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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)
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6 泥だらけの模擬戦

 真珠の養殖場に塩田に港町。ソランは殿下の案内で、連日興味深い視察をした。

 港町にある珍しいものばかりの薬問屋には何度も訪問して、店主夫妻ともずいぶん親しくなった。

 アロナに頼んで真珠入りの酢も貰った。肌が綺麗になるし、女性にありがちな生理痛や便秘にもいいという。蜂蜜を入れ薄めて飲んだそれは、案外と美味しかった。ポイントは香りの良い酢を選ぶことなのだと教えてもらった。


 領地でよく採れるベリー類や林檎で酢を作ってみるといいかもしれないと思いつく。真珠がよく見えるように、容器はガラスがいい。ラベルにも工夫が必要だ。いかにも女性が好みそうな綺麗で可愛らしくてロマンチックなのがいいだろう。そのへんは王都に戻ったらミルフェ姫にでも相談してみようと決める。

 本当ならガラス工房も領地に作りたいぐらいだが、割れやすいそれでは運搬が難しい。やはり樽ごと王都に運び込むのが無難だろう。

 ガラスへの詰め替えやラベル貼りは簡単な仕事だから、慈善事業の時に多く見受けられた子供を抱えた寡婦の仕事に向いているかもしれない。住み込みで雇えば尚いいだろう。


 次々に浮かぶ考えを、食事中に殿下に向かってまくしたてたら、そろそろやってくる予定のウィシュクレア代表、ダニエル・エーランディアを紹介するから、それを顧問にするようにと言われた。

 たしかに、素人の商売では心許ない。クレアの大商人が後ろ盾についてくれるなら、そんな心強いことはなかった。 


 朝食の後のひとときは、スーシャやファティエラと、その子供たちも連れてきて、エランサ語の勉強をした。

 ファティエラの子は、四歳でジュールという。イドリック似の男の子で、言葉が遅いのだという。理解していないわけではなく、片言ながら声も発する。ソランが発音の練習をしているのを穴が開きそうなほど見ている目は理知的だ。こういう子は、ある日突然すらすらと話しだすから心配ないと、アロナは請合った。

 スーシャの子はアデルといって、まだ一歳になったばかりの女の子だ。人見知りをしない性質で、ソランの膝の上に乗って、一緒になって真似てみせるのが、なんとも言えず可愛らしかった。


 また、夕暮れ前の二、三時間は、毎日騎士たちと共に訓練をした。馬上で槍を扱ったり、徒歩(かち)で剣を振り回して汗を流すのは、本当に楽しかった。

 人数が多いので、時には朝から広大な領主のための狩猟場に行き、二手に別れ、剣の代わりに木の棒を持って模擬戦もした。それぞれに守る木を決め、そこに早く辿り着いたほうが勝ちだ。

 殿下は手堅いが攻撃的で、ディーは隙をつくのがうまい。イアルは守りが厚く、負けにくい戦いをする。それぞれに癖があることも知った。


 初めは戸惑った領主としての、或いは、殿下の婚約者としての貴人扱いにも慣れた。

 領主は、小領大領のかかわりなく、国王、王妃、王太子、宰相、将軍、王族に次ぐ位を持つ。殿下の他に貴人のいない、ここキエラでは、領主位を持つというだけで、若輩者のソランでさえ、身分的には殿下の次となるのだった。


 それでもまだ結婚したわけではなく、客人として訪れているので、女主人として采配を振るう必要はなかった。

 ただ好きなことをしていい日々。暇ができれば、軍服に着替えて鍛冶工房に行ったり、台所仕事を見に行ったり、従業員の子供と遊んだり、馬の世話もした。釣りや狩りにも行った。

 キエラでの生活はとても楽しく、充実した毎日であった。

 この先に何が待っているのか見当がついているが故に、よけいに貴重に感じる日々だった。




 その日は模擬戦で、敵の裏をかくために沼を渡り、嬉々として陣の薄いところを突破したところで殿下に立ち塞がられ、ソランは木の棒とはいえ殿下に対して振り上げることが出来ずに右往左往しているうちに、負けてしまった。

 それも本陣が落とされたのではない。要であるソランの動きが封じられてしまったために、攻撃側の大半が討ち取られてしまったのだ。

 終了の狼煙があげられ、軍笛が吹き鳴らされる中、戦場だったそこを見回して、ソランは悄然とした。

 人馬共に泥だらけになった一群がソランを見上げていた。討ち取られた状態なので、馬を降りている。服も革でできた鎧も水を吸って重くなっている上に、一番酷い者は途中で転げ落ちでもしたのか、人型の泥人形のようになっていた。目と歯だけが白い有様である。気がたっていた時はさして気にならなかったそれが、殿下の陣の者たちと並んでみると、実に異様に見えた。

 朝から斥候を出して相手の陣を探し、相手の攻撃ルートを想定して陣容を整え、必要なら簡単な罠も仕掛け、斥候の情報を元に進軍ルートを決め、沼まで越えてここまでやってきた。その一日の行いがご破算になってしまった。

 それもこれもソランの間抜けな行いのせいだ。情けなさのあまり、気分が落ち込む。

 それでも、司令官を務めたからには、皆の前に立たねばならない。


「兵を纏めてまいります。御前を失礼致します」


 ソランは許しも得ないまま馬首を廻らし、自軍の兵のもとへ馬を進めた。




 皆を集め、ソランも馬を降り、申し訳ない、と言おうとしたところで、本隊として囮役を率いてくれた、綺麗な格好のままの百騎長のセルファスが手を伸ばし、ソランの肩を押さえて止めた。


「司令官は、何があっても謝ってはなりません。例え模擬戦であってもです」


 ソランは一瞬息を止め、それから頷いた。

 そうだった。人の命を預かっているのだ。本物の戦場なら、勝っても負けてもそれはソランの責任であり、謝罪程度で償えるものではない。謝罪せねばならない命令など、下してはならないのだ。

 重ね重ねの失態に、ソランは俯いて額に手を当て深呼吸した。そうしながら、うろたえている心を切り離そうと試みる。


「それに、恐らく、責められるべきなのは、ソラン様の策を支えきれなかった我らでしょう」


 ソランは驚いて慌てて顔を上げた。彼の言葉を否定する。


「いいや、そうではない。そんなになってまで、皆よく従ってくれた」


 特に酷い有様の者に目を留めて言うと、軽く笑い声が起きる。皆に悲嘆に暮れた様子はなかった。


「今日はまんまとあちらの策に嵌りましたが、あれがイアル殿やディー殿だったら、確実にこちらの勝ちでした。ソラン様も彼らなら、討ち取るのになんの躊躇いもありませんでしょう?」

「そうだが、しかし」


 負けは負けだ。

 ソランがそう言う前に、彼は今度は彼女の口の前に手を翳した。


「ソラン様の作戦は、いつも面白い。つい、やってみたくなるのです。今日もそうでした。ソラン様が泥だらけで出てきた時の殿下の顔といったら」


 そこここから、俺も見た、と笑い声があがる。


「目をむいて、ぽっかりと口を開けていらっしゃいましたから。あの鉄面皮の殿下に、戦の最中にあんな顔をさせられるなんて、あれだけでも、してやったりですよ」


 完全に負け惜しみである。やはり皆悔しいのである。しかも、ソランの性格を見事に読んだ、子供だましみたいな策にしてやられたのだ。腹立たしくないわけがない。

 ソランは真剣に一つ頷いた。


「ああ、そうだな。次は小手先も効かないような策を立てよう」

「我らも今度こそ策を遂行出来るように、さらなる精進をいたします」

「うん。頼む」


 ソランも苦笑めいたものではあったが、やっと笑みを浮かべられた。


「さて、司令官殿、次は何をいたしましょうか?」


 右手を心臓に当ててみせてくる。セルファスがすると、他の者も皆がしてみせた。


「このままでは冷える。火を焚いて服を乾かすとしよう。急ぎ薪を拾い、火を熾せ」

「承知いたしました」

「散開!」


 ぱっと散っていく。今は汗だくだからまだいいが、汗が引いてくれば、かえって凍えてしまうだろう。

 皆を見送って、歩み寄ってくる気配に顔を向けた。殿下が自分のマントを外し、ソランの肩へと掛けてくれる。ぐいっと頬を指で拭われた。ジャリとする。泥がはねていたのだろう。


「まったく、ひどい有様だ。本隊におまえが見えぬから、こんなことになるかもしれないとは思ったが、まさかこの冬季に本当にやるとは」

「冬季だからこそしたのです。この辺りの夏場の湿地は、虫が怖くて近付けません」


 ヒルに血を吸われるくらいならどうということもないが、暖かい地方では蚊をはじめとした様々な虫に病をうつされかねない。


「なるほど。そういうものか」

「どうしても入らねばならない時は、露出した部分に泥を塗るといいそうです」

「そうか。よく知っているな」

「薬問屋のグラースに聞きました」


 薬を出すのにも、症状と原因を知る必要がある。薬の効能を聞きながら、出てきた話だった。

 ほう、と興味を惹かれたような顔をする。


「そんなところからそんな情報が得られるのか」

「はい」


 戦には様々な情報が要る。地形、天候、動植物については当然として、それ以外にも、そこの住人しか知らないようなことが鍵になることもある。

 例えば、夏場に敵を湿地に追い詰め、一晩閉じ込めたらどうか。それだけで戦わずして勝利を攫めるかもしれないのだ。


「面白い。また興味深い話を聞いたら、教えてくれ」

「はい」


 そう答えながら、ソランはふるりと体を震わせた。さすがに濡れそぼったままで冷えてきた。殿下もそれに気付き、火の用意をしている場所へと誘う。


「しっかり乾かしてから帰らねばならんな。さあて、これを見てアロナ婦人はどんな顔をするやら。楽しみだな、ソラン?」


 からかう口調に、はっと顔色を変えて、ソランは殿下に頼み込んだ。


「すみませんが、洗濯係の者に特別手当を出してやっていただけませんか。泥汚れは取り難いのです。この人数分の洗濯は大変にちがいありません」


 ソランとて、下着までぐっしょりだ。どこからか入り込んだ泥や砂で、気持ちが悪いことこの上ない。着ている物すべてが洗濯対象だ。それに、鎧も手袋もブーツも手入れが必要だ。今さらながらに考えなしだったかもと思いはじめる。


「それはかまわんが。気になるのはそっちだけなのか? ……ああ、そうか、もしかして小言を受けるのは私だけなのか」


 後半は嫌そうに顔を顰めながら何事か口の中でぶつぶつと呟く。よく聞こえなかったので、ソランは聞き返した。


「どうかなさいましたか?」

「どうもしない」


 ぽん、と頭の上に手をのせられ、ぐりぐりと撫でられた。


「アロナ婦人でなくても、確かにこれを叱る気にはなれんな」


 そして、意味不明の独り言を諦め顔で呟いたのだった。

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