閑話 ソランと危険な遊戯
本館近くにある従業員宿舎前は、従業員の子供たちの遊び場になっている。領主階級の人間の中には、子供や従業員が目の前を過ぎるのさえ嫌う者もいるものだが、この地の代々の領主も、また殿下も、子供に対しては寛大であられた。
というわけで、この国の王子殿下であられる御領主様が久方ぶりに城にご滞在になられていても、子供たちは遠慮なく歓声をあげて、今日も広場を駆け巡っていた。
ソランは鍛冶工房を出て本館に向かうところで、夢中で駆けて来た子供が小石に躓いて身を投げ出す場面に遭遇した。咄嗟に駆け寄って、小さな体が地面に叩きつけられる前に抱きとめる。
五歳くらいの男の子だった。びっくり眼で呆然としてソランを見上げたので、ちょっと機嫌を取るつもりで、両脇の下に手を入れ直し、タカイタカイをしてやった。
ところがますます驚きに目を瞠って、ぽっかりと口を開いてソランを見下ろしてくるだけだった。それは泣く寸前の表情に似ていた。
ソランは焦った。いや、泣きそうな子供を前にした大人なら、たいてい誰でも切羽詰った気持ちになるものだ。本当は泣いてもどうということはないのだが、なぜか、泣かせてはいけないという強迫観念にかられてしまうのだ。
この時のソランもそうだった。まずい、と思った瞬間、体が勝手に反応していた。即ち、体を少し沈め、次に子供を持ち上げながら伸び上がり、その子を宙へと放り投げたのだ。
放ったといっても、ほんの少しのことだ。すぐに手の中に受け止め、もう一度同じようにして放り上げる。少々動きは荒っぽいが、これもまたいわゆるタカイタカイの一種であった。
領地では絶大な人気を誇る遊戯だった。これを一人につき五回繰り返すと、次の子に交代するのだ。子供たちはこれをして欲しいばかりに、おとなしくソランとイアルの前に列を作ったものだった。
三回目に放り上げたところで、男の子が、きゃーっという悲鳴に似た歓声をあげた。顔も笑っている。ソランは安心して、残り二回を行った。
地面に降ろすと、その子は、もっと! と叫んだ。もっとやって!
興味を持った他の子供たちも、わらわらと周りを取り囲んでいた。それを見回し、ソランは彼らに声をかけた。
「はーい、では、二列に並ぼうか! 順番ですよ! こっちのお兄さんもやってくれるからね、さあ、整列!」
そうして、ソランは文句も言わずに完全に諦めモードに入ったイアルを巻き込み、子供たちと遊び始めたのだった。
もちろん、その知らせは十分も経たないうちに、城中の大人に伝わっていた。アロナ婦人が駆けつけた頃には、子供の母親たちが両手を握り絞って立ち尽くし、非番の者や、仕事途中の者まで、何事かと遠巻きに覗きに来ていた。
そして、一様に絶句していた。
軍服を着てはいるが、あの方は御領主様の御婚約者様に違いない。その方が、子供を空へと放り投げている。それも、ほんの小さな子供ならまだしも、十歳になろうかという大きな子まで差別なく平等に。
子供たちは悲鳴をあげて大興奮だった。つまり、怖いのだ。怖くて楽しい。それを見ている大人は、更に肝が冷えた。傍からは危険な行為にしか見えない。見えないのに。
麗しの御婚約者様は、それはもう、とびきりの笑顔なのだった。遊んであげている、というよりは、御自分が夢中で遊ばれているようである。心から楽しんでおられるのは疑いようもなかった。
しかも、終わった途端に子供たちは最後尾に並び直すので、五回連続をエンドレスでこなしている。すぐに終わると思っていた大人たちは、二巡目が始まって、どよめいた。二、三人をやるにも一仕事であるはずのそれが、十数人を終わらせても疲れた様子もない。
騎士様方と同じ訓練をし、しかもお強いとは風の噂で聞いていたが、あながち嘘ではなかったらしい。
やがて人々は、数を数え始めた。誰かがそれまでに終わった子供の数を数え、五倍にして、正しいと思われる回数を口にすると、そこに一つずつ足していく。
「ひゃくさん、ひゃくし、ひゃくご、ひゃくろく・・・」
中庭に、皆の唱和する声が響き渡った。
「まあ、まあ、楽しそうでいらっしゃること。皆さん、心配はいりませんよ。子供はソラン様に任せて、家の中のことをやっていらっしゃいな」
アロナ婦人は母親たちに声をかけると、汗だくになるだろうソランの着替えと、運動の後の飲み物を用意するために、館へと戻ったのだった。
「殿下、広場がすごいことになっています」
ディーは窓から下を覗いて、殿下を呼び寄せた。殿下はソランを認めると眉を顰めた。
「引き留めに行くのはどうかと思われますよ?」
剣呑な表情を危惧して、一言申し上げる。それに鼻を鳴らし、行くか、と噛み付くように言った。
「それがいいですよ。いやあ、イアル頑張っているなあ。俺なら途中でリタイアです。殿下もうっかり巻き込まれたら、明日、腕が上がらなくなりますよ」
恐ろしいことに、そうなりそうだった。ソランの体力はどうなっているのかと、時々、本気で疑問に思うのだった。
身長はあるが、騎士たちほど筋肉がついているようには見えない。なのに、どこから出しているのかわからない怪力と体力で、文字通り相手を叩きのめしてしまうのである。不思議を越えて、最早理不尽にしか思えないのだった。
「しかし、心和まない光景ですね。おかしいなあ、本人達はあんなに楽しそうなのに」
妙齢の乙女と子供たちが楽しく遊んでいるはずなのに、見ている人間は、なぜか手に汗握ってしまう。殿下は己がきつく握り拳を作っているのに気付いて、窓に背を向けた。
「よろしいので?」
「よろしいもよろしくないもないだろう。私だとて、子供と遊んでいるものを邪魔するほど無粋ではない」
たとえソランが見たこともないほど楽しげに笑っているとしても。
本音は心の中で呟きつつ、非常に不機嫌に言い放つと、執務机に戻った。
ディーは笑いを噛み殺してから窓際を離れ、殿下のお傍へと行く。八つ当たられないように、殿下の間合いの三センチ外側を通るように意識して。それでも、その眉間の皺があまりにおかしくて、思わずいらぬ一言を言ってしまった。
「お茶の時間にコトの顛末が聞けるでしょう。楽しみですね?」
膨れ上がった殺気と共に、インク瓶が投げつけられた。これを床にぶちまければ、アロナ婦人の怒りに触れることになる。ディーはしかたなくそれを受け止め、上半身を中心に、点々と飛び散ったインクの洗礼を受けることになったのだった。
追記
次回のメニューは、両腕に子供を抱え、ぐるぐると回りながら駆け回る、というものだった。その次は、子供の足を持って振り回す、そのまた次は、イアルとマントの両端を持ち合い、その上に子供を載せておいて投げ上げる、というものだった。
どれも、大人たちの顔を引き攣らせるに充分なものばかりだったが、子供には大ウケであった。
これより先、この地の女性の結婚相手の条件に、キスが上手いの他に、男らしく子供をあやすことができる、が追加されたのは言うまでもない。
男泣かせのその一言は、「御領主様の奥方様でさえできるのに」だったとか。
また、仕事で疲れて帰った一家の大黒柱を迎える子供たちの挨拶は、「お父さん、奥方様の遊びして!」に変わったともいう。
そんなわけで、領民のうち働き盛りの男たちは、奥方様のご来訪を心待ちにしつつも、鉄面皮の御領主様より恐れたという。