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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)
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7 ジェナス

 跳ね橋を渡ると城の前は原っぱになっていて、その真ん中を一本道が通っている。見通しを確保するために木の切り払われた吹きさらしのそこに、戦時は兵を集めるのだという。

 領主の出席する収穫祭や春祭りにも、領内から私兵が集まり、色とりどりのテントを張ってとても賑やかになるのだそうだ。しかし、今の季節、しかも日の傾いた今頃は、荒涼として見えて余計に寒々しい。実際半刻も立っていれば、海風に体の芯から冷え切ってしまうだろうと思われた。


 模擬戦から帰ってくると、その一本道に女性が立っていた。燃える炎のような鮮やかな色の髪を高く結い上げ、珍しいことに男装している。おかげで、マリー並みの豊かな胸と引き締まったウエストと熟れた果物を思わせる腰の線が余計に露わになっていた。

 近付いていくと、顔の造作も良く見えるようになった。少したれ気味の目元に、ぽってりとした唇がなんとも婀娜っぽい美女。


 ソランは目が釘付けになってしまった。祖母も妖艶な人だったが、それに引けを取らない。なにより、男装しているのに明らかに女性に見えるのである。女装をしてみせても男だと思われていたソランとは大違いである。これが羨望せずにいられようか。

 ソランは初めて、気が引ける、という気持ちを体験した。この見事な肢体を持つ女性と見比べられたくないと思わずにはいられなかった。今まで自分の体型に期待したことはなかったが、恥じたこともなかった。家族やご先祖とどこかが少しずつ似ている、ソランの必要としているものを全部兼ね備えてくれている大切な体だった。領主としての任に堪えられる頑丈さ、それで満足だったはずなのに。


 その美女がその場に膝をつき、頭を下げた。道をあける気はないようだ。自然と隊列が止まる。ディーが一人馬を進め、彼女の前で馬を降りた。言葉を交わし、助け起こして彼女を連れて戻ってくる。


「よく来てくれたな、ジェナス」


 殿下の呼んだ名に、ソランは目を見開いた。


「招請に従い罷り越してございます、宝剣の主殿」


 慇懃だが、愛想のない挨拶。二人の間には、むしろ冷たい空気さえ漂っていた。

 彼女はいっそ無視するかのごとく殿下から視線を逸らし、何かを探すように視線を彷徨わせた。ソランと目が合うと、なぜか途端に蕩けるような微笑を面にのぼらせる。ふらふらっとやってきて、馬の傍らに両膝をつき、両手を伸ばしてきた。そして、ソランの汚れきった長靴に触れた。

 ぎょっとするが、見上げてきた彼女の色っぽすぎる目に、なぜか心臓が跳ね、背を震えが駆け抜けていく。その、体が一瞬制御できなくなった瞬間を捉えるように、彼女はソランの長靴に口付けた。


「おやめください!」


 ソランは器用に馬を数歩下げさせた。それから飛び降りる。その名の通りの方ならば、ソランの方こそ礼を尽くさねばならぬ相手である。

 イアルがやってきて並び、ほんの少し前に出た。ソランは彼を見遣らなかったが、油断なく彼女に視線を据えているのはわかっていた。


「ご不快でしたか? 大変失礼いたしました」


 彼女は深く頭を下げた。


「そうではありません。私は、只今ジェナシス領の領主を務めさせていただいております。ソランと申します。もしや貴女は」


 それ以上のことを言って良いのか迷い、言葉が途切れる。しかし、理解してくれたのだろう、彼女は一度顔を上げると、頷くようにして頭を下げた。視線が合った瞬間に、またも背筋がざわりとする。腹の底がすかすかとする寄る辺なさを感じる。


「それは古の死者にすぎません。ご覧の通り私は黒髪ですらなく、今は縁も所縁もない者にございます。

ですが、その名に今も意味があると仰ってくださるのなら、それに免じて、この魂が再び貴女様にお仕えすることをお許しいただきたく存じます」


 視線と同じに熱をはらんだ声だった。ソランは既視感に息を呑んだ。拒絶感で心がいっぱいになる。違う、という言葉が強烈に思い浮かぶ。


「私は」


 なんと言えばよいのかわからなかった。彼女の申し出をとても受け入れられなかった。


「ジェナス、控えよ」


 殿下が割って入った。馬をソランの前へ進め、手を差し伸べてくる。何事かと見上げると、手を寄越せと上を向けた掌を振られた。ソラン、と強く呼ばれる。躊躇いながらそこに手を重ねたら、来い、と短く命じられ、ぐいっと引っ張り上げられた。ソランはとっさに地を蹴り、鞍に空いている手を掛け、馬に登った。

 殿下は自分の前にソランを座らせ、ジェナス側の手で彼女の頭を抱え込んで少々手荒に引き寄せると、その視界をさえぎった。


「我等は見てのとおりの有様だ。まずはこれを休ませてやらねばならん。空いた馬を貴女に貸そう。共に城に来られるがよい」


 ソランはジェナスに顔を背けたまま頭を押さえ込まれ、振り返ることもできなかった。硬い鎧に後ろ頭を付け、じっとしているしかない。

 仮にも一国の主からの問い掛けである。答えねばならないことは重々承知していた。今の態度が不躾だということもわかっている。

 それでも、殿下がするままに従い、それに甘えて、ソランは彼女を振り返ろうとしなかった。ぎゅっと目を瞑る。体を支えてくれる殿下にもたれかかる。

 ひしひしと感じる彼女の視線から、逃げたくて逃げたくてたまらなかった。




 珍しく殿下に抱かれて帰り着いたソランを見て、城の女たちはずいぶん心配した。殿下以下男たちは、あんたたちなにやってたのとばかりにキッと睨みつけられ、共同風呂に追いやられた。

 客人に馬を貸しただけで、別になんでもないと言っているのに、ソラン自身の風呂の湯には、高価な花のオイルが落とされ、石鹸はこぼれんばかりに泡立てられて、髪を念入りに洗われた。

 人にやってもらう習慣のないソランは、毎日彼女たちと簡単な言い争いになるのだが、今日という今日は譲れないとファティエラに言い張られ、任せたそれは思いもよらぬほど気持ちの良いものだった。頭をゆっくりと揉み解すようにされていると、体から余分な力が抜けていく。

 バスタブに寄りかかって目をつぶり、されるままになって考え事をする。


 ジェナスから向けられた瞳に宿るものを、いつか見た覚えがあった。嫌な記憶だった気がする。そう、確かとても怖い思いをしたはずだ。

 細い紐を辿るように記憶を手繰る。なんだったか。誰だったか。……ああ、いや、そうか。

 ふと、見上げてくるたくさんの目を思い出す。いっせいに跪き下げられる頭。厳粛な空気。あれは、幼い頃に収穫祭で人々に向けられた目。その得体の知れない熱に怯え、泣き惑って逃げようとした。それと同じ、ソランではないソランを見ている視線だ。


 思い当たって、溜息を噛み殺す。

 領民たちには、領主としての勤めを果たす努力をすることで報いることができる。だが、ジェナスの求めるものは、たぶんソランには与えてやれない。

 彼女も言ったではないか。始祖たるジェナスは古の死者にすぎないと。同様に、()の仕えた神も、遠い昔に失われている。

 ソランは、彼女の神にはなれない。


「そろそろ髪をお流しいたしますね」


 涼やかな声が掛けられ、我に返る。重苦しい不安を心の隅に追いやることにする。答えるために息を吸い込むと、芳しい花の香りが体を満たし、気持ちが和らいだ。


「ああ、ファティ、ありがとう。とても気持ち良かったわ。疲れがすっかり取れた気がします」


 目を開けて、笑顔で礼を言う。


「では、今日はお体も」

「そちらは自分でします」


 ソランは気持ちよさに流されて、うっかりお願いして後悔してしまう前に、にっこりと釘を刺したのだった。

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