしていた。引き締まった逞しい体とごつごつと荒れた手から、体を使って働いているのだと知れる。三十代半、体力も気力も溢れんばかりに充実しているのが見て取れた。
ソランは不思議な人だと思って、彼をしげしげと見た。会ったばかりなのに、彼には何事であっても安心して任せてしまえるような信頼感を抱かされる。
実際、彼はウィシュクレアの代表である。商人としても指導者としても卓越した手腕を持っているのだろう。その割に威圧感がなく、人に欠片の警戒心も抱かせない。まさに外交向けの惚れ惚れするような才能だった。
彼はにこりと笑って手を離した。ソランも同じように笑い返す。
「お許し願えるなら、宝剣を手にして見せていただきたいのですが」
「よかろう」
殿下が剣を鞘ごとはずし、ソランに手渡してきた。胸の前で少し力を込めて鞘口を切り、そのままスラリと抜き放つ。数瞬前まで確かに剣だったそれが、まるでソランの体の一部のように煌いた。
「確かに」
彼は膝をつき、頭を垂れた。
「我が持てる力のすべてでお仕え申し上げます、宝剣の主方。どうか私を存分にお使いください」
そこに打算や裏心が見出せず、ソランは率直に疑問をぶつけた。
「なぜ、それほどにつくしてくれようとするのですか?」
「世界の美しさを知っておられるからです」
膝をついたまま顔を上げた彼は、喜びに満ちた表情でそう告げた。
「私は世界の美しさに魅入られているのです。その美しい世界をくまなく見てまわりたくて、商人となりました。主方もまた、世界の美しさを知っておられる。その方々が導く未来にお供したいと思うのは当然ではありませんか」
たしかに世界は美しいとは思う。でも、この人は何を以って人の心持をそれほど確信しているのか。
ふっと手の中の感触に剣の存在を思い出し、ソランは会話の途中であったが鞘にしまった。そして、同時に愚問だったと思い返した。
この剣の主であることが証になるのだ。地上に平和を齎そうとした若き将軍の、また、地の守護神の佩剣だったという、これこそが。
殿下に剣を返し、彼に向き直る。
「わかりました。貴方を頼りにします、エーランディア殿」
「殿下と同じくダニエルとお呼びください」
「では、ダニエル殿とお呼びしましょう。私のこともどうぞソランと呼んでください」
もう一度手をさし出し、彼の手を取って立たせる。
「ありがとうございます、ソラン様」
新しく結んだ絆を確かめ強めるように、二人は固く手を握り合った。
ディーやイアルは当然だったが、ジェナス、百騎長たち、イドリック、ハリー・ファング領主代行も呼ばれ、ダニエルの話を聞くことになった。
「バートリエに囲い込んだのは騎馬八百騎ほどです。装備はごく一般的なエランサの装備で、皮製の盾と鎧、剣と槍と弓でした。
ただ、エランサから進入してきたのはそれだけでなく、百人ほどの女性を連れた二百騎ほどの騎兵が先になだれ込み、ウィシュタリア軍に助けを求めました。なんでも、誘拐された娘たちを奪い返したのだそうです」
「ほう?」
殿下は冷たく口元を笑みの形に歪ませて、ダニエルに尋ねた。
「逃げ込んできた男、ラショウ・エンレイと名乗らなかったか」
「ご存知でしたか」
「少し前に私の命を狙った男だからな。それで送り返した者たちはどうだった」
「キーツ殿に確かめてもらいましたが、その中にはいなかったようです」
「どう見る、イドリック?」
「は」
イドリックは顔を強張らせていた。
「罠に気づいたかと。おそらく八百騎は手土産のつもりであると思われますが」
「うん。それで?」
思うところを述べたはずのイドリックに、殿下は先を促した。彼は床に視線を落とし、ほとんど顔面蒼白になっていた。
「おまえを責めてはおらん。もちろん他の者も。責めを負うのは当の本人で充分だからな。
それで? 今後の対応を決めるためにも、その男を良く知っているおまえの詳しい見解を聞いておきたいのだが?」
「は。おそれながら、私どもを救ってくださった時と同じ状況を演出しつつ、敵対勢力の力を削ごうとしているのだろうと」
「つまり、奴の敵の対抗馬にされたわけだな?」
「……は」
殿下は、ふっと鼻で笑った。それからダニエルに視線を向ける。
「あちらで女性が攫われているという話は聞いたか?」
「女性というか、むしろ男が攫われているようでした。聖国は船に何十も櫂を取り付け、奴隷に漕がせるのだそうです」
「それは新しい情報だな。それに『聖国』とは彼らがそう名乗っているのか?」
ダニエルは珍しく一瞬言いあぐね、
「いいえ。正式にはエーランディア聖国と。お察しの通りです。私の先祖の故国が、どうやら統一を果たしたようで」
「そうか。その話はまた後で詳しく聞かせてくれ。イドリック、あちらでは女性を攫う風習があったように聞いた気がするが」
「今では廃れた、昔の因習です。戦で男が少なくなり、手っ取り早く子を増やすために、女性を攫っていたことがあったと」
「ああ、思い出した。最後に老婆が娘の婿たちに、村中の老夫を殺させる話だな」
「はい」
殿下は、ふむ、と幾ばくか考え、すぐにダニエルに問いかけた。
「バートリエに追い込んだ者どもの言い分はどうなっている?」
「一族の女性が攫われたと主張しています」
「女性たちは?」
「追ってきた者たちを殺して欲しいと頼まれました」
「演技の可能性は?」
「わかりませんが、薄いかと。救い出し護衛してきたと主張しているエンレイという男のことも警戒しておりましたので。女性たちは、男を怖がって閉じこもっています。よほど酷い目にあったのでしょう」
殿下が眉間に皺を刻んだ。
「先人が残してくれた戒めを正しく理解できなかった者が、来ているということかもしれんな。
イドリック。ウォルター。ファティエラとスーシャを借りるぞ。他にも五人ばかり一族の者を用意してくれ。その女性たちの世話を頼みたい。そして何があったか詳しく聞きださせてくれ」
「かしこまりました」
「明日にでもすぐに出発して欲しい。おまえたちは彼女たちを護衛し、つつがなく仕事できるようにまわりと折衝しろ。ウォルター、一番早い船を用意しろ」
そこへジェナスが口を挿んだ。
「私とエルンストも、彼らと一緒に行ってもよろしいでしょうか。彼女たちを私が診察いたしましょう。それに坑道の様子や地形も確かめておこうと思うのですが」
「ああ。そのほうが良かろう。おまえの船を旗艦として借りるが良いか?」
「ご自由にお使いください。船長には私から申し付けておきます」
矢継ぎ早に確認を取り、一段落着いたところで、殿下は全員を見まわした。
「想定外の荷物が増えたが、とりあえずは当初の予定通りにすすめようと思う。何かあるか?」
ディーが手を挙げる。
「エンレイ以下二百人はどうするおつもりですか?」
「会ってから決める。バートリエに囲い込んだほうもな。イドリック、接触を図ってくるだろうが、適当にあしらっておけよ」
「かしこまりました」
「他には? なければ各々持ち場へ向かってくれ。解散」
こうして後に『バートリエ事変』と呼ばれる変事に、彼らは赴くことになったのだった。