13 彼が最期に望んだ加護は
「そんなわけで事態が変わった。すまんが、酒の席は取りやめる。部下が戦の場にある時は、酒を断っているのでな。祝杯を挙げるまで待ってもらえるか」
「畏まりました」
「では、ジェナス、今夜聞くはずだった話を、今聞きたい。失われた神について」
ソランは小首を傾げた。それに殿下が不思議そうにする。
「なんだ?」
「いえ、呪いについてかと思っていたので」
「呪いではなくて、加護なのだろう? ジェナス、それに間違いはないな?」
「はい、私はそう考えております」
「うん。そこで考えてみたのだが、加護とは、人が神に願い出て受けるものなのだろう?
春には豊穣の神フェルトにその年の豊作を願うし、我が妹のミルフェは、よく美の神リエンナに捧げものをしている。
その願いに神が応じてくだされば、加護を受けられるのではないのか?」
「そうだと言われております」
「加護がその願いに対して行われるものならば、願いが成就すれば、加護も解けるのであろうと思ったのだが。
そして、神々がそれぞれ司るものを違えていたというならば、失われた神がどういった神であったか知れば、成就すべきこともわかるのではないかと思ったのだ」
論理立てて語る殿下に、ソランはぽかんとして見惚れていた。まったくもってそのとおりであると思いながら。
「ソラン様」
「はい。なんでしょうか?」
隣でジェナスが座りなおして、ソランへと向きなおった。
「ソラン様は、どうすれば加護が解けるとお考えになりますか?」
「私、ですか?」
ソランは恥じ入った。殿下のように深く考えてなどいなかったのだ。
「すみません。特に深くは考えていませんでした。宝剣の主はやりたいことをやればよいと伺っていたので、そうしようと思っていたのです」
「やりたいこととは?」
「え?」
なぜ私に聞くのだろう?
ソランは戸惑ってジェナスと殿下を交互に見たが、二人とも答えを待っている。仕方なく、最後に殿下に確認するように尋ねた。
「この地の平和、ですよね?」
「そうだな。それは私のやりたいことだが、おまえの望みはなんだ?」
逆に聞き返され、『宝剣の主』の意味を履き違えていたことに気付く。あんなに言っても、二人ともまだソランを主と見なしていたらしい。ソランは殿下を咎めるまなざしで見据えた。
「宝剣の主は唯一人です。それは私ではありません。加護を受けた者の願いこそ叶えられなければならないはずです」
「つまりソラン様は、主殿の願いを叶えるべく、それに力をお貸しすると仰るのですね?」
横からジェナスが口を挿む。
「そうです。ですが、それだけではありません。殿下の願いは私の願いでもありますから」
はっきりと言い切ったソランの言葉に、ジェナスは急に表情を失くした。やがて複雑な色を浮かべて微笑む。痛みと切なさを含んだそれは、明らかに傷ついているように見えた。しかし同時に喜びもたしかに感じられ、ソランはどう対応していいのかわからず、思わず息を止めて彼女を見守った。
「お手をお貸し願えますか?」
そう懇願したジェナスはとても儚く見えて、ソランは意味はわからずとも求めを断る気にはなれなかった。右手をさし出すと、それを両手で恭しく受け取り、指先にそっと口付ける。そして顔をあげて、ソランの手を握ったまま、殿下へと向き、静かに頭を下げた。
「感謝申し上げます、宝剣の主殿」
その真意を計り知ることは誰にもできなかったが、それはまぎれもない、深い深い謝意を示した姿だった。
その後もジェナスはソランの手を離すことなく捧げ持つようにし、それにじっと目を落としていた。しばらくして、独り言のように語りだした。
「失われた神は、おそらく『ウリクの双子神』でいらっしゃったと思われます」
ソランは聞き覚えがなく、皆は知っているのだろうかと、それぞれの顔を見まわした。思い当たる節はあるようだったが、詳しいことは誰も知らないようだった。ディーが代表して尋ねた。
「すみません、それは唯一、軍神を降すことができるという双子の片割れの神のことですか?」
「そうです。あなたはどのような話を知っていますか? あなたの知っている話を教えてください」
「たいした話は。ただ、軍関係者にとっては禁忌の神ですよね?」
殿下に話を振る。
「そうだな。ウリクセーヌより強いならそちらを崇めればよいようなものだが、そうするとウリクの嫉妬を買って、戦に必ず負けると言われているからな」
「嫉妬ですか? 自分を崇めずに敵対する神を崇めるから?」
「いいや、たしか違ったと思ったが」
ソランの質問に、確信がなさそうにして、殿下は振り返って背後に控えるディーを見上げた。
「ええ。ウリクセーヌは己の片割れである神を溺愛していたとか。だからその神の気を引くものを憎んだそうで」
ソランは理解がまったくできず、眉を顰めた。だからといって憎むなど、わけがわからなかった。なんとなく、そんな愛を向けられた方こそ、重く煩わしかったのではないかと思った。
ソランの不得要領な顔に察してくれたのだろう、ジェナスが納得できるようなできないような微妙な説明をしてくれる。
「人間が便宜上、親子や兄弟と理解しただけで、神々は血肉で繋がっていらっしゃるわけではありませんから。対である存在は、それだけ繋がりが深かったのでしょう」
ソランはそれに、ふと、母の話を思い出した。
「親子も親子ではないと?」
「父神は主神セルレネレス、母神は冥界の女王マイラであり、その他の神々は皆二柱の子供ということになっております。ですが、セルレネレスはその子神から幾柱もの妻を娶っていらっしゃいますし、また他の神々も兄弟同士で婚姻していらっしゃいます」
そういえばそうである。人の関係に落として考えてはいけなかったのだ。ソランはようやく腑に落ちた。だからセルレネレスは、宝剣の主を殺すほど嫉妬したのだろう。
「双子神の名も、どんな神であったかも伝わってはおりませんが、戦神のウリクセーヌが双子神に降されることによって戦は終わり、平和が訪れるのだと言われております」
「他にも崇められずに忘れられた神々はあるのではないか? なぜ、その神だと言うのだ?」
「ウリクセーヌが天の守護神でもあられるからです。双子神が対の存在でいらっしゃるというのならば、地の守護神でいらっしゃったはず。だからこそ失われた神は、神力を解放してまでこの地を守られたのではないかと思うのです」
全員の視線がソランに集まった。その居心地悪さに、なんですか、と聞く。
「いや、そうだな、聞くだけ無駄か」
殿下が独りごちた。それにむっとして言い返す。
「無駄ってなんですか」
「別におまえを責めてはおらん。覚えているはずのないことを聞いてもしかたなかろう」
「殿下だって覚えていらっしゃらないでしょう」
「ああ。別人の話だとしか思えんな」
「私だってそうです」
なのに、宝剣の主だ、失われた神だ、と言われたところで、実感などあるわけがないのだ。自分たちが古の誰かだったなどと、本当は思ってもいなければ、信じてもいない。関係ないとすら感じている。
それでも、目の前に苦しむ人々がいて、ソランたちがどうにかすることでその人たちが救えるというのなら、やらないではいられない。ただ当たり前のことをしようとしているだけだ。
「私は、先程確信いたしましたよ」
ジェナスが愛しげに、ソランの手の甲を一撫でした。ぞくっとして、思わず体を強張らせる。その感覚はひどく艶かしくて、手を引っ込めたい衝動をありったけの自制心で抑えた。
こんな感覚を与えられて許せるのは、ソランにとって殿下しかいなかった。それ以外はたとえ女性であっても、拒絶感で心がいっぱいになってしまう。今はもうその感覚が何に繋がるか知っているから、無防備ではいられなかった。
それに気付いたのだろう。ジェナスは寂しげに苦笑した。そしてソファから身をのり出し、ソランの手を引いて、斜め向かいに座っている殿下へと引き渡した。
何が起こっているのかわからぬままに背を押され、ソランは隣を空けてくれた殿下の横へと座る。呼び寄せるように肩に殿下の手がのせられて隣を見ると、覗き込んでくる目とかち合い、ソランは安堵が心に広がるのと同時に、どきどきする気恥ずかしさに我慢できず、すぐに俯いた。
「遠い昔、私は巫子でした。常に神意と繋がることによって、神に仕えておりました」
静かな声に、はっとしてジェナスを見た。立ったままの彼女は、先程ソランの手を所望した時と同じに、儚く見えた。
「私は神と一心同体だと思っておりました。神のお言葉を代弁できるのは私だけだと自負し、身も心も捧げて、ただひたすらにお仕えしているつもりでおりました」
彼女は視線を落とし、息を整えるように深く吐いた。
「なんと思い上がったことであったか。恥ずかしさのあまり、消えてなくなってしまいたいほどです。あれは仕えるなどというものではなかったのです。己の才能に振り回された自己満足でしかありませんでした。
私はずっと、神意を失った喪失感から、宝剣の主を恨んでまいりました。けれど、真に神の意志を地上で体現していたのは、私ではなく、彼だったのでしょう。だから神は彼を選ばれた」
ジェナスが再び顔を上げた。ソランを見て、すべてを見通したかのような透き通った美しい笑みを浮かべる。
「覚えておられなくても良いのです。貴女様は貴女様でいらっしゃれば、それだけで良いのです。何も失われてなどいなかったのですから」
そんなわけはない。ソランは人で、神の記憶すらない。なのに、同一だと言わんばかりのそれに、本能的な恐怖を抱く。神と同一視されるなど、耐えられなかった。そんなものに、ソランはどうやってもなれはしない。
ソランは顔を強張らせ、横に首を振った。
「私は違う。違います」
「ええ、そうです。違います。ソラン様はソラン様であって、失われた神ではいらっしゃらない。
けれど、同じ意志を宿す魂が存在するのならば、器は何であろうとかまわないのです。その意志こそが世界を変えるのですから」
ソランは思わず殿下へと振り向いた。ソランを惹き付けてやまぬ意志は、彼にこそ宿っている。
「なんだ、急に。頑固さではおまえに負けるぞ」
殿下は余裕の態度で軽口をたたいた。ソランは呆気に取られた。真面目な話の佳境で、どうしてふざけられるのかがわからない。
「そういうことだろう? どうしてもしたいことがある。どうあっても、どうなっても、せずにはいられない。それを頑固と言わず、何と言うのだ?」
「それはそうかもしれませんが」
なんか全部台無しな感じがする。ジェナスの深遠な含蓄のある言葉も、頑固の一言で一括りにしてしまうなんて。
「それでおまえたちは、宝剣の主を王に据えようとしてきたのだな。この地の守護をさせるために」
「はい」
「だが、王位に就くだけでは成就しなかった。いくらかの騒乱はありはしたが、概ね我が国は安定し、栄えてきた。それを以ってしても加護は解けなかった。
これ以上どうせよと? 世界統一か? そんなものは新たな火種にしかならぬ。それを宝剣の主が望んだとは思えぬ。それとも彼はそれほど野心家だったのか?」
乳兄弟だったというクアッドの話では、領土拡大のための戦には、むしろ反対していたと言っていた。
「いいえ。そのようなことに拘泥してはいませんでした。部下たちの行く先については随分と心配していましたが。それについては私がきちんと請合いましたので、納得していたはずです。後にマイラに彼らへの祝福を願ってもいますし、最期の時に、彼らのことを何か願ったとは考えられません」
「最期?」
殿下は疑問を投げかけ、すぐに自分で答えを導きだした。
「ああ、そうだったか。矢の呪いから逃れるために、一度加護を解いてもらって死んだのだな。だから、今ある加護は、死ぬ間際にもう一度願ったものなのか」
「そうでございます」
殿下は動きを止めて考え込んだ。ソランの肩を抱く手からも力が抜けているのがわかった。ソランは邪魔しないように、息さえひそめて見守った。
やがて、殿下はぽつりと言葉を零した。
「私なら、そんな大それたことは望まぬがな」
ずっと見守っていたソランと目が合うと、急に甘やかに笑う。肩を抱く手に力がこもる。
「私なら、」
ソランは身構えた。いつものあれだと思った。人目を憚らず、赤面するより他はないような口説き文句を囁く気にちがいない。とっさに手が出て、殿下の口を塞いでいた。
なんとも言えない静寂が一同の間に落ちた。ソランは、おかしそうに瞳を煌かせる殿下と見つめあったまま固まった。
「ソラン様、非常に重要な場面なんですが」
ディーが笑いを堪えて指摘してくる。
「重要、ですか?」
「重要ですねえ。ね、ジェナス様」
ディーの言葉につられてそちらを見ると、美しい笑みはそのままに、けれど儚さは消えて存在感の増したジェナスが、妖艶に首を傾げた。
「いいえ、然程は。きっと、お耳汚しの戯言ですわ」
突然、むんずとばかりに手をつかまれ、口を塞いでいたのを外された。殿下が立ったままのジェナスを見上げ、にやりと人の悪い笑みを向ける。
「戯言だと? だが真面目な話だ。その可能性はないのか?」
「さあ、どうでしょうか。そのような話、見たことも聞いたこともございませんが。ただ、そうだとしたら、もう八割方は叶っているのではありませんか?」
笑みは消え、冷たいまなざしで刺々しく言う。
「まさか。まだ序の口だ。先は長いぞ、ソラン」
最後に急に名を呼ばれ、驚いて殿下を見つつ瞬きを繰り返した。
「強欲な」
ジェナスの忌々しいと言わんばかりの断罪口調に、
「恋とはそういうものであろう?」
殿下は聞いた者に鳥肌を立たさずにはいられない台詞を、サラッと口にした。それにとうとうジェナスは舌打ちをして、嫌そうに横を向いてしまった。
ソランには話がまったく掴めなかった。二人が嫌味の応酬をして、どうやら殿下が勝ったらしいことはわかったのだが。
機嫌のいい殿下と、すっかりしらけているらしいジェナスの間で、身を小さくしながら恐る恐る尋ねる。
「あの、それで、どんな願いだったのでしょう?」
「それはもちろん、」
「はっきりしたことはよく調べてからご報告申し上げます」
くるりとこちらを向いたジェナスが、殿下の声を掻き消す勢いで言った。幼子に向けるが如き、それはそれは優しい笑顔であった。
「それまでは、ソラン様が隣に置いてやっている下品な輩の妄想には、耳を貸さないようになさってくださいね。本当にお耳汚しでございますから」
「ずいぶんな物言いだな、ウィシュミシア代表」
「おや、下品な輩が主殿だとお認めになるので?」
どんどん険悪になっていく空気に堪え切れず、ソランは大きな声をあげた。
「喉が渇きました! 小腹も空いた気がします! お茶を用意していただきましょう! イアル、スーシャとファティエラを呼んで!」
一触即発の緊張を霧散させんと、ソランは必死に早口でまくしたてたのだった。