8 その忠誠は誰のために
案内されたのは執務室だった。ディーが扉を開けてくれ、中に招き入れられる。
座っていたジェナスがすぐに立ち上がり、その後ろに立つ従者と共に深く頭を下げた。
ソランはイアルを従えて殿下に歩み寄り、さし伸べられた手に己の手をのせた。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
「気にするな、さほど待ってはおらん。急がなくてもよかったものを」
ソランが軍服で来たことを言っているのだろう。たしかに女装は時間がかかるが、そのせいでドレスをやめたのではなかった。ただ、足元も首元も頼りない格好よりは、こちらの方が気が引き締まるからだ。
ドレスを着ると、ソランも女だということだろう、やはり心が浮き立つのだ。それでこんな風に殿下にエスコートされると、始終ドキドキしてしかたない。
ジェナスは殿下に招請されたと語っていた。ならば、その理由はいくつも有りはしない。戦に関することか、呪いの見解か。そんな話をするのに、浮ついてはおれない。
手を引かれ、早く座れと急かされる。
「いいえ、ご挨拶申し上げないと」
そっと手を引っ込めようとして強く握られる。しかたなく繋いだまま、未だ頭を下げたままのジェナスに向き直ろうとしたが、今度はぐいぐいと引っ張られた。ソランは非難するまなざしを彼に向けた。殿下はひどく面倒くさそうな顔をしていた。
「だから座れと言っている。ミシアとクレアの代表が、タリアの王家と友好関係を結ぶのは知っておろう? なぜそうするのか、理由もわかっているな?」
「はい。宝剣の主を生み出す王家を支えるため、ですね?」
「それは窮余の選択であって、宝剣の主に忠誠を誓うのが本来の形なのだ。つまり、おまえもその対象になる。そうだな、ジェナス?」
「仰るとおりでございます。ご挨拶もせぬうちから、大変失礼いたしました。ウィシュミシア代表を務めております、ジェナスと申します。
改めてお願い申し上げます。どうか御身にお仕えすることをお許しいただきたく存じます」
揺らぐことなく畏まったまま伝えられた言葉に、ソランもまた迷うことなく答える。
「失礼ながら、私にその資格はございません。誠の宝剣の主は、アティス殿下お一人でいらっしゃいます」
「何を言い出すのだ」
殿下が眉間に皺を寄せ、少々怒った声を出した。
「初代の主は、剣を譲った時点で主ではなくなりました。自らの意志で、二代目の主を剣の所有者としたのです。ですから、私がその生まれ変わりだとしても、それは宝剣に触れられるというだけで、主としての資格はないのです」
「お言葉ながら、個人に与えられる加護は、その者一代限りのものにございます。加護の証として与えられたものならば、いずれはその死とともに返されるものにございます」
彼女の言葉の意味するものに、ソランははっとした。
「ならば、殿下が剣を手にできるということは、未だ加護は続いているということなのですね」
「そうでございます。そして、加護があるということは、加護を与えるものが存在するということでもございます」
「……それを行っているのは、私ではありません」
「人は己の顔を見ることはできません。己のすべてを知っているわけではないのです」
「だとしても」
ソランは言葉を切った。自分がこれから言うことが、彼女を酷く傷つけることを本能的に知っていた。だけれど、だからこそ、ソランが彼女に教え諭さねばならぬのだともわかっていた。
「私はただの人でしかありません。神と呼ばれる存在は失われ、二度と取り戻すことはできないのです」
ジェナスは声もなく佇んだ。瞳が揺れ、ソランを凝視している。やがて、苦痛を湛えた目で囁くように尋ねてきた。
「私はいらぬと仰せですか」
「いいえ」
ソランはジェナスから視線を逸らし、少し俯いた。
「ジェナス様のお力はぜひにも欲しいものです。ですが、私にはそれに見合うものをお返しすることができないのです」
そう言ってから、もう一度顔を上げ、彼女の瞳を、力のこもったまなざしでとらえる。
「それでも、お願い申し上げます。大賢者ジェナス様、どうかそのお力をお貸しくださいませ。私と共に殿下に仕え、この国の礎となってほしいのです」
ソランは無意識に殿下と繋いでいない方の手をぎゅっと握り締め、胸元に押し付けていた。それほどに必死だった。虫のよすぎる願いだと知っていた。
だけど、こうする他、考えつかなかったのだ。彼女の望むものを与えてあげられないソランにさし出せるのは、誠意だけだった。
何も言わずに、彼女の申し出に頷いてしまえばよかったのかもしれない。でも、入浴の後、衣裳が濡れないように髪を結い上げられて気がついた。ジェナスと同じ髪型。もしかしたら、彼女は到着してまず旅の汚れを落とし、髪を乾かす間もなく、出迎えるためにあそこに立っていたのではないか。
どれほど寒かったことだろう。その寒さを凌ぐ思いがあったにちがいない。泥だらけの長靴に口付けさえしたのだ。それほどの思いを利用して、騙すように忠誠をとりつけるのは、あまりに惨く不誠実であるとしか思えなかった。そんなことは、ソランにはとてもできなかったのだ。
「私を必要と仰せなのですか?」
静かに問い返したその瞳は、光を反射する鏡面のようで表情が読めなかった。
「はい」
緊張気味に真剣に頷く。
「共に礎となれということは、生涯仕えよということですか?」
「はい」
もう一度、ソランの望みをはっきりと示した。
その答えを受けて、彼女は笑った。婀娜っぽい顔が純真無垢に輝く。それは、はっとするほどの変化だった。
「喜んで。喜んでお仕えいたします」
彼女はすぐさま跪くと、改めて忠誠を誓ってくれたのだった。
それから副官を紹介しあい、改めて挨拶を交わし、お互い疲れてもいることから、本題は明日以降に話し合うことになった。
別れ際に、彼女はソランに、自分のことはジェナスと呼び捨てるようにと進言してきた。遅かれ早かれ、ソランが『様』付けで呼んでよいのは殿下と両陛下のみとなる。その立場に見合った振る舞いをすることは、奢っていることとは違うのだと、静かに諭された。
しかし、一国の代表を呼び捨てて、ディーやその他の者に『殿』を付けて呼ぶのはおかしく、だからと言って、何もないのに急に全員を呼び捨てにするのは、やり難い。そこで、もうしばらくだけ、ジェナスも『殿』付けで呼ばせてもらうようにお願いした。
「なんて可愛らしいお願いでしょう」
彼女は目尻を下げて微笑んだ。そうすると慈愛に満ちた表情になる。その時その時でころころとイメージが変わる、彼女は不思議な人だった。
「ソラン様、おやすみのご挨拶を申し上げてもいいですか?」
今まで誰かにそんなことを聞かれたことはなかったが、挨拶を受け取らない理由はない。疑問に思いながらも頷く。
と、彼女はソランの肩に手を伸ばし引き寄せて、ソランの顔を己の胸に押し付けた。中途半端に屈むのはバランスが取りにくく、勢いもあって、ソランは彼女にもたれかかった。とても柔らかく弾力のあるそこで口と鼻を塞がれて、思わず息を止める。上では頭に頬擦りもされていた。
「おまじないです。こうすると悪夢を見ないのですよ。おやすみなさいませ、ソラン様、良い夜をお過ごしくださいませ」
「ええ、はい、ジェナス殿も」
もごもごと答える。どうにも彼女の胸が邪魔だった。
腕のゆるむ気配に、自分で体を起こすと、今度は淫らなくらいに色っぽい微笑が向けられていた。背筋がぞわっとする。どうも、こういう時の彼女は苦手だと思わざるをえない。なぜか蛇に睨まれた蛙になった気分になるのだ。今にも丸呑みされてしまいそうな。
「では、失礼いたします」
彼女は優雅に腰を折ると、副官を連れて退出していった。
「あんなおまじない、初めてです。ねえ、イアルは知ってた?」
同郷の彼に聞く。
「……いいや」
「ディー殿は?」
「いいえ、私も」
殿下はとばす。知っていたら、毎夜してくれないわけがない。
「ジェナス殿はどこのお生まれなのでしょう。きっとそちらの風習なのですね」
ソランは無邪気に小首を傾げた。
男三人は、あれは絶対おまじないなどではないだろうとわかっていた。ソランを抱きしめながら殿下を見遣った目つきは、挑発以外の何物でもなかったのだ。
三人は三人とも、己の被りそうな被害を想像して、揃って同時に溜息をついたのだった。