8 収穫祭 中編
神殿に人々が納まりきるのを待つ。赤ん坊から年寄りまで総勢六百人ほどの村一つが領地。だから誰もが見知った顔だ。ソランは彼らを良く見回し、それぞれが落ち着いたのを確かめると、祖父に頷いてみせた。
祖父とギルバートが祭壇に登り、中央で跪く。わずかにへこんだ両開きの扉の取っ手を探しあてて、床下に隠された冥界への入り口を開けた。
洞の奥で、微かに風の唸り声が聞こえた。それと共に、清涼な空気が流れだしてくる。窓いっぱいに、万年雪を戴いたハレイ山脈の威容が迫りくるように見え、この冷気が山脈の地下にあるという冥界から、本当に流れてきているように感じられる。
ソランは深く息を吸い込んだ。それだけで、体だけでなく、心まで洗われた心地になる。
他の地では、冥界は忌まわしい所として語られ、同様に女神マイラは死を与える神として恐れられている。しかしこの地では、かの地を死者の揺り籠と呼ぶ。
もともとマイラは大地の女神であり、地に生きるものすべての母神であった。豊穣をもたらし、お産を守り、それらが死んだ後も懐に抱き入れ、生きる間に傷つき疲れた魂を癒し、再び地上に送り出す。
今も天界を統べる主神セルレネレスと諍い、ただ一柱、冥界に住まうことになったが故に、女神は邪神として扱われる。けれど、かの神の本性は違うものであり、地上の生き物を一掃しようとした主神こそが邪神であると、始祖ジェナスは伝えた。
そして、ジェナスの神であった『失われた神』もまた、マイラに味方し、それ故に失われてしまったのだと。
また、こうも伝えた。この地に住まう領民の主は、神が失われる瞬間に神の名を呼び、神の欠片をこの世に留めた英雄である、と。
もちろん、世界が綻び、神が失われるような状況に人の体が耐えられるわけもなく、彼は死に、魂となって自ら欠片を冥界まで届けたという。
マイラは嘆きながらも喜び、見返りとして彼の望み通り、領民に祝福を与えることを誓った。そしていつか、神の欠片が傷を癒した暁には、この地に、ジェナスの末として蘇るだろうと預言した。
ジェナスの末、つまりソランの血筋に、神の魂を宿した者が生まれる。その日のために、領民は神官の一族を守り、一族はマイラに感謝を捧げ続けてきた。
夢物語だ。神々がこの世にいた時代なぞ、何千年前の話になるのか。どこまでが本当で、どこからが作り話なのか分からない。しかしこの地の人々は、違うことなく信仰してきた。
ソランはこの話を思い出すたび、領民の主だったという英雄のことを思う。何一つ自分のことを願わなかった彼の願いが、どうか叶いますように、と。この地の人々が幸せであり、彼が命に代えても留めた存在が、いつの日か蘇りますように。そして、人々の思いが報われますように。
王国が拡大と分裂を繰り返し、数多の戦に荒れた時も、この地は平穏であったという。この地に生きる人々の命と思いが絶えることなく続いてきた奇跡は、まさに女神の恩寵だろう。
女神マイラよ。あなたの祝福に感謝いたします。
ソランは自身の中にあふれてきたものを声に乗せて体の外に送りだした。
それは、言葉のない歌の形をとった。旋律と抑揚が言葉に匹敵する意味を持ち、世界を揺する。そして、世界にちりばめられている秘された真理を顕にしては、人々へと告げた。
それは生の歓喜そのもの。人々は今まさに、神の恩寵を体感していた。
人々は自然と両手を交差させて胸に当てて跪き、いつの間にか祈りを捧げる姿勢をとった。
ソランは己の中を圧倒的な力が通り抜け過ぎ去ってしまうまで歌い続けた。いつしか歌は終わり、人々は身動ぎもできない余韻の中に取り残された。
「女神マイラよ。今日の一日が与えられたことに感謝いたします」
最後にソランも跪き、マイラに祈りを捧げる。
やがて静かに立ち上がり、人々に告げた。
「さあ、我らが誓いを女神に示そう。
マリー・イェルク!」
誇らかにに親友の名を呼ぶ。
「はい」
「女神に捧げる嚆矢を射よ」
「承知いたしました」
彼女は一人、外へと続く扉へと近づき、大きく開け放った。光がさし込み、草の匂いが流れこんでくる。たちまち神殿内は霊験さを失い、生の息吹に満たされた。
マリーは十歩ほど外へ進み出た。その場で体の右側面をこちらに向け、慎重に足元を踏みしめる。そうして背負った矢筒から鏑矢を抜きだすと、弓につがえた。
「女神マイラよ、我らが誓いを見そなわし給え」
高らかに宣言し、弓を引き絞る。狙いを高くつけ、矢を放つ。ひぃぃぃぃんと鳥の悲鳴のような音をたて、矢が空を切り裂いていった。